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かつてのオサフネ2

 記憶の中の時間が、また流れていく。


 季節が巡り、年が過ぎる。結衣がまばたきをするたび、町の景色が少しずつ変わっていった。


 そして、上村家の当主も、変わっていった。


 最初は、誠実な領主だった。納められた刀に「恥じぬ政を」と誓った、あの若い男。オサフネの力を借りるときも、いつも民のためだった。


 けれど。


 歳月は、人を変える。


 領地は豊かになった。

 頭道の港には船が集まり、市は栄え、上村の名は近隣に轟いた。


 それはオサフネの力もあったし、当主の手腕もあった。


 だが、豊かさは、同じだけの欲を連れてきた。


 最初の年は、刀の前でよく頭を下げた。


 次の年には、頭を下げる時間が少し短くなった。


 さらに数年後には、立ったまま願うようになった。


 そしていつしか、願いではなく、命令になった。


 いつしか当主は、屋敷の奥で、険しい顔をしていることが増えた。


 家臣を疑い、隣国を警戒し、商人の動きに目を光らせる。手に入れたものを失うことを、何よりも恐れるようになっていた。


 そして、ある日。


「オサフネよ」


 当主が、オサフネを祀る奥の間――刀の間で言った。もう若くはない。目尻にしわが刻まれ、その目には、昔のまっすぐさの代わりに、濁った光が宿っていた。


「西の港の商人、知っておるな。あの男と、博多の豪商との縁を――断て」


 オサフネは、当主を見た。


「……あの商人が、何ぞ悪さでもしたか」


「いいや」


「では、あの縁は悪縁ではない。むしろ良縁じゃ。あの取引が成れば、西の湊はもっと栄える」


「栄えすぎるのだ」


 当主の声は、低かった。


「あの男は力をつけすぎた。これ以上太れば、いずれ上村の言うことを聞かなくなる。今のうちに、縁を断っておく」


「……それは、民のためではない。お主の、保身のためじゃろう」


「領主の安泰は、領地の安泰だ。同じことよ」


「同じではない」


「オサフネ」


 当主は、刀の鞘に手を置いた。


「お前は、上村家に祀られた神だ。刀は、主に従うもの。違うか」


 オサフネは、何も言い返せなかった。


 結衣は、もどかしさに叫びそうになった。


 断ればいいのに。そんな命令、聞かなければいいのに。神様なんだから――。


 でも、できないのだ。


 オサフネは、縁の神。そして、祀られた神は、祀り主との縁に、誰よりも深く縛られる。


 上村家がオサフネを祀り、オサフネが上村家を守る。その縁こそが、オサフネという神の存在の根なのだ。


 縁を司る神が、縁に縛られて、動けない。


 なんて、皮肉なんだろう。


 オサフネは、長い沈黙のあと、そっと目を伏せた。


「……一度だけじゃ」


 その夜、西の港の商人と、博多の豪商との縁が、断たれた。


 誰の目にも見えない、静かな断絶だった。文のやりとりが途絶え、約束が流れ、互いの心に、理由のない不信感だけが残った。商談は消え、二度と結ばれることはなかった。


 オサフネは、それを成し遂げた瞬間――自分の胸の奥に、小さな、冷たいものが生まれたのを感じた。


 澱み、としか言いようのないもの。


 正しくない断絶は、断った側にも、痕を残す。


 その夜、オサフネは鏡を見た。


 銀の髪に混じる黒い筋が――ほんの少しだけ、増えていた。


    ◇


 一度きり、のはずだった。


 けれど、一度許したものは、二度目を呼ぶ。二度目は三度目を、三度目は、その先を。


「東の家老と、その配下たちの縁を断て。あの者は力を持ちすぎた」


「隣領の姫と、若君の縁談を潰せ。あの両家が結ばれては困る」


「あの村の者どもと、寺の縁を断て。寺が民を束ねると、年貢の取り立てに障る」


 当主の命令は、止まらなかった。


 そのたびに、オサフネは断った。家臣と仲間の縁を。愛し合う若い二人の縁を。民と祈りの場の縁を。


 誰の目にも見えないところで、人と人とのつながりが、音もなく切れていく。


 切られた者たちは、理由も分からぬまま、孤独になった。


 昨日まで笑い合っていた友と、なぜか目を合わせられなくなる。


 想い合っていたはずの相手が、急に遠い人になる。何かが欠けたまま、それが何かも分からずに、生きていく。


 結衣は、それを、ただ見ていることしかできなかった。


「やめて……」


 届かない声で、何度も言った。


「オサフネさま、もう、やめて……そんな顔、しないで……」


 縁を断つたび、オサフネの銀の髪に、黒い筋が増えていった。


 最初はひと筋。やがてふた筋、み筋。墨を流したような黒が、少しずつ、少しずつ、銀を侵していく。


 そして――いつからだろう。


 オサフネの中に、もう一つの声が、生まれていた。


『……なぜ、ワシがこんなことを』


 縁を断った夜、オサフネの内側で、低い声が呟く。


『人の縁を整えるためにワシは在る。それを、こやつは……』


 それは、オサフネ自身の声だった。けれど、昼間のオサフネよりも、ずっと暗く、ずっと冷たい。


 胸の奥の澱みが、声を持ちはじめていた。


 オサフネは、その声を、必死に抑え込んだ。


「……それでも、ワシは、上村の神じゃ。この家を、この町を、守らねばならん」


『守る? 守って、どうなった』


「……」


『縁を断たれた者たちの顔を見たか。お前が結んでやった夫婦は、お前が断った縁談の二人は、今ごろどうしておる』


「黙れ!」


『人間は、お前を道具としか思うておらん』


「黙れと言うておる!!!!」


 夜の闇の中で、オサフネは、一人、自分自身と争っていた。


 結衣は、その姿を見ていられなかった。


    ◇


 ある日、オサフネは、当主に抗議した。


「もう、やめにせんか」


 刀の間で、オサフネは当主の前に立った。


「お主の命じる断絶は、もはや政ではない。ただの保身じゃ。これ以上、罪なき縁を断たせるなら、ワシは――」


「ワシは、なんだ」


 当主は、冷たい目で、オサフネを見下ろした。


「祀られた神が、祀り主に逆らえるのか。言ってみよ」


「……」


「言えまい」


 当主は、ふっと笑った。それは、かつて「恥じぬ政を」と誓った男の顔ではなかった。


「オサフネ。お前は、よう尽くしてくれた」


「……」


「だからこそ忘れるな。尽くすのが、お前の役目だ」


「ワシは道具ではない」


「刀が、道具でなくて何だ」


 道具。


 その一言が、落ちた瞬間。


 オサフネの中で、何かが、音を立てた。


『……聞いたか?』


 内側の声が、笑った。昏く、静かに。


『道具、じゃと。何十年も、この家のために縁を整えてきたワシを、道具と呼んだぞ』


「……黙れ」


『人間とは、そういうものじゃ。神を拝むのは、都合のいいときだけ。用が済めば、道具。それが、人間じゃ』


「黙れ……!」


 オサフネの銀の髪は、もう、半分ちかくが黒に染まっていた。


    ◇


 その噂は、町外れの鍛冶場にも届いていた。


 西の湊の商談が、不可解に流れたこと。仲の良かった家臣たちが、急によそよそしくなったこと。決まりかけていた縁談が、理由もなく消えたこと。


 ひとつひとつは、よくある話だった。


 けれど、それが上村家に関わる場所でばかり起きていることに、光忠は気づいていた。そして、それが何を意味するのかも。


 光忠は、もうずいぶんと老いていた。腰は曲がり、槌を振るう回数も減った。


 それでも、その目だけは、昔のままに鋭かった。


 ある日、光忠は、杖をついて、上村の屋敷を訪ねた。


「刀鍛冶の光忠めにございます。お館さまに、お目通りを」


 当主は、広間で光忠を迎えた。


 かつて、刀を納めに来た名工を、上座に招いてもてなした男は、もうそこにはいなかった。上座から、冷たい目で老人を見下ろしているだけだった。


「何用だ、爺」


「……折り入って、申し上げたきことが」


 光忠は、床に手をついて、深く頭を下げた。


「あの刀を――あの神を、私欲に使うのは、おやめくだされ」


 広間の空気が、凍りついた。


「あれは、人の縁を守るために生まれた神。人の縁を、政の道具に使うためのものでは、ありませぬ」


「……ほう」


 当主の声は、低かった。


「下賤の鍛冶屋風情が、領主のやり方に口を出すか」


「口も出しましょう」


 光忠は、頭を下げたまま、はっきりと言った。


「あの刀は、わしが魂を込めて打った、わしの子も同然。その子が、泣いておりますのじゃ。親が、それを黙って見ておれましょうか」


 結衣は、息を呑んだ。


 オサフネも――刀の間から、その声を聞いていた。


 子も同然。


 その言葉が、オサフネの胸の奥の、まだ黒く染まりきっていない場所に、深く、深く沁みた。


 ああ、そうだ。あの鍛冶は、ずっとそうだった。神として拝むでもなく、道具として使うでもなく。ただ、我が子として、案じてくれていた。


 あの鍛冶場の、夕日の色を、オサフネは思い出していた。


「……爺」


 当主の声が、氷のように響いた。


「その刀は、上村家のものだ。納めたのは、お前自身であろう。今さら、使い方に文句をつけるか」


「納めたのは、刀にございます。神の心までは、納めておりませぬ」


「言いよるわ」


 当主は、笑った。笑っていたのは、口だけだった。


 そのとき――当主の頭の中で、何かが、冷たく計算を始めていた。


 この爺は、知っている。


 上村家が、神の力で何をしてきたか。誰の縁を断ち、誰を孤立させ、何を潰してきたか。

 すべてではないにせよ、察している。


 もし、これが外に漏れたら。


 民の信を失う。家臣の心が離れる。近隣の領主たちに、付け入る隙を与える。

 築き上げてきたものが、すべて崩れる。


 長年、当主の心を蝕んできた猜疑心が、静かに、結論を出した。


 ――秘密を知る者は、消す。


「爺よ」


 当主は、立ち上がった。


「お前の忠義、しかと受け取った。今日のところは、帰るがよい」


「……お聞き届け、いただけますのか」


「考えておこう」


 光忠は、深く頭を下げて、屋敷を後にした。


 その曲がった背中を、当主は、広間から、じっと見送っていた。


 その目には、もう、迷いはなかった。


「ならば――その絆ごと、断ち切ってくれる」


 誰もいない広間に、低い声だけが、落ちた。

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