縁を断つもの2
鳥居をくぐろうとして、結衣は足を止めた。
鳥居の両脇に、狛犬が一対、据えられている。
阿吽の二体。頭道石工の手による、丑寅神社でいちばん古い狛犬だ。
本来は夜になると動き出して、参道を見回るのだと、灯から聞いたことがある。
その狛犬が、おかしかった。
動き出すどころではない。
石の体から、いつもなら感じるはずの、ぴりっとした魔除けの気配が、すっかり抜け落ちていた。
ただの古い石像のように、ぐったりとしている。
口を開けた「阿」も、口を結んだ「吽」も、まるで生気を吸い取られたように、力なくうなだれていた。
「狛犬まで、こんなに……」
結衣の声が震えた。
いやな予感を抱えたまま、結衣は鳥居をくぐり、参道を進んだ。
そして、境内に出た瞬間――息を呑んだ。
九十九楠が、斬られていた。
樹齢九百年の御神木。三人で手をつないでも囲みきれないほどの幹を持つ、丑寅神社の御神木。頭道がまだ頭道になる前から、この地を見守ってきた、神の宿る巨木。
それが、真っ二つになっていた。
根元から少し上のあたりで、すっぱりと両断されている。上半分が、地面に倒れ伏していた。葉を茂らせたまま、巨大な体を横たえている。
異様だったのは、その切断面だった。
自然に折れたのなら、繊維が裂け、ささくれ立つはずだ。
雷が落ちたのなら、焼け焦げるはずだ。
だが、その断面は――鏡のように、なめらかだった。一切の迷いも、ためらいもなく、ただ一刀のもとに断ち切られた、としか思えない。あまりにも、きれいすぎた。
そして、その断面から、淡い光が、霧のように立ちのぼり――消えていく。
九十九楠に宿っていた、神の気配だった。
それが、ほどけて、散って、薄れていく。
「そんな……」
結衣がよろめいたとき。
「結衣」
背後から、声がした。
振り返ると、カブトガニから降りたオサフネが、立っていた。
轟音と、神の気配の異変を察して、駆けつけたのだろう。その顔は、青ざめていた。
オサフネは、倒れた九十九楠に、ゆっくりと歩み寄った。断たれた切断面に、そっと手を触れる。
その瞬間。
『……長船の、姫か』
声が、響いた。
いや、声ではなかった。音のない、心に直接触れてくるような――消えゆく木の神の、最期の念だった。結衣の頭の中にも、それは静かに流れ込んできた。
『間に合わなんだか……いや、もう、よいのじゃ……』
「九十九楠の神よ」
オサフネが断面に手を当てたまま、呟いた。
「誰にやられた」
『……刃よ』
木の神の念が、ゆっくりと続いた。
『縁を、断つ、刃……。わしと、この山との縁を、根元から……ひと太刀で……』
「縁を、断つ……」
『あれは……お前と、対の力じゃ……結ぶ者の、裏に立つ、断つ者……お前なら、分かるはずじゃろう……長船乃比売……』
その念を最後に、断面から立ちのぼる光が、ふっと消えた。
九十九楠の神は、逝った。
あとには、ただ、なめらかな切断面と、倒れた巨木だけが残された。
境内が、静まりかえる。
オサフネは、切断面に手を当てたまま、動かなかった。その肩が、かすかに震えていた。
「縁を断つ力……ワシと、対の力……」
オサフネの声は、低く、絞り出すようだった。
「結ぶ者の裏に立つ、断つ者。そんなことができる者は……」
「オサフネさま」
結衣は、おそるおそる近づいた。
「対の力って……いったい、誰のことなんですか」
オサフネは、答えなかった。
ただ、断たれた九十九楠を、じっと見つめていた。
その横顔には、結衣の見たことのない、深い影が落ちていた。怒りでも、悲しみでもない。もっと古い、もっと複雑な、何か。
「オサフネさま……?」
「……来てしまったか」
オサフネが、ぽつりと呟いた。
「いつか、こうなる気は……しておった」
それは、結衣に向けた言葉ではなかった。
もっと遠くの、ずっと昔の、誰かに向けた言葉のようだった。
風が吹いて、倒れた九十九楠の葉が、さらさらと鳴った。
頭道の空は、相変わらず、嘘のように晴れていた。




