かつてのオサフネ3
その夜は、月が出ていなかった。
結衣は、嫌な予感に震えながら、記憶の流れに身を任せていた。
やめて、と思った。
この先を見たくない、と思った。でも、記憶は止まらない。九十九楠が見てきたものを、結衣はただ、見せられていく。
夜更けの上村の屋敷。
刀の間の襖が、音もなく開いた。
当主が、立っていた。
手燭の灯りが、その顔を下から照らしている。能面のように、表情がなかった。
当主は、刀掛けに歩み寄ると、白い鞘を手に取った。
「……こんな夜更けに、何用じゃ」
オサフネの声が、刀から響いた。
当主は、答えなかった。
答えないまま、刀を腰に差し、廊下を歩き出した。
「おい。どこへ行く」
答えはない。
「おい――」
屋敷を出る。供は連れていない。たった一人、闇の中を、当主は歩いていく。
坂を下り、町を抜け、その足が向かう先は――。
オサフネは、気づいた。
この道は。この方角は。
「……まさか」
町外れの、鍛冶場だった。
◇
「やめよ」
鍛冶場の前で、オサフネは言った。
「何をする気か知らんが、やめよ。ここは、ワシが――」
「黙れ。道具が」
当主は、戸を蹴り開けた。
炉の残り火が、ぼんやりと中を照らしていた。奥から、人の起きる気配がする。
「誰じゃ、こんな夜中に……」
現れたのは、光忠だった。寝間着のまま、杖をついて、目を細めている。
光忠は、独り身だった。
妻には先立たれ、子はなく、弟子も取らなかった。
「わしの技は、わしの代で終わりでええ。あの刀を打てたんじゃ、もう思い残すことはない」――いつか、そう笑っていた。
だから、この鍛冶場には、光忠ひとりしかいない。
当主は、無言で、刀の柄に手をかけた。
オサフネは、悟った。全身が、凍りついた。
「やめよ」
声が、震えた。
「やめよ、やめよやめよ! 正気か! この者が、何をした!」
「知りすぎた」
当主の声は、どこまでも静かだった。
「それだけで、十分だ」
「ふざけるな! ワシは斬らんぞ! 光忠だけは、絶対に斬らん!!」
オサフネは、全力で抗った。
刀身を、鞘の中に縫い止めようとした。神の力のすべてを振り絞って、抜かれまいとした。
だが。
ずるり、と。
刀身が、鞘から、引き抜かれていく。
祀られた神は、祀り主に逆らえない。
その縁の縛りが、鎖のようにオサフネを締めつける。
何十年も、この家との縁に生かされてきた神は、その縁を、自分から断ち切ることができない。
縁の神であるがゆえに。
縁に、縛られる。
「やめろ……やめてくれ……!」
オサフネの絶叫は、もう、誰にも届かなかった。
白刃が、闇の中で、抜き放たれた。
光忠は、その刃を見上げた。
自分が打った、最高傑作の刃を。
逃げなかった。
杖を握ったまま、まっすぐに、立っていた。
そして、刃ではなく――その向こうにいる、刀の神に向かって、静かに言った。
「……すまんのう」
それが、最初の言葉だった。
「お前に、こんなことをさせる」
オサフネは、最後の力で叫んだ。
「光忠! 逃げよ! ワシのことはええ! 逃げてくれ!!」
光忠には、その声が、聞こえていたのだろう。
「……ああ、くそ」
老いた名工は、ふっと、笑った。
「こんな刀、打つんじゃなかったとは、言えんのが悔しいのう」
あの、鍛冶場の夕日の中で見せた笑顔と、同じ顔だった。
「ワシの、最高傑作じゃけぇな」
光忠は、刃に向かって、言った。
「お前は、悪うない」
白刃が、振り下ろされた。
◇
結衣は、目を背けることもできなかった。
目を閉じることも、顔を覆うことも、できない。
ただ、見ているしかなかった。
炉の残り火だけが、ちろちろと、燃えていた。
灯りの消えた鍛冶場に、もう、動くものはなかった。
当主の手の中で。
血に濡れた刃の中で。
オサフネは、壊れていた。
「あ……ああ……」
声に、ならなかった。
斬った。
斬ってしまった。
この刃で。この身で。自分を打ってくれた、あの手を。「人を守るために」と願ってくれた、あの声を。
「わしの最高傑作じゃ」と笑ってくれた、あの顔を。
自分の生みの親を、自分の体で、斬った。
「ああああ……あああああああ……!!」
刃が、慟哭した。
その瞬間だった。
胸の奥に溜まりに溜まった澱みが、怨念が、黒い何かが――一気に、噴き上がった。
当主の手の中で、刀が、激しく震えはじめた。
「な、なんだ……?」
当主が、初めて、声を上げた。
刀身から、黒い靄のようなものが立ちのぼっている。
同時に、白い鞘からは、銀色の光が漏れ出していた。黒と白が、刀を中心に、渦を巻く。
びきり、と。
骨の鳴るような、木の裂けるような、嫌な音がした。
渦の中に、神の姿が浮かび上がる。
銀の髪は、もうほとんど黒に呑まれていた。
その体の真ん中に――細い、線が走っていた。
額から、鼻筋を通り、喉を抜けて、胸の中央へ。
まるで見えない刃が体を通り抜けたかのような、まっすぐな線。
その線を境に、右と左で、色が分かれはじめていた。
白と、黒に。
『なぜ、止められなかった?』
黒い半身が、言った。
「ワシは……ワシは……」
白い半身が、泣いていた。
『簡単なことじゃ。お前が、人間との縁に縛られていたからじゃ。上村との縁。祀られた神という鎖。お前が後生大事に守ってきた、人間とのつながりが――光忠を殺した』
「違う……!」
『違わぬ!! 見よ! 縁とは何だ! 結べば縛られ、縛られて、親を斬らされる! 人間は神を拝みながら、道具と呼ぶ! 都合のいいときだけすがり、都合が悪くなれば刃に変える! それでもお前は、まだ人間との縁を守るのか!!』
「それ、でも……」
白い声は、もう、消え入りそうだった。
「それでも、ワシは……人が、好きじゃ……」
『…………』
「縁を結んで、笑うてくれた顔を、覚えとる……夫婦が、また畑に並んだ朝を、覚えとる……光忠が、ワシを誇ってくれたことを……覚えとる……」
『その光忠を、誰が斬った』
「……っ」
『その手で、斬ったのは、誰だ』
「ああ……ああああ……」
「もう、ええ……もう、ええんじゃ……」
白い半身が、泣いていた。
『ああ。もう、いい』
黒い半身が、嗤っていた。
「人を信じたい心と」
『人を見限った心は』
「「もう、一つには、戻れぬ」」
二つの声が、重なった。
その瞬間。
ぴしり、と線が、音を立てて裂けた。
まばゆい光と、深い闇が、同時に弾けた。
結衣は、何も見えなくなった。
光と闇の奔流の中で、何かが引き裂かれる音だけが、響いていた。
それは、布を裂く音にも、骨を断つ音にも、そして――泣き声にも、聞こえた。
やがて、光が収まったとき。
夜の鍛冶場に、二人の神が、立っていた。
一人は、白。
銀の髪、白い装束。見慣れた、ジト目。今の、オサフネだった。けれど、その姿は、どこか希薄で、頼りなく見えた。
もう一人は、黒。
黒い髪、黒い装束。同じ顔、同じ背格好。けれど、その目には、白いほうにあるはずの柔らかさが、ひとかけらもなかった。
鞘の神と、刀身の神。
一つだった神は、二つに、分かたれた。
当主は――その光景の前で、ただ、立ち尽くしていた。
手の中には、刀身の抜けた、空の鞘だけが残っている。
目の前で何が起きたのか、この男には、何ひとつ、理解できていなかった。
神が引き裂かれる音も、その意味も、自分が何を壊したのかも。
黒い神は、白い半身を、一瞥した。
それだけだった。
言葉は、なかった。もう、交わすべき言葉など、何ひとつ残っていなかった。
黒い神は、踵を返した。
『人間は、都合のいいときだけ神を使う。そんなものに、従う理由はない』
誰に向けたのでもない、低い声だけを残して。
刀身のオサフネは、夜の闇に、消えた。
その声に、もう柔らかさはなかった。
鍛冶場の前には、白い鞘の神と、立ち尽くす当主だけが、残された。
オサフネは、その場に、くずおれた。
半身を失った体は、ひどく軽くて、ひどく、寒かった。
◇
『……その後の上村家のことは』
九十九楠の声が、記憶の合間に、静かに響いた。
『語るほどのことも、ないがの』
守り神の半身を失った上村家から、潮が引くように、運が去っていった。
縁を断たれた者たちの不信は、巡り巡って当主に返り、家臣は離れ、領地は痩せ、あれほど栄えた港からも、船が消えた。
『当主は最後まで、何が起きたのか分からぬままじゃった。神の祟りじゃと喚いて、寺だの祈祷だのにすがってのう。……自分が壊したものの大きさを、知ることもなく』
上村の家は、坂を転がるように没落した。
それでも、家だけは、細々と続いた。白い鞘の神が――半身を失ってなお、その家を、見捨てなかったからだ。
『なぜ、と思うかの』
九十九楠の声が、結衣に問うた。
『あれほどの仕打ちを受けて、なぜ、鞘の神は上村の家に残ったのか。……簡単なことじゃ。あの白い神はの、人を信じる心だけが残った神じゃ。裏切られてなお、信じることしかできんかった。それが、あの神の性分なんじゃよ』
◇
記憶が、薄れていく。
八百年前の頭道が、夜の鍛冶場が、くずおれた白い神の姿が――水に溶ける墨絵のように、ゆっくりと、ほどけていく。
結衣の意識が、引き戻されていく。
深いところから、浅いところへ。過去から、今へ。
その間ずっと、結衣は、泣いていた。
声も出せない、涙も流せない、観測者のままで。それでも、心だけが、ずっと泣いていた。
◇
気がつくと、結衣は、丑寅神社の境内に立っていた。
九十九楠の切り株の前。自分の手が、切断面に触れたままになっている。
空は、夕暮れに染まっていた。触れたときは、まだ昼だったのに。
ほんの一瞬のようにも、何日もの長さにも感じられた記憶の旅は、現実では、数刻だったらしい。
結衣の頬を、涙が伝っていた。
今度は、本物の涙だった。あふれて、あふれて、止まらなかった。
「……ひどいよ」
誰に向けたものでもない言葉が、こぼれた。
「ひどいよ……あんまりだよ……」
刀身のオサフネ。
神々の力を奪い、九十九楠を斬った、黒い神。オサフネと対の力を持つ、縁を断つ者。
きっと、次合う時は敵だ。
でも。
結衣は、見てしまった。
あの神が、かつては、人の縁を結んで笑っていたことを。
光忠の鍛冶場で、夕日に照らされて、嬉しそうにしていたことを。
人間に裏切られて、道具と呼ばれて、生みの親を自分の刃で斬らされて――それでも最後まで、白い半身は「人が好きじゃ」と泣いていた。
その白い心ごと引き裂いて、黒い半身は、闇の中へ消えていった。
「黒いオサフネさまは……悪い神なんかじゃ、なかった」
結衣は、切り株に向かって、呟いた。
「もともとは、おんなじ……人を救う、優しい神さまだったんだ。人間が……うちのご先祖が、あの神さまを、あんなふうにしちゃったんだ」
悪い神なんかじゃなかった。
悪くなったんじゃない。
悪くされてしまったのだ。
上村の家が。
結衣の、家が。
その事実が、胸に重くのしかかった。
そして、もうひとつ。
結衣は、気づいてしまった。
オサフネが――鞘のオサフネが、なぜ、何も話してくれなかったのか。
辛い記憶だから。半身が堕ちた話だから。それも、あるだろう。でも、きっと、それだけじゃない。
あの過去には、結衣の先祖の罪が、刻まれている。
話せば、結衣が傷つく。自分の家がしたことを知って、結衣が、罪の重さを背負ってしまう。
だから、黙っていたのだ。
八百年前に人間に裏切られた神様が、八百年後の人間の女の子を、傷つけないために。
「……オサフネさまは、あたしを守るために、黙ってたんだ」
涙が、また、あふれた。
『これが、八百年前の、真実じゃ』
「九十九楠の、神さま……」
『娘よ。ひとつだけ、言うておく』
切り株の年輪が、最後の光を、淡くともした。
『あの黒い神を、救えるのは……縁を、結ぶ者だけじゃ』
「縁を……結ぶ者……?」
『鞘の神の力でも、断ち切れぬ。力ずくでも、ねじ伏せられぬ。あの神の中に積もった八百年の澱みは、断つのではない。……結び直すのじゃ。あの神と、人との縁を。もう一度、最初から』
結衣は、切り株を見つめた。
『それと、もうひとつ。……あの黒い神は、最後に必ず、鞘を取りに来る。己が究極の神に成るための、最後のひと欠片じゃからの。そう遠くない日に、必ず』
「……っ」
『そのとき、何ができるか。それは、わしには分からん。じゃが――』
声が、遠ざかっていく。
『お前さんは、もう、知っておる。あの神が、本当は、何を欲しがっておったのかを』
年輪の光が、ふっ、と消えた。
それきり、何度呼びかけても、声は、返ってこなかった。
九十九楠の記憶は、すべてを伝え終えて、静かに眠りについた。
◇
家に帰り着いたころには、もう、すっかり夜になっていた。
「遅かったのぅ」
縁側に、オサフネが座っていた。
いつもの、白い甚平。いつもの、ジト目。いつものように茶をすすって、いつものように、結衣を見上げる。
「どこをほっつき歩いておった。ペロが腹を空かせて鳴いとったぞ」
「……すみません。ちょっと、寄り道してて」
「ふん。まあええ。飯は炊いてある」
いつも通りの、オサフネだった。
九十九楠が斬られたことも、対の力のことも、何も話す気はないらしい。
今日あったことなど、まるでなかったかのように、振る舞っている。
結衣は、その横顔を、じっと見た。
銀色の髪。白い装束。あの夜、半身を失って、鍛冶場にくずおれていた、白い神。
八百年間、ずっと半分のままで、それでも人間のそばにいてくれた神様。
言いたいことが、たくさんあった。
全部知ってます、と。あなたは何も悪くない、と。ひどい目に遭ったのに、それでも人間を見捨てないでいてくれて、ありがとう、と。うちのご先祖が、ごめんなさい、と。
でも。
結衣は、何も言わなかった。
言えば、オサフネは、結衣が過去を見たことを知る。
八百年隠し続けてきた傷を、暴かれたと知る。
結衣に罪悪感を背負わせまいとしてきた、その優しさごと、無駄にしてしまう。
だから、言わない。
知らないふりをする。いつも通りの、結衣でいる。
「オサフネさま」
「なんじゃ」
「……ごはん、食べましょっか」
「じゃから、さっきからそう言うとるじゃろうが」
オサフネが、呆れたように立ち上がる。
その背中を見ながら、結衣は、心の中で、そっと誓った。
――オサフネさま。あたし、知っちゃいました。
全部、見ちゃいました。だから、もう、知らんぷりはできません。
でも、今は言いません。オサフネさまが隠したいなら、隠したままでいい。
いつか、黒い神が来る。
そのとき、自分は何を言えばいいのか。
まだ分からない。
でも、ひとつだけ決めた。
白のオサフネさまも、黒のオサフネさまも。
どちらも、ひとりにはしない。




