縁を断つもの1
オサフネが、結衣の宿題に文句を言わなかった。
それが、まずおかしかった。
いつもなら「また忘れたのか」「神を宿題係にするな」「神頼みの前に鉛筆を持て」と三回は小言を言う。
ここ数日のオサフネは、明らかに違った。
縁側に座って、海のほうをじっと見つめている時間が増えた。
結衣が話しかけても、上の空で「ああ」とか「うむ」とか返すだけ。あのいつもの、小言まじりのツッコミが、ぱたりとなくなっていた。
「オサフネさま」
その朝、結衣は思いきって声をかけた。
「最近、元気ないですよね。何かあったんですか? あたしも一緒に考えます。何でも言ってください」
オサフネは、しばらく黙っていた。それから、静かに首を振った。
「……これは、お主が関わってよい問題ではない」
「えっ」
「人の子の手に負えることではないんじゃ。神の問題じゃ。お主は、いつも通りにしておればよい」
「でも」
「着いて来るでない」
オサフネの声は、いつになく硬かった。
結衣は、それ以上何も言えなかった。
◇
オサフネは、その日、一人でどこかへ出かけていった。
結衣は家に残された。ペロが足元で、くぅん、と心配そうに鳴く。
「……気になるよね」
「わん」
「あたしも、気になる」
じっとしていられなかった。
オサフネは「関わるな」と言った。
でも、あんなに思いつめた顔をしているオサフネを、ただ見ているなんてできない。
神の問題だというなら、せめて、街で何が起きているのかだけでも知りたかった。何かできることが、あるかもしれない。
「ペロ、お留守番しててね。すぐ戻るから」
「くぅん……」
ペロを家に残して、結衣は街へ出た。
◇
街は、どこかおかしかった。
商店街のシャッターが、いつもより多く閉まっていた気がした。
うまく言えないけれど、空気が薄くなったような感じでいつも賑やかな商店街が、なんとなく静かで、行き交う人の表情も、どこか冴えない。
「結衣ちゃんやないか」
声をかけてきたのは、プラモ屋のおっちゃんだった。店先で、所在なげに腕を組んでいる。
「おっちゃん、こんにちは。あの、最近、街で何か変わったこと、ないですか?」
「変わったこと、なぁ」
おっちゃんは顎をなでた。
「そういえば……最近、神様や妖怪を、とんと見かけんようになったのぅ」
「神様や妖怪を?」
「ほら、この裏の路地に、よう日向ぼっこしとった蛇神さんがおったやろ。白うて、立派なやつな。あれが、ここんとこ全然姿を見せん。」
「最近、天気が悪かったから巣に籠ってるとか」
「それに狐のあやかしが来んのや」
「狐さん?」
「毎週木曜に油揚げ買いに来て、そのついでにプラモの箱だけ眺めて帰るやつや」
「買わないんですね」
「買わん。でも来んと、なんか寂しいやろ」
「いなくなった……?」
「さあなぁ。神様にも都合があるんやろうけど。なんや、最近の頭道は、ちぃと寂しいわ」
結衣は、笑えなかった。胸の奥が、ざわざわした。
◇
商店街を抜けて、結衣は猫の細道へ入った。
細い石畳の路地に、小さなお地蔵さまが祀られている。
猫の細道の地蔵。いつもなら、その足元に何匹もの猫が集まって、のんびりと丸くなっているはずだった。
でも、今日は違った。
猫たちが、地蔵の周りで、落ち着きなくうろうろしている。毛を逆立てて、しきりに地蔵を見上げては、不安そうに鳴いていた。
「どうしたの?」
「あ、人間ニャ」
一匹の猫が振り返った。
「聞いてくれニャ。お地蔵さまの元気がないニャ」
結衣は地蔵を見た。
いつもは穏やかに微笑んでいるはずの地蔵の顔が、今日はどこか曇って見えた。
石の表面が、心なしか色あせて、ひびが入りかけている。
地蔵を包んでいたはずの、あたたかい気配が、すうっと薄くなっていた。
「お地蔵さま、今日は撫でてくれんニャ」
「お地蔵さまが撫でるんですか?」
「風で頭をちょっとだけ、こう、ふわっとしてくれるニャ」
「みんな心配で、離れられんニャ」
猫たちが、不安そうに地蔵にすり寄る。
結衣は、ぞくりとした。
姿を消した蛇神。狐のあやかし。元気を失った地蔵。海に落ちた、数千のドローンの神々。
ばらばらだったものが、結衣の中で、一つにつながっていく。
街じゅうの神様が、少しずつ、力を失っている。
そう気づいた瞬間、結衣は、足元から冷たいものが這い上がってくるのを感じた。
◇
ふと、気づいた。
静かだった。
いつの間にか、街の音が、消えていた。
猫の鳴き声も、商店街のざわめきも、カブトガニの羽音も。
何もかもが、しんと静まりかえっている。
風さえ、止まっていた。
結衣は、思わず立ち止まった。
何かが、来る。
肌が、そう感じていた。理由はわからない。でも、世界が息をひそめているような、そんな気配があった。
猫たちも、いつの間にか鳴きやんで、じっと一点を見つめている。
猫の細道を抜けた、すぐ先。
路地の向こうにある――丑寅神社の、方角。
そして。
ドォン――ッ!!
空気を引き裂く、轟音。
結衣は、その場でしゃがみこんだ。雷が、すぐそこに落ちたのかと思った。びりびりと、足元の石畳が震えた。
だが、空を見上げても、雲ひとつない。よく晴れた、青い空だ。雷が鳴る天気では、まるでなかった。
「な、何、今の……」
猫たちが、いっせいに逃げ出していく。
結衣は、震える足で立ち上がった。音のした方角を見る。
間違いなかった。すぐ近くの、丑寅神社だ。
考えるより先に、足が動いていた。
結衣は、細い路地を駆け抜けた。丑寅神社は、猫の細道を抜けてすぐ。鳥居は、もう目の前だった。




