かつてのオサフネ1
オサフネは、何も言わずに帰ってしまった。
斬られた九十九楠の前で、結衣は一人、取り残されていた。
さっき、「対の力とは、誰のことか」と聞いても、オサフネは何も答えてくれなかった。
ただ、断たれた切り株を見つめて、「来てしまったか」と、遠い声で呟いただけだった。
思えば、祭りの夜からずっと、オサフネはおかしかった。
口数が減って、考え込んで、結衣を遠ざけて。
そして今日、この九十九楠を見たオサフネの顔は――今まで見たこともないほど、暗かった。
結衣には、何が起きているのか分からなかった。
でも、一つだけ確かなことがある。オサフネは、何かを知っている。そして、それを結衣に話したくないと思っている。
「……オサフネさま」
結衣は、倒れた九十九楠を見た。
樹齢九百年の御神木。この木に宿っていた神は、ついさっき、結衣とオサフネの目の前で消えた。「縁を断つ刃」「お前と対の力」――そう言い残して。
オサフネは、あの言葉に、はっきりと反応していた。この御神木と、オサフネが隠していることは、きっとつながっている。
「……知りたい」
ぽつりと、声に出していた。
オサフネのことを、もっと知りたい。あんなに苦しそうなオサフネを、放っておけない。神の問題だと言われても、ただ見ているなんて、できなかった。
結衣は、切り株に歩み寄った。
なめらかに断たれた切断面。九百年分の年輪が、幾重にも渦を巻いている。その一つひとつが、この木が見てきた歳月だった。
結衣は、そっと、その切断面に手を触れた。
冷たい木肌の感触。
その、瞬間だった。
『――触れたか』
声が、頭の中に響いた。
結衣は、びくりと手を引きかけた。さっき消えたはずの、木の神の声。
いや、声というよりも、木そのものに刻まれた、記憶の残響のようなものだった。
「九十九楠の……神さま? でも、さっき……」
『わしの魂は、もう尽きた。じゃが――九百年のあいだ、この地で見てきたものは、年輪の一つひとつに刻まれておる。それだけは、まだ、ここに残っておるのじゃ』
切断面の年輪が、ほのかに光りはじめた。淡い、金色の光。
『娘よ。お前さんは、知りたいのじゃろう。あの神が――長船乃比売が、なぜ、ああなってしもうたのかを』
「……はい」
『よかろう。わしら土地の神は、みな根の下で、石の下で、つながっておる。この頭道で起きたことは、よかれあしかれ、木々や石を伝うて、わしの元へ届いておった。九百年分、すべてな』
「全部……見てたんですね」
『見ておった。あの神の誕生も。あの神が、二つに裂かれた日のことも』
結衣の心臓が、どくりと跳ねた。
二つに、裂かれた。
『わしが見てきた記憶を、お前さんに共有しよう』
年輪の光が、ぐるぐると渦を巻きながら、強くなっていく。
『これは、今から八百年ほど前の話じゃ。長船の刀が、まだ一つだったころの――』
光が、結衣を包んだ。
ぐらり、と足元が消える感覚。体がどこかへ、深いところへ引っ張られていく。結衣は、思わず目を閉じた。
そして、ふたたび目を開けたとき。
そこは、結衣の知らない、頭道だった。
◇
空が、妙に広かった。
カブトガニが一匹も飛んでいない。
電線も、ウミネコ放送も、ロープウェイもない。
坂の上から坂の下まで、ただ人間の足音だけがあった。
ずっと、ずっと昔の頭道だ。
「ここ……」
結衣は、自分の声に驚いた。そして、もっと驚いた。
手が、ない。足も、ない。
自分の体を見下ろそうとしても、そこには何もなかった。
透き通った空気のように、自分という存在が、希薄になっている。試しに、通りすがりの女の人に触れようとした。
指は――あるはずの指は、女の人の体を、すうっとすり抜けた。
「あ……そっか」
これは、記憶の中。
自分は、ここにはいない。ただ、見ることしかできない。声も届かない。触れることもできない。ただの、観測者だ。
結衣は、ふわふわと宙に浮いたまま、その町を見渡した。
やがて、視界が、町外れの小さな鍛冶場へと、引き寄せられていく。
◇
鍛冶場では、一人の刀鍛冶が、槌を振るっていた。
白髪まじりの、初老の男だった。
けれど、その目は、火のように鋭い。真っ赤に焼けた鉄を、何度も、何度も打っている。
汗が、額から滴り落ちる。火花が、闇の中に散る。
何日も、何日も、その作業は続いた。
記憶の中の時間は、不思議だった。結衣がまばたきをするたび、日が昇り、日が沈む。
何日もの時間が、流れるように過ぎていく。それでも、刀鍛冶の槌の音だけは、ずっと、絶えることなく響いていた。
そして――ある夜。
一振りの刀が、打ち上がった。
結衣は、息を呑んだ。声は出ないけれど、心が、震えた。
美しい刀だった。
刀身は、澄んだ水のように冴えわたり、白い鞘は、漆塗りの艶やかな光をたたえている。月明かりを受けて、刃文が、ゆらゆらと揺れて見えた。
刀鍛冶は、その刀を両手で捧げ持ち、しばらく、じっと見つめていた。
「……できた」
しわがれた声が、呟いた。
「わしの、最高傑作じゃ」
その瞬間だった。
刀から、淡い光が立ちのぼった。
光は、ゆっくりと人の形をとっていく。
『……生まれた、ということか』
声がした。
結衣は、はっとした。聞き覚えのある声。でも、少しだけ、違う。
刀のかたわらに、一人の少女が立っていた。
銀色の髪。けれど、その所々に、墨を流したような黒い筋が混じっている。
黒地に白をあしらった、ふしぎな装束をまとっている。そして――半分閉じたような、見慣れた、ジト目。
オサフネだった。
いや、オサフネによく似た、けれど、結衣の知らないオサフネ。
白でもなく、黒でもない。白と黒とが、一つの体の中に、溶け合うように共存している。
「ワシは、この刀に宿った神じゃ」
その一人称は、まぎれもなく、オサフネのものだった。
結衣は、理解した。
これが、分かれる前の――まだ一つだったころの、オサフネなのだと。
「オサフネ、さま……」
届かないと分かっていても、結衣は、その名を呼ばずにいられなかった。
刀鍛冶は、突然現れた神を前にしても、驚かなかった。
ただ、目を細めて、まるで生まれたばかりの子を見るように、その姿を眺めた。
「やはり、宿ったか」
「やはり、とな?」
「これほどの刀を打てば、神が宿る。そんな気がしておった。……いや、そう願うて、打っておったからな」
「面白いことを言う鍛冶じゃのぅ」
オサフネは、ジト目のまま、わずかに口の端を上げた。
「して、ワシに何を願う? 刀に宿った神じゃ。敵を斬れとでも言うか」
「いいや」
刀鍛冶は、首を振った。
「人を救うてくれ。人を斬るためではなく――人を、守るために」
「……刀に向かって、人を斬るなと言うか」
「わしは、人を斬る道具を打っとるつもりはない」
刀鍛冶は、煤で黒くなった指で、白い鞘を撫でた。
「人を斬るだけなら、もっと雑に打っても斬れる。じゃが、これは違う。わしは、人の想いを守るものを打った」
オサフネは、しばらく、その刀鍛冶を見つめていた。
それから、静かに言った。
「よかろう。ワシは、人の縁を整える神になろう。結ぶも、断つも、人を想うてのことじゃ。……お前の打った刀は、そういう神を宿したぞ。誇るがよい、光忠」
光忠――それが、その刀鍛冶の名だった。
結衣は、その名を、どこかで聞いた気がした。長船。光忠。歴史の教科書か、どこかの博物館か。たしか、伝説の、刀の名工。
光忠は、しわだらけの顔を、くしゃりとほころばせた。
「……ありがたや。ありがたや」
まるで、我が子の誕生を見届けた、父親のような顔だった。
結衣は、その光景を、ただ見ていた。
あたたかい、夜だった。
◇
刀は、上村家に納められた。
頭道一帯を治める、領主の一族。代々この地を守り、民からの信も厚い家だった。
結衣は、その屋敷の門に掲げられた家紋と、家の名を見て、息を呑んだ。
上村。
それは――結衣の、家の名だった。
「うちの、ご先祖さま……?」
八百年前の上村家。その当主は、まだ若く、誠実そうな男だった。
納められた刀を前に、深く頭を垂れ、「この刀に恥じぬ政を」と誓っていた。
オサフネは、その上村家で、人々のために力を使った。
引き裂かれた親子を、再び巡り会わせた。憎しみ合っていた村と村の、わだかまりを解いた。行き場をなくした者に、新しい縁を結んでやった。
縁を結ぶ。それは、人を笑顔にする力だった。
そして、断つこともあった。
悪い男に縛られて泣いていた女から、その腐れ縁を断ち切ってやった。
死んだ者への未練に囚われ、前へ進めずにいた老人の、執着を断ってやった。
呪いのように代々続く、憎しみの連鎖を断ち切ってやった。
縁を断つ。
それもまた、人を救う力だった。
「結ぶも、断つも、人を想うてのことじゃ」
オサフネは、そう言って、穏やかに笑っていた。
◇
そんな日々の合間に、オサフネには、ひそかな習慣があった。
月に一度か二度、ふらりと屋敷を抜け出して、町外れの鍛冶場を訪ねるのだ。
「おう、来たか」
光忠は、いつも同じ調子で迎えた。神が来たというのに、茶を出すでも、かしこまるでもない。
槌を打つ手を止めず、ちらりと目をやるだけだ。
「茶のひとつも出さんのか、お前は」
「神様が茶を飲むのか」
「出そうとする心が大事なんじゃ」
「面倒くさい神様じゃのう」
そんな、どうでもいいやりとりをする。
結衣は、ふわふわと宙に浮きながら、その光景を見ていた。そして、気づいた。
オサフネが――楽しそうだった。
上村家にいるときのオサフネは、神様だった。
人々に敬われ、頼られ、奉られる、立派な神様。みんながオサフネを拝み、感謝し、頭を下げる。
でも、ここでは違った。
光忠は、オサフネを拝まない。感謝もしない。頭も下げない。ただの、口の減らない来客のように扱う。
「先日な、川向こうの夫婦の縁を結び直してやったんじゃ」
「ほう」
「十年も口を利いとらんかった夫婦じゃぞ。それが今では、毎朝ふたりで畑に出とる」
「そうか」
「そうか、だけか。もっと褒めんか!」
「腕のいい職人は、仕事を自慢せん」
「ワシは職人ではなく神じゃが」
「わしの打った刀じゃ。半分は職人みたいなもんじゃろう」
「理屈が無茶苦茶じゃのぅ」
オサフネは、口ではそう言いながら、どこか嬉しそうだった。
結衣には、わかった。
光忠にとって、オサフネは神様ではないのだ。
自分が魂を込めて打った刀に宿った、いわば――我が子。だから拝まないし、こびもしない。その代わり、誰よりもまっすぐに、オサフネ自身を見ている。
神としてではなく、ただの「お前」として接してくれる、唯一の存在。
「光忠」
「なんじゃ」
「お前の打った刀は、ええ刀じゃぞ」
「知っとる」
「……そこは謙遜せんのか」
「わしの最高傑作じゃからな。謙遜のしようがない」
光忠は、槌を置いて、ようやくオサフネのほうを向いた。
「じゃが、刀の良し悪しは、鋼だけでは決まらん。何を斬るか、何を守るか――宿った魂が、刀の値打ちを決める。お前は、ええ神になった。それが、わしのいちばんの自慢じゃ」
オサフネは、一瞬、言葉に詰まった。
それから、ふいと横を向いた。
「……年寄りは、すぐ説教くさくなるのぅ」
「照れるな照れるな」
「照れとらん」
夕日が、鍛冶場に差し込んでいた。
炉の火と夕日に照らされて、銀の髪が、あたたかい色に染まっていた。黒い筋の混じった髪も、黒地の装束も、その光の中では、何もかもが優しく見えた。
結衣は、この光景を、ずっと見ていたいと思った。
でも、知っていた。
この記憶は、いつか終わる。
そして、その先に待っているものを、結衣は、まだ知らない。




