第6章:その前の感覚
「うーん……」葵は少し苛立ったような表情で腕を組み、クローゼットをじっと見つめていた。
ついに明日がやってきた。あと数時間もすれば、ライトの家族に会うことになる。
シオは床に座り、舌を出しながら尻尾を振って、葵が服を吟味する様子を眺めていた。
「あーっ!」葵は苛立ちまぎれに頭をかきむしった。「何を着ればいいのか決められない!」
彼女はぎゅっと目をつぶり、小さく弱音を漏らした。「思っていたよりずっと大変だわ……」
シオは立ち上がると、励ますように吠えながら葵の足元にすり寄ってきた。
葵は目を開け、その子犬を見下ろして微笑んだ。
「ありがとう、シオ。大丈夫よ」
「ワンッ!」シオが尻尾を振って鳴くと、葵は再びクローゼットに視線を戻した。
朝からずっとこんな調子だ、と彼女は思った。淡いラベンダー色の瞳が優しく和らぐ。何を着るか決められずに立ち尽くしている間、クローゼットが私を見つめ返してくるようだ。
ライトの両親に会うことになるから、いつもより服選びに時間をかけてしまっているのだと彼女は気づいた。
ライトのしっかりしたクラスメートらしく見えなきゃ……。彼女は二着の服を手に持ちながら考えた。……それに、彼の友達としても。
「いっそ、いつものパーカーにショートパンツ、ニーハイソックスにしちゃおうかな……」頬を汗が伝い落ちる中、彼女はいつもの服に手を伸ばした。
ふと、彼女は動きを止めた。
「でも……もう少しちゃんとした格好の方がいいかも」もう片方の手に持った服をちらりと見ながら、彼女はつぶやいた。
身支度を済ませた葵は、選んでおいた服に袖を通した。
体にフィットする濃紺のトップスの上に、淡いブルーのアクセントが入った、少し大きめで柔らかなクリーム色のニットカーディガンを羽織る。ボトムスには濃い色の短いプリーツスカートを合わせ、足元は黒のサイハイソックスと、さりげなく青い縁取りが施された黒のスニーカーでまとめた。
鏡の前に立ち、首をかしげながら自分の姿を左右から眺めてみる。
「うーん……あと少し、何か足したいな」
彼女の視線は、誕生日にさやかからプレゼントされたメイクセットへと向かった。それを手に取り、慎重に色を乗せていく。頬にはほんのりとチークを、唇にはグロスを塗った。
「完璧」
鏡の中の自分に向かって、彼女は微笑んだ。
それから、視線を落として「どうかな、しお?」と尋ねる。
「ワンッ!」
しおは嬉しそうに吠え、尻尾を振って葵のシンプルながらも新しい装いを褒めるように見つめた。
葵はくすりと笑った。「ありがとう、しお」
彼女は笑顔のまま、再び鏡の方を向いた。
こうしてメイクができるようになったのは、さやかのおかげだ――。さやかからメイクを教わった時のことを思い出す。熱心に手順を教えてくれた友人の、あの満面の笑みが今でも目に浮かぶようだ。
鏡の中の自分に微笑みかける。その時、数本の髪の毛が顔にかかって視界を遮った。
葵は苦笑いしながら息を吹きかけてみたが、髪の毛はびくともしない。
「嘘でしょ?」
彼女はそう呟きながら、しつこい髪の毛を指でかき上げた。
ため息をつき、テーブルの上に置かれた小さな容器に目をやる。蓋を開けると、中にはいくつかのヘアアクセサリーが入っていた。
「友達と出かけた時、これをお勧めされたんだっけ」
ラベンダー色の小さなヘアクリップを手に取り、彼女は微笑んだ。
「こういう時、何を買えばいいか本当によく分かってるよね。助かるなぁ」
彼女はもう一度鏡に向き直り、邪魔な前髪をかき上げてから、きれいに留めた。
その髪型がよく似合っているのを見て、葵は微笑んだ。
「よし、これで完成」
彼女は視線を落とし、子犬に声をかけた。「私が戻ってくるまで、ちゃんとお留守番できる?」
「ワン!」と、シオが鳴いた。
「うん」葵は微笑みながら、濃い色のショルダーバッグを手に取った。「じゃあ、行ってくるね」そう言ってドアの方へ歩き、取っ手に手をかけた。
彼女は振り返ってシオを見た。「いい子にして待っててね? また夜に会おうね」
「ワン! ワン!」と、シオが応えた。
「行ってきます」葵は手を振ってからドアを開け、外へと踏み出した。
アパートを出て通りに出ると、明るく淡い青空の下、行き交う人々の姿があった。空気はひんやりとして爽やかで、朝まで降り続いた雨の名残が冷たさを運んでいた。
葵はスマートフォンを取り出し、時刻を確認した。
「午後四時半か」心の中でつぶやき、スマホをバッグにしまった。「ライトの家で夕食を食べる約束まで、まだ少し時間があるな」
彼女の口元に、小さな笑みが浮かんだ。彼の家に行くのは、これが初めてだ……。
歩きながら両手を軽く揺らし、彼女は一瞬、目を閉じた。
「二日で二人の友達の家を訪ねるなんて……本当に素敵だな」
ふと、彼女は目を見開いた。
「そうだ! 彼の両親に初めて会うんだから、何か手土産を用意しなきゃ!」
彼女は腕を組み、深く考え込んだ。
「でも……友達の親御さんに初めて会う時って、普通は何を持っていくものなんだろう?」
彼女はため息をついた。「これは悩ましいな……」
前方の店に気づき、葵は指先をあごに当てた。
「日用品とか、どうかな?」
すぐに彼女は苦笑いして首を振った。「いや、それはダメだよね」
小さく首を振ってから、彼女はその店に入った。「無難なものにしておこう」
しばらく店を見て回った後、葵は焼き菓子の詰め合わせと、美しく包装されたイチゴの箱を買い求めた。
店を出て通りを歩きながら、彼女は手にした丁寧に包まれた贈り物を見つめ、満足げに微笑んだ。
「よし。これで準備万端――」
「あ!」
小さく、おどおどとした声が彼女の耳に届いた。
葵がそちらに目を向けると、小さな公園の大きな木の下に、黒髪の少女が立っていた。彼女は四人の少年に取り囲まれていた。
少女は顔を上げ、怯えた緑色の瞳を頭上の枝に向けていた。周囲の少年たちなど目に入らない様子で、その目尻には涙が浮かんでいる。
「チビ!」と彼女は叫んだ。
「おいおい、俺たちを無視すんなよ」少年の一人が、ポケットに手を突っ込んだまま、にやりと笑った。
「それに、なんだその名前は?」別の少年がくすくすと笑いながら、少女の髪を乱暴にかき回した。「チビ? 笑わせるなよ」
三人目の少年もクスクスと笑った。「なあ、ミライ……これ、自業自得だろ」
「離して!」ミライはきっぱりと言い放ち、振り返ってその少年の手を振り払った。
「このガキ……」少年は険しい表情を浮かべ、彼女を突き飛ばした。
ミライはよろめいて後ずさりし、芝生の上に尻餅をついた。
「負け犬め」最初に口を開いた少年――ソラが、見下ろすようにしてニヤリと笑った。「正直、俺たちはただお前の猫と遊んでやろうとしただけなんだぜ」
「そうそう」別の少年もクスクスと笑いながら付け加えた。
ソラたちが木を見上げると、そこには小さな子猫が、太く長い枝に不安げにしがみついていた。
「ニャー……」チビは震えながら、爪を樹皮に食い込ませ、ミライと少年たちを見下ろしていた。
「チビ!」ミライはそう呼びかけ、両手をその子猫の方へと伸ばした。
少年の一人が彼女を突き飛ばし、怯える子猫を見上げてニヤリと笑った。
「おい、どうしたんだよ、子猫ちゃん?」ソラの茶色い瞳が嘲笑を浮かべて光る。「降りてこいよ! 噛みついたりしねえからさ」
彼の嘲笑と仲間たちの笑い声に、子猫は身を縮め、身を守るように小さな体を幹にぴったりと押し付けた。
「このクズ!」ミライは怒りに震えながら、彼らに向かって駆け出した。 「あの子を放っておいて!」
彼女が近づくより早く、四人目の少年が立ちはだかり、彼女を突き返した。
「っ!」肘を地面の草に擦りつけ、小さなあざができ、彼女は鋭く息を漏らした。
アオイはその光景に目を見開き、小さく息を呑んだ。
「バカだな」ソラは鼻で笑った。「お前のせいだろ、それ」
彼の茶色い瞳に悪意が宿る。「学校じゃいつも、自分の方が偉いみたいな顔してさ」
彼は顎に力を込めた。「いつも偉そうに、うぬぼれて……」目を細める。「虫唾が走るんだよ。ムカつくんだ」
彼の言葉にアオイの瞳が暗く沈み、怒りがふつふつと湧き上がってきた。
だが、彼女が次の一歩を踏み出す前に――
「へっ」
ミライの嘲るような声に、彼女は足を止めた。「それで、私に群がることが、私への正しいアプローチだとでも思ってるわけ?」
ミライは顔を上げ、決意を燃やす緑色の瞳で彼らを見据えながら、立ち上がった。
「うぬぼれて傲慢なのは、あんたたちの方よ」彼女は体の脇で拳を固く握りしめた。「あんたたちみたいな連中、大っ嫌い!」
彼女の言葉と反抗的な表情に、少年たちは驚いて動きを止めた。
だが、ソラは怒りで頬を紅潮させ、歯ぎしりをした。
「生意気なガキめ!」彼は彼女の方へ歩み寄った。「いい気になってんじゃねえぞ!その情けない猫を、自分一人で助けられるか見ものだな!」
彼が彼女に届くより早く、何かが素早く彼らの横を駆け抜けた。
誰もが動きを止めた――アオイでさえも。
紫色の髪をしたその人影が木に向かって飛びつき、登り始めたのを見て、彼らは目を見開いた。
ほんの数秒のうちに、彼女は迷いのない身のこなしで幹を登りきった。枝をしっかりと掴み、躊躇なく体を上へと引き上げていく。そのあまりの速さと自信に満ちた動きに、少年たちはただ呆然と見つめるしかなかった。
頂上に達すると、彼女は慎重に枝へと足を踏み入れた。そこには、怯えた子猫が樹皮にしがみついていた。
「ほら、おいで。大丈夫だよ」と彼女は囁いた。
彼女はゆっくりと子猫に手を差し伸べた。
子猫は用心深く彼女の指の匂いを嗅いでいたが、やがて警戒を解き、小さな鳴き声を上げて彼女の腕の中へと這い寄った。
「おい!」ソラは彼女を見上げながら叫んだ。
一方、ミライは安堵の表情でその様子を見守っていた。
「チビ!」彼女は嬉しそうに呼びかけた。
「おい、そこのお前!」ソラは木の上にいる人物を指差した。「一体何者だ?人のことに首を突っ込むんじゃねえ!」
彼は上を睨みつけた。「その猫を離せ。さもないと……」
「さもないと、どうするの?」
不意に、力強い手が彼の肩に置かれた。
少年は身を強張らせた。彼と仲間たちがゆっくりと振り返ると、そこにはアオイが立っており、彼女の影が彼ら全員を覆っていた。その淡いラベンダー色の瞳には、抑えられた怒りが宿っていた。
「あんたたちみたいな連中の話は、もうたくさんよ」アオイは少年の肩を掴む手に少し力を込めた。「……それに正直言って、情けないわね」
「ぐっ!」少年たちは怯み、彼女の威圧的な視線に顔を青ざめさせた。
「どうせあんたたちじゃ、あの木には登れなかったでしょうけどね」アオイは顎を上げ、彼らを見下ろした。「さあ、消えなさい」
彼女は目を細めた。「それから、もしこの子をいじめているところを二度と見かけたら……」
彼女は言葉を切り、最後にぐっと力を込めた。
「……ただじゃ済まさないわよ」ソラと仲間たちは恐怖のあまり悲鳴を上げ、大急ぎで逃げ出して通りへと消えていった。
「まったく……」葵は片手を腰に当て、もう片方の手でプレゼントの包みをしっかりと抱えたまま、ため息をついた。
「あ、あの……」
葵は、おずおずとした声のする方へ振り返った。
怪我をした肘をかばいながら、未来が葵を見上げていた。「本当に、ありがとうございます」
葵は温かい笑みを浮かべた。「どういたしまして」
「間に合ってよかった」
上から聞こえたその声に、二人の少女は視線を向けた。
紫色の髪の少女が、子猫を腕にしっかりと抱えたまま、慎重に木から飛び降り、優雅に地面へと着地した。
彼女は抱えた子猫を見下ろした。「この子、すごく怯えていたのよ」
未来の瞳がぱっと輝いた。「チビ!」
彼女は駆け寄ると、優しく子猫を受け取り、胸にぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう! 本当にありがとう!」
安堵のあまり、未来の目には涙が浮かんでいた。
「ふふっ」葵は口元を緩めた。「今の動き、すごかったですね、チエコ先輩。とっさの行動力がさすがでした」
チエコは葵の方を向き、恥ずかしさで頬を赤らめた。
「い、いえ、大したことじゃないのよ!」彼女は指先をもじもじさせた。「ただ……助けなきゃって思っただけで」
葵の笑みがさらに優しくなった。「でも、実際に助けてくれた。すごく素敵でしたよ」
不意の褒め言葉に、チエコは驚いて目をぱちくりさせた。やがて彼女の表情も和らぎ、控えめな笑みを浮かべた。
「そ、その格好、すごくいいわね」と彼女は付け加えた。
「え?」葵は不意を突かれてまばたきをした。
「そ、その新しいスタイル」チエコは頬をほんのり赤らめながら説明した。「せ、制服姿とは、か、かなり雰囲気が違うわね」
彼女は優しく微笑んだ。「す、すごく似合ってるわ」
葵は照れくさそうに首の後ろをさすり、頬を赤らめた。
「あ、ありがとうございます」彼女は恥ずかしそうに言った。
彼女は少女の方を向き、「名前は?」と尋ねた。
「ミ……ミライ……」少女は小さく答え、視線を落とした。葵が手を伸ばし、優しく彼女の髪をくしゃくしゃとかき混ぜたからだ。
「さっきは本当に勇敢だったね」葵はにっこりと笑った。「あの男の子たちに立ち向かうなんて、すごいよ」
ミライの緑色の瞳が感極まって潤み、やがて彼女は微笑んだ。
だが、すぐに顔をしかめた。
「どうしたの?」葵は尋ね、笑みを少し弱めた。
ミライは自分の肘に目をやった。「ちょっとした切り傷だよ。大丈夫、平気だから――」
「大丈夫じゃないわ」千恵子が即座に割って入り、ミライの怪我をした腕を掴んだ。「感染症になるかもしれない! すぐに手当てしなきゃ!」
「えっ――」ミライが反応する間もなく、千恵子は軽々と彼女を抱き上げた。
「わっ!」
「さあ、行くわよ! すぐに手当てしないと!」
千恵子が強い決意と急ぐ様子で自分を運んでいく中、ミライはとっさに「チビ」をぎゅっと抱きしめた。
葵はただ呆気にとられてその背中を見送り、こめかみに一筋の汗を浮かべた。
…………。
「本当に、そこまでしなくても……」千恵子が手当てを終えると、ミライはもう一度そう言った。
二人の少女は公園のベンチに並んで座っていた。千恵子が丁寧にミライの包帯を仕上げるのを、葵はそばに立って見守っている。
「怪我はすぐに手当てするのが一番よ」千恵子は傷口に視線を向けたまま、きっぱりと言った。
「うん」葵も同意して頷く。「放っておくと感染症になるかもしれないしね」
「そっか……」ミライは呟いた。
千恵子は最後の包帯を留めると、手を離した。
「はい、これでよし」彼女は微笑んだ。「完了よ」
ミライは自分の肘に視線を落としてから、感謝の笑みを浮かべた。「本当にありがとうございます」
チエコも微笑み返し、頷いた。「どういたしまして」
「ニャー……」ミライの腕の中で、チビが小さく喉を鳴らした。
「チビもお礼を言ってるみたい」ミライはくすりと笑った。
チエコも小さく笑う。「礼儀正しい子ね」
アオイはそのやり取りに微笑んでいたが、やがて少し真剣な表情になった。
「あの男の子たち、大丈夫? かなりしつこそうだったけど」
「大丈夫ですよ」ミライは不敵な笑みを浮かべ、チビを丁寧に抱えたままベンチから飛び降りた。
彼女は年上の二人の方を向いた。
「あれはクラスメートのソラたちなんです。前からずっと絡まれていて」と彼女は説明した。「普段は無視してるんですけど、今日は彼らにとって、私を追い詰める絶好のチャンスだったみたいで」
彼女の笑みが和らぐ。「でも、ついに言い返せたし、お二人が助けに入ってくれたおかげで……」
彼女はアオイとチエコを交互に見た。「もう二度と、私に近づこうなんて思わないはずです」
アオイは微笑んだ。「それはよかったわ」
ミライの緑色の瞳が、ふいに輝きを帯びた。「お二人とも、本当にすごかったです~!」彼女の視線はすぐにチエコへと移った。「あの木を、まるで何でもないことみたいに駆け上がって! あれ、すごくかっこよかったです~!」
続いて、彼女の視線はアオイに向けられた。「それに、あの迫力あるオーラをまとってソラたちのところへ歩み寄る姿! 本当に最高でした~!」
アオイがくすりと笑い、チエコもクスクスと笑った。
「ありがとう」チエコは微笑んだ。「でも、それが私たち『ナイチンゲール』の役目だから」
彼女の表情が優しくなった。「この町の人たちが困っているときは、いつでも助けるのよ」
「ナイチンゲールズ?」ミライは目を丸くした。「待って――あなたたちがナイチンゲールズなの!? あの、街の守り手っていう? 小夜鳴高校に通ってるの!?」
「そうよ」アオイは頷いた。
ミライの瞳が興奮で輝く。「わあ、すごい~! 私、ずっと前からあなたたちに憧れてたんだよ!」
彼女は片方の腕でチビをしっかりと抱えながら、もう片方の拳を興奮気味に握りしめた。
「大きくなったら、あなたたちみたいに強くなって、小夜鳴高校に入りたいな!」
チエコはくすりと笑った。「ええ、あなたならきっと大丈夫よ」
アオイは口元を少し緩めた。「さっき、あの男の子たちに立ち向かう勇気を見せてたものね」
彼女の笑みが深くなる。「それだけでも立派な強さよ。大きくなったら、小夜鳴高校にもきっと馴染めると思うわ」
その言葉にミライの瞳が輝き、顔いっぱいに明るい笑みが広がった。
「うん!」
チビが再び喉を鳴らし、ミライの注意を引いた。
「あ! そうだ、行かなきゃ!」彼女は二人の少女を見上げた。「改めて、ありがとう!」
「絶対忘れないからね!」彼女は振り返って手を振りながら、走り去っていった。
アオイとチエコも手を振り返し、ミライの姿が遠くへ消えていくのを笑顔で見送った。
アオイは手を下ろし、チエコに視線を向けた。「さっきはすごく優しかったですね、チエコ先輩」
チエコは身を硬くし、うっすらと頬を赤らめながら視線を膝元に落とした。
「そ、そ、そうかな?」
突然どもり出した彼女の様子に、アオイは苦笑い(タラリと汗を流す)を浮かべた。「ええ。さっきは全然どもってなかったのにね」
千恵子の表情が和らいだ。「……私、緊張したり不安になったりすると、どうしてもこうなっちゃうんです。特に、あまりよく知らない人の前だと……」
「ふうん……なるほどね」葵はそう呟きながら、彼女の隣に腰を下ろした。「私たち、これまで二人きりで話す機会って、あんまりなかったもんね」
「そ、そうですね……」千恵子は小さく頷きながら、言葉を濁した。
葵は少し眉を上げた。「でも、ミライちゃんを助けていた時は、全然そんな風に見えなかったよ。初対面だったのに」
千恵子の頬が、再び赤く染まった。「あ、あの……誰かが困っていると、つい動いちゃうんです」
彼女は視線を前方の公園に向け、口元に小さな笑みを浮かべた。二人の間を、穏やかな風が吹き抜けていく。
「人の世話をするのって……すごく素敵なことですよね」彼女の笑みが、さらに優しくなる。「怪我をした人を助けるのが好きなんです。だって……いつか、お医者さんになりたいから」
その言葉を聞き、葵は少し目を見開いた。
「小さい頃からの夢なんです」千恵子の瞳に、懐かしさを帯びた柔らかな色が宿る。「誰かの痛みを和らげて、少しでも楽にしてあげられること……」
彼女は言葉を切り、笑みを少し深めた。「それが、私にとって一番の喜びなんです」
「本当に、最高の気分だよね」葵も優しく微笑んだ。
「ええ」千恵子は視線を前に向けたまま、頷いた。「特に、緊急の時は」
彼女の笑みが、わずかに揺らいだ。「素早く動いて、すぐに手当てをするのが一番ですから……遅れてしまうと、自分にとっても、助けようとした相手にとっても、取り返しのつかない結果になりかねないから」
なぜだか分からないけれど、千恵子のその言葉は、葵の胸の奥深くにチクリと刺さるものがあった。
彼女の脳裏に、すぐに姉である京香の姿が浮かんだ。
「うん……」彼女は呟いた。「言いたいこと、わかるよ」
千恵子は突然、自分がどれだけ本音をさらけ出してしまったかに気づいたようだった。彼女は慌てて手を振りながら、葵の方を向いた。
「あ、ごめん! いきなりこんなに話しちゃうつもりじゃなかったのに!」彼女は狼狽して目を丸くし、しどろもどろになった。「ただ……あ……! つい口から出ちゃって――!」
千恵子が戸惑いながら瞬きをするのを見て、葵は目尻を優しく下げてくすりと笑った。
「え?」
「大丈夫ですよ、千恵子先輩」
葵は息を吐き、千恵子の方を向いて目を開いた。その淡いラベンダー色の瞳には、温かさが満ちていた。
「先輩とお話しするのは、すごく楽しいです」彼女の唇に優しい笑みが浮かぶ。「意外と、人見知りじゃないんですね」
千恵子の赤茶色の瞳が驚きに少し見開かれ、やがて葵と同じような笑みを浮かべた。
「うん、そうかもね。私も、葵ちゃんと話すの楽しいよ」
「あ」葵は何かを思い出した。「そういえば。千恵子先輩と明日香先輩、それに由良先輩が、私たちのクラスに『六爪』候補の結果を伝えに来てくれた時のこと、覚えてますか? あの時、私に何か言いたそうにしていましたよね」
千恵子は瞬きをし、頬を赤らめた。「あ、あのね……ただ、葵ちゃんのことをもっと知りたいなって思ってただけなの。つまり……」彼女は恥ずかしそうに視線を落とした。「『黒豹』と『小夜鳴』の争いを止めるのに協力したって聞いたから。あの頃、すごく話題になってたし」
「ああ、なるほど」葵はくすりと笑った。「それで有名だったんですね……今までずっと」
よかった……こめかみを一筋の汗が伝った。
千恵子は再び頷いた。「う、うん。すごく感銘を受けたの。話してみたいと思ってたけど……どうしても勇気がなくて」
「わかります」葵は微笑んだ。「その後、あまり顔を合わせる機会もなかったですしね。まあ……二日前に、ほんの数分会ったくらいかな」
「そ、そうだね……ミナトと、葵ちゃんの友達のライトがスケボーで勝負した、あの日のことだね」千恵子は小さく頷いた。 「わざわざ思い出させなくてもよかったのに……」千恵子がくすりと笑うと、葵は目を細めて微笑み、その頬の横には汗の粒が浮かんだ。
その時、葵のショルダーバッグからチャイムの音が響いた。
バッグを開けてスマホを取り出すと、そこにはライトからのメッセージが表示されていた。
ライト:
ねえ。まだ来る?
葵は目を見開いた。「あっ!」
「ど、どうしたの?」と、千恵子が驚いて尋ねる。
葵は慌ててスマホの時刻を確認した。5時47分!? 彼女は目を丸くした。
「大変!」彼女は勢いよく立ち上がった。「いつの間にこんな時間に!?」
千恵子の方を向きながら、急いで自分の荷物をまとめる。
「ごめんなさい、急用ができちゃって! 行かなきゃ」
千恵子は頷いた。「い、いいのよ。本当に」
葵は手に持ったプレゼントの包みを抱え直すと、すぐに頭を下げた。
「千恵子先輩とお話しできて、本当に楽しかったです!」
彼女はくるりと向きを変えて数歩駆け出すと、先輩の方を振り返った。
葵は満面の笑みで目を細めた。「友達になれて嬉しいです」
その言葉が心に染み渡り、千恵子の瞳が見開かれ、きらりと輝きを帯びた。葵が最後に一度手を振って走り去る間、千恵子の唇はわずかに開いたままだった。
千恵子はゆっくりと小さな手を挙げて応え、その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
しかし、葵の姿が見えなくなると、その笑みは少し切なげなものに変わった。
「友達、か……」




