第15章:一歩近づく
二人の少女は、互いを見つめ合った。
葵はしばらく座ったまま、心の中で渦巻く複雑な感情と向き合っていた。一方、牧野は彼女の前に立ち、片手をズボンのポケットに無造作に突っ込み、もう片方の手には飲み物を持って、ゆっくりと口をつけていた。
「桜庭葵……」牧野が口を開いた。その紫がかった灰色の瞳には、意外なほどの温かみが宿っている。「こんなところで会うなんてね」
葵は息を呑んだ。ロケットを握りしめたまま、ゆっくりと立ち上がる。
もう片方の手は、体の横で固く拳に握りしめられていた。
牧野はその動きに気づいた。表情は落ち着いたままだったが、本能的に半歩だけ後ずさりした。
一瞬、彼女の脳裏にあの夜の記憶が蘇る――葵が、容赦なく彼女を追い詰めたあの夜のことが。
もし「小夜鳴」の副リーダーが割って入っていなければ、自分は生きて帰れなかったかもしれない――牧野はそう理解していた。
葵は深く、ゆっくりと息を吸い込み、心の中で荒れ狂う感情の嵐を無理やり鎮めようとした。
その時――
「葵!」
駆け戻ってきたライトが、葵の隣に立ち止まった。彼は葵を庇うようにその傍らに身を置き、黒髪の少女を鋭く睨みつけてから、葵の方へと視線を向けた。
「大丈夫か? 何かされたんじゃないだろうな?」ライトは険しい表情で問いかけ、再び牧野へと視線を戻した。
黒髪の少女は瞬きをし、突然の登場に一瞬、呆気にとられた様子を見せた。
「ちょっと待って……」彼女はライトをじっと観察した。「どこかで見たことがあるわね。あの夜、乱闘を見ていた『ナイチンゲール』の一人……でしょ?」
ライトは眉を寄せた。「ああ、そうだよ。俺もお前のことは知ってる」
彼は顎に力を込めた。「牧野、だったか? こんなところで何をしてるんだ?」
牧野は片方の眉を上げた。「へえ……」
彼女の紫がかった灰色の瞳が、二人を交互に行き来する。特に、葵を庇うように寄り添うライトの立ち姿に、その視線は留まった。
「驚いたわ……」彼女は、誰に聞かせるでもなく小さく呟いた。 「あの子でさえ、男を捕まえたんだから……」
彼女は舌打ちをすると、飲み終えたボトルを近くのゴミ箱に放り投げ、そのまま背を向けた。
「ま、いいや。じゃあね」
牧野はポケットに両手を突っ込んだまま、黒髪を揺らしながら悠然と歩き去っていく。
葵はその背中を見つめ、わずかに目を見開いた。記憶が奔流のように押し寄せ、葵は体の横で拳を強く握りしめた。
アーバン・トーキョーで、牧野に何度も嘲笑されたこと。浴びせられた残酷な言葉の数々。屈辱。そしてあの夜――葵が必死に隠し、過去のものにしようとしていた「正体」を、牧野に暴かれたこと。
一瞬、かつての恨みが再び込み上げてきそうになった。
だが、葵はゆっくりと拳をほどいた。
もう、どうでもいい。
過去から逃げ続ける時間は、もう十分だ。起きてしまったことは変えられない。けれど、今の自分がどう生きるかは、自分で決められる。
もう逃げない。何かを変えたいのなら、自分から一歩を踏み出さなきゃ。
葵の瞳に、静かな決意が宿る。「あ、あの……牧野さん!」
牧野が足を止めた。
立ち去ろうとする少女に声をかけた葵。その声はわずかに震えていた。それを見て、ライトは瞬きをした。
「お、お元気でしたか!? ……い、いろいろ、うまくいってるといいんだけど!」
ライトは驚いた様子で彼女を見つめた。葵……。
一瞬、二人の間に沈黙が流れた。
ふわりと風が吹き抜け、牧野の髪を揺らす。彼女はゆっくりと振り返り、葵の方を見た。戸惑うように、眉間にしわが寄る。
「はぁ?」牧野は気だるげに声を漏らした。「なんで、普通に話しかけてくるわけ?」
彼女は首を傾げ、葵のことが理解できないといった様子でじっと見つめた。
「頭でも打ったの? なんか変だよ……」
ライトのこめかみに、青筋が浮かんだ。
「何が『変』なのか、教えてやろうか」と彼は呟き、左手の指の関節を鳴らしながら、一歩踏み出そうとした。
だが、それより早く、葵が彼の胸の前に腕を伸ばして制止した。
「ライト」と、彼女は静かに言った。
「でも、葵……」
彼女は首を横に振った。
ライトは一瞬ためらったものの、しぶしぶといった様子で後ずさりし、葵が一人で牧野に近づくのを見守ることにした。
葵は落ち着いた足取りで二歩前へ出た。心臓が激しく鼓動する中、彼女は牧野の視線を受け止めた。
「突然こんなふうに話しかけるなんて、普通じゃないことはわかってるんだけど……」と、葵は次第に声を落ち着かせながら切り出した。「……でも、どうしてもそうしなきゃいけない気がしたの」
牧野は片方の眉を上げ、続きを促すように葵を見つめた。
「久しぶり、牧野」葵は、少し控えめな笑みを浮かべた。「元気にしてた? ナオミは?」
牧野は驚いたように瞬きをし、眉を大きく上げた。葵の問いかけに不意を突かれたのだ。
だが、それ以上に彼女を驚かせたのは、葵の表情だった。
(この子……笑ってる?)
「まあ、それなりにね。ナオも元気よ」牧野はそう答えると、ポケットから片手を出し、首の後ろをさすった。
「あなたには関係ないでしょ」牧野は表情を険しくし、眉を寄せた。「今でも、あんたのことは大嫌いよ」
牧野の声に含まれた苦々しさに、葵は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。それでも、彼女は動じなかった。
「そうね。最初から、好かれるなんて思ってなかったわ」葵は小さく肩をすくめた。「昔からずっと、そうだったものね」
牧野は葵の方へ完全に体を向け、腕を組んだ。
「そうであって何が悪いの?」
牧野は顎に力を込め、葵を睨みつけた。「出会った時から、ずっと私の邪魔ばかり! 何もかも持っているからって、自分が完璧だとでも思ってるんでしょ?」
彼女は冷ややかに鼻で笑った。「完璧な人生を送ってきたくせに。私やナオよりもずっと恵まれていたのに、それなのに、結局は私たちからすべてを奪っていったじゃない!」
牧野は葵を指さし、鋭い声で言い放った。
「だから嫌いなのよ。本当に虫酸が走る! あんたはいつも、周りの人間に苦しみをもたらすだけ。……『ブルーストーム』!」
葵の隣で、ライトはぐっと奥歯を噛み締めた。牧野の言葉が投げかけられるたびに怒りが募り、彼の両手は拳に握りしめられた。
だが、葵は動かなかった。視線を地面に落とし、しばらくの間、何も言わずにいた。
「そう思う気持ちは、わかるわ……」やがて、彼女は静かに口を開いた。
そして顔を上げ、牧野と視線を合わせた。
「でも、これだけは言わせて。私は、あなたから何も奪ったりしていない」
牧野はわずかに眉を動かしたが、葵は構わず言葉を続けた。
「アツヒロ叔父さんに起きたこと……」葵の声が和らいだ。「今でも、ずっと私を苦しめているの。彼を思い出さない日は、一日たりともないわ」
ライトは目を見開き、口元をわずかに緩めて葵を見つめた。
葵……。
牧野は、下唇を強く噛み締めた。彼女のすみれ色がかった灰色の瞳がかすかに震え、その怒りも一瞬、揺らいだように見えた。
「ナオミのことだけど……」葵はそう続け、口元にうっすらと笑みを浮かべた。「彼女は私の友達だったの。私にとって、初めての友達」
その記憶をたどりながら、彼女の表情は和らいだ。「それに、私も毎日、彼女のことを考えていたわ」
牧野の険しい眼差しが、次第に和らいでいった。葵に向けていた手は、ゆっくりと脇へと下ろされた。
葵は、わずかに眉を寄せた。
「でも、私、あなたのこと恨んでないよ」彼女は言った。「ただ、仲良くしたいだけ。それだけなの」
彼女の顔に小さな笑みが広がり、言葉を続けるにつれて、その表情はさらに明るさを増していった。
「それに、あのあだ名……『ブルーストーム』」葵の瞳が優しく細められた。「昔、私をからかうためによく呼んでたでしょ? 私、あれすごく嫌いだったんだけど……」
葵は目を閉じ、笑みを深めて、心からの明るい笑顔を見せた。
「……今では、一番気に入ってるの。私にぴったりだから」
牧野は目を見開いて、葵の柔らかな表情を見つめた。その唇から、かすかな吐息が漏れる。
まさか……。牧野の視線は、葵の笑顔に釘付けになった。本当に彼女なのか? いつも陰鬱で、孤独そうにしていたあの少女が?
葵の過去の表情が、牧野の脳裏をよぎる。
あの頃は、いつもひどく寂しそうにしていたのに……。牧野は脇で拳を握りしめた。それなのに、今は……。
牧野の視線は、葵の隣に立つライトへと移った。彼は警戒したような表情で、牧野から目を離さずにいた。
それから再び葵に目を向けると、彼女の表情は以前よりもずっと穏やかになっていた。
……ずっと、こういう一面を隠し持っていたってわけか。
「チッ」牧野は舌打ちをして、腰に手を当てながら少し顔を背けた。苛立たしげに目を閉じる。「ったく、うざい奴」
彼女は薄く目を開け、視線を地面へと落とした。
「……まあ、昔よりはマシになったけど」と、彼女はつぶやいた。「別に、どうでもいいけどね」
牧野はもう一度、葵を睨みつけた。「……でも、やっぱりあんたのこと、嫌いだよ」
葵は瞬きをし、一瞬驚いたような表情を見せた。それから、少し戸惑うような、控えめな笑みを浮かべた。
「気にしないで」と彼女は短く答え、視線を落とした。
牧野はそのまま、しばらく彼女を見つめていた。なぜか、その光景は彼女の胸の内に、これまで感じたことのない感情を呼び起こした。
罪悪感――。
葵は少し向きを変え、気まずい沈黙を破った。
「それじゃあ、さようなら」彼女は牧野に優しい笑みを向けた。「ナオミによろしくね。それから、あなたも体に気をつけて」
そして、隣にいる少年に目を向けた。「行こう、ライト」
「ああ」ライトは牧野に最後の一瞥を投げた――どこか警戒するような眼差しで。それから葵のあとを追った。二人は並んで歩き出し、やがて行き交う人混みの中へと消えていった。
歩道を進みながら、ライトはちらりと葵の方を見た。
彼女の笑みは消え、視線はまっすぐ前を見据えたまま。歩を進めるごとに、その表情は静けさを増していった。
ライトの表情も、ふっと和らいだ。
何か声をかけたい、大丈夫かと尋ねたい――そう思ったが、言葉は出てこなかった。今はただ、彼女の隣で、その歩調に合わせて歩くことしかできなかった。
二人の背中を見つめながら、牧野の表情もほんの少しだけ和らいだ。
「一体、どういうこと……?」彼女はそう呟くと、頭の横に手を当て、視線を落とした。
「私……今、あの子と会話したの?」
彼女は眉を寄せた。
「あれを『会話』と呼べるのかな?」と、独りごちる。「まあ……一応、話はしたけれど」
彼女は顔を上げ、葵とライトが人混みの中に消えていった場所を見つめた。
「桜庭葵……」
「ねえ、牧野」
聞き覚えのある声に、彼女はそちらを向いた。
ナオミが、両手に白い買い物袋をいくつも抱えて歩み寄ってきた。
「遅くなってごめんね」ナオミは穏やかでありながらも、どこか落ち着いた表情で言った。「レジの列がものすごく長くて、待たされちゃった」
「ん?」牧野は上の空でそう漏らし、視線はそのまま通りの先へと向けられていた。
直美はまばたきをしてから、従姉妹の視線を追った。歩道は行き交う人々で混雑していたが、特に誰か目を引くような人物がいるわけではなかった。
「どうしたの?」と彼女は尋ねた。
牧野は首を横に振った。「ううん、何でもない」
彼女は両手をポケットに突っ込むと、くるりと背を向けた。「さあ、行こう」
直美は遠ざかっていく従姉妹の背中を見送った後、もう一度通りの先へ視線を走らせた。知り合いの姿などどこにもないのに、一体何が牧野の目を引いたのだろうか。
彼女はわずかに眉を寄せた。
やがて、彼女も向きを変え、従姉妹の後を追って歩き出した。
………………
「わぁ〜!」葵は目を輝かせながら、クラゲの水槽に見入っていた。水の中を優雅に漂う、繊細な生き物たちを眺めているのだ。
柔らかな青い光が水族館内を照らし、周囲の展示物にも美しい輝きを落としていた。近くでは親子連れがさまざまな海の生き物を眺めており、その表情は驚きと興奮で明るく輝いていた。
葵の数歩後ろで、ライトは両手をポケットに突っ込んだまま彼女を見つめていた。クラゲにすっかり心を奪われ、次から次へと水槽を熱心に見て回る彼女の姿が、否応なしに目に入ってくる。
よりによって、今日、牧野と出くわしてしまうなんて……。
彼はポケットの中で、ぎゅっと拳を握りしめた。
牧野と再会したことで、葵の辛い過去が再び呼び起こされてしまった。あんまりだ。あれだけの経験をしてきた彼女には、そんな記憶を思い出させられることなく、心から楽しむ権利があるはずなのに。
彼はぐっと奥歯を噛み締めた。
さっきまでは、あんなに楽しそうにしていたのに。今、彼女は本当に楽しんでいるのだろうか。それとも、ただ強がっているだけなのだろうか。
「ねえ、ライト!」葵の突然の声に、彼は思考の海から引き戻された。
「ねえ、見て!」彼女は興奮した様子で、水槽の一つを指さした。「こんなに変わった魚、見たことある?」
「あぁ……まあね」ライトは上の空でそう答えると、視線をどこかへ逸らした。
アオイの笑みがわずかに揺らいだ。彼女は水槽から向きを変え、数歩歩み寄って、ライトの目の前で立ち止まった。
「ライト、どうしたの?」
彼は唇をぎゅっと結び、一瞬ためらってから、ようやく彼女の瞳を見つめ返した。その表情は和らいだが、目元にはまだ、かすかな懸念の色が残っていた。
「アオイ……君は、幸せ?」
「えっ?」不意を突かれたアオイは、きょとんとして瞬きをした。
「つまり……」彼は言葉を探すように、横に視線を向けた。「さっき牧野に会っただろう? ここに来る前、少し元気がなさそうだったから……気になって」
アオイはしばらく彼を見つめていたが、やがて、おかしくてたまらないといった様子で小さく笑った。
「本気で言ってるの? そんなことを心配してたの?」
ライトは眉を寄せた。「真面目に聞いてるんだよ、『青髪さん』」
「わかってる、わかってるって」アオイは、より柔らかな笑みを浮かべた。「答えは『イエス』。私、幸せだよ」
ライトは瞬きをし、彼女の顔をじっと見つめた。アオイは言葉を続ける。
「確かに、牧野に再会して、いろいろな記憶が蘇ったわ」彼女は一瞬視線を落とし、その笑みも少し淡いものになった。「彼女の言葉に傷つかなかったなんて、嘘はつけないしね」
ライトの胸が締め付けられた。だが、彼が何かを口にするより早く、アオイは再び顔を上げ、彼と視線を合わせた。今度は、より温かな笑みを浮かべて。
「でも、そういうことのせいで、今日という日の気分を台無しにはしたくないの」
彼女は周囲の光る水槽を見渡し、それから再びライトに視線を戻した。「あなたと一緒に楽しむためにここに来たんだから。そのつもりで、思いっきり楽しむわ」
彼女は楽しげに目を閉じ、その表情をいっそう明るく輝かせた。 「ライト、あなたは私の友達でしょ? 一緒に過ごすのをずっと楽しみにしていたんだから、嫌な出来事ひとつで今日という一日を台無しになんてさせないわ。それに……」
彼女は首をかしげ、茶目っ気たっぷりに微笑んだ。「水族館はまだ、全部見て回れるんだから!」
葵の言葉に、ライトの茶色い瞳が優しく和らいだ。胸の奥に温かな感覚が広がり、頬がほんのりと赤らむ。心臓の鼓動が、少しだけ速くなった。
口元に柔らかな笑みが浮かぶ。「ああ」
「さあ、行こう!」葵は明るい笑顔を見せると、水槽の方へと急いで戻っていった。「あの変わった形の魚、見に行かなきゃ!」
ライトは楽しげに小さく笑うと、彼女の後を追った。
二人はその後数時間、水族館の中を巡り、館内に展示された魅力的な海の生き物たちに感嘆の声を上げた。薄暗い水中トンネルを歩きながら頭上を優雅に泳ぐ魚たちを眺めたり、さまざまな展示の前で足を止めては、二人で一緒に写真を撮ったりして過ごした。
やがて二人は、ひときわ大きな水槽の前に立っていた。水槽から放たれる柔らかな青い光が、二人の顔を照らし出している。
ガラスの向こうを泳ぐ生き物たちを見つめるうち、二人の会話は自然と静かになっていった。だが、それも束の間。再び一緒に写真を撮り始めると、ひそやかな言葉は、屈託のない笑い声や明るい笑顔へと変わっていった。
葵は、タツノオトシゴの展示にすっかり夢中になっていた。ライトはタツノオトシゴではなく、そんな葵の姿をしばらく見つめていたが、ハッと我に返った。
それに気づいた葵が、「なに?」と尋ねる。
ライトは慌てて視線をそらした。「なんでもない」
「私を見てたでしょ」
「見てないよ」
「絶対見てた!」葵がクスクスと笑うと、ライトもそれにつられて笑った。
やがて二人は、広大な水中トンネルの中にいた。頭上をサメが優雅に通り過ぎ、エイが水中を滑るように泳ぎ、熱帯魚の群れが水族館の青い光を浴びてきらめいていた。
葵は目を大きく見開いてきらきらと輝かせ、顔いっぱいに満面の笑みを浮かべて、目の前の水の世界を見上げていた。
その隣で、ライトはちらりと彼女に視線を向けた。周囲のすべてに心を奪われている葵の姿を見て、彼は思わず柔らかな笑みをこぼした。
そのまま見て回っていると、やがてイルカショーの開催を知らせる看板が目に入った。
「あ、イルカショーがあるみたい!」葵は看板を指さしながら声を上げた。
ライトは看板に目をやると、頷いて言った。「じゃあ、見に行こうか」
葵は嬉しそうに目を細め、勢いよく頷いた。
「うん!」
二人はショーが行われる大きな劇場へと向かった。幸い、観客が集まる中で、ちょうど良い席を確保することができた。
目の前には巨大なプールが広がり、その水面が頭上の照明を受けてきらめいている。席に落ち着いた二人は、他の観客たちが次々と席についていく中、その広大なプールから目を離せずにいた。
やがて、照明が暗くなった。劇場が静まり返る中、青い光が水面を照らし出し、会場全体を幻想的な輝きで包み込んだ。
そして、ショーが始まった。
勢いよく水しぶきが上がり、イルカたちが水面から飛び出した。空中で優雅に体をひねると、そのまま再びプールへと飛び込んでいく。飛び散った水滴は、照明を浴びて小さな星々のようにきらめいていた。
「わあ……!」観客から感嘆の声が上がった。
「わあ……!」葵は感嘆の声を漏らした。淡いラベンダー色の瞳が驚きと感動で輝いている。彼女は満面の笑みを浮かべたまま、イルカたちの一挙手一投足を目で追っていた。
「すごいな……」ライトもまた、ショーにすっかり魅了され、そう呟いた。
そして、彼は無意識のうちに、葵の方へと視線を向けた。
彼女の瞳は興奮で大きく見開かれ、イルカが跳ねるたびに、その笑顔はますます輝きを増していくようだった。あまりに心から楽しそうな様子に、ライトは一瞬、ショーそのものよりも彼女の方に目を奪われてしまった。
「動画、撮らなきゃ~!」葵はくすくすと笑いながら、手早くスマートフォンを取り出してショーの様子を撮影し始めた。
ライトは再びプールの方へと視線を戻したが、口元には笑みが残ったままだった。
じわりと、頬が熱くなっていく。
やばい……。
胸の奥に広がる奇妙な感覚に気づき、彼はわずかに目を見開いた。
なんだ、この感覚は……?
彼は唇をきゅっと結び、胸元に手を当てた。肋骨の下で高鳴る、見覚えのないこの鼓動を、どうにか落ち着かせようとするかのように。
心臓が……なんだか、あったかくて、むずむずする。
頬や耳が、さらに熱を帯びていく。……なんで、こんなに心地いいんだろう……?
……………
水族館を出る頃には、街はすっかり夕暮れに包まれていた。太陽は地平線の向こうへと沈み、空は柔らかなオレンジ色と、どこか薄暗い紫が混じり合った色に染まっていた。
「すっごく楽しかったね~!」葵はくすくすと笑いながら、弾むような足取りでライトの前を歩いていく。
ライトは彼女の背中を見つめながら、小さく笑った。「ああ。イルカたち、すごかったな」
「でしょ?」葵は歩調を緩め、ライトの隣に並んだ。「ショー全体が、本当に最高だった!」
ライトは頷き、同意するように微笑んだ。
「よし」と彼は言い、道路の方に目を向けた。「バス停に向かって、バスで帰ろう」
「うん!」
二人は、楽しかった午後の余韻に浸りながら、最寄りのバス停へと向かった。
しかし、バス停に到着した瞬間、二人の笑顔は消え失せた。
バスの時刻表には、赤々と、そして大きく、恐ろしい言葉が貼り出されていた。
『運行休止』
アオイはその掲示を見つめ、信じられないといった様子で瞬きをした。
なんて運が悪いんだろう……。
「嘘だろ?!」ライトは目を見開いて声を上げた。「冗談だろ?!」
「残念ながら、冗談ではないんですよ」
その声の方を振り返ると、一人の男性が近づいてくるのが見えた。
「すべてのバスの運行が、一時的に休止となっております」と男性は説明した。「ご不便をおかけして申し訳ありません」
「全部ですか?」ライトは信じられないといった口調で尋ねた。「つまり、どのバスにも乗れないってことですか?」
「その通りです」男性は申し訳なさそうな笑みを浮かべた。「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」
「大丈夫ですよ」アオイは丁寧に答えた。
男性は軽く一礼すると、他の乗客の対応へと向かった。
ライトはしばらくその背中を見つめていたが、やがて苛立ち混じりのうめき声を漏らした。
「最悪だ……」彼はそう呟き、靴の先で小さな石を蹴った。
「ライト……」アオイは優しく声をかけた。「大丈夫だよ。電車に乗ればいいんだから――」
「いや、それも無理だ」即座に返ってきたその言葉に、アオイは不意を突かれた。
アオイは瞬きをした。「えっ? どうして?」
ライトは息を吸い込み、真剣な表情で彼女の方を向いた。
「だって、君は電車で気分が悪くなるだろう? 忘れたの?」
彼は視線を逸らし、少し声を和らげて言った。「電車に乗るとひどく気持ち悪くなるのを知っているからさ。移動中ずっと辛い思いをしてほしくないんだ」
「ライト……」葵は少し目を見開いて、そう呟いた。
「だから、最初からバスにしようって提案したんだ」彼は視線を落とし、首の後ろをさすりながら続けた。「体調を崩す心配をせずに、旅を楽しんでほしかったのに。それなのに……」
「ライト」葵の穏やかな声が、彼の言葉を遮った。
彼は顔を上げ、彼女を見つめた。
葵は温かく、安心させるような笑みを向けた。「大丈夫だよ。私、平気だから」
ライトは瞬きをし、少し口を開けた。「でも……電車の酔いはどうするんだ?」
葵はさらに柔らかな笑みを浮かべた。「もう、電車にも慣れてきたんだよ。だから大丈夫。平気だってば」
彼はなおも納得がいかない様子で、彼女の顔をじっと見つめていた。
葵は首を少し傾げ、安心させるように微笑んだ。「約束するよ」
ライトは少し迷った様子を見せたが、やがて小さく息を吐き出した。その表情は緩み、かすかな笑みが浮かんだ。
「わかった」
「よし!」葵はにっこりと笑った。「さあ、駅へ行こう!」
そう言うと、彼女はくるりと向きを変えて駅の方へと歩き出した。ライトもその隣に続いて歩く。
駅に着くと、二人はホームで数分間待ち、やがて電車が滑り込んできた。ドアが開くと、彼らは他の乗客たちと共に車内へと乗り込んだ。
あいにく、座席はすべて埋まっていた。
他に選択肢はなく、彼らはドアの近くに立つことになった。次々と乗客が乗り込んできて、車内は次第に混雑していった。
「くそっ……」ライトは小さく悪態をつき、頭上の吊り革に手を伸ばした。
その隣で、葵も吊り革をしっかりと掴んだ。混み合う車内を見回して、彼女はくすりと笑った。ドアが閉まり、列車が動き出した。街を通り抜けるにつれ、その速度は上がっていく。
ライトは、ちらりと葵の方に視線を向けた。
意外なことに、彼女はいたって落ち着いた様子だった。肩の力は抜け、窓の外を流れる景色を眺めるその唇には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「へえ……」彼の表情が和らいだ。どうやら彼女も、すっかり電車に慣れてきたようだ。
ちょうどその時、電車が別の駅に到着した。
ドアが開くと、数人の乗客が降り、入れ替わりに新たな人波が乗り込んできた。あっという間に、ただでさえ混雑していた車内は、さらに窮屈になった。
葵は、横を通り抜けようとする人のために体をずらした。その拍子に、彼女の体は偶然、ライトの胸にぶつかってしまった。
二人が反応する間もなくドアが閉まり、電車がガタンと動き出した。
ライトはとっさに葵の腰に手を回し、彼女のバランスが崩れないよう支え、自分の方へと引き寄せた。
二人はその場に固まった。視線が交差する。
ほんの一瞬、どちらも言葉を発することができなかった。
ライトは、二人の距離の近さを痛いほど意識し、顔がたまらなく熱くなるのを感じた。だが、周囲は人でぎっしり埋め尽くされており、身動き一つとれない状況だった。
「ご、ごめん……」彼は、いつもとは違う、どこか戸惑ったような声でつぶやいた。
葵は首を横に振り、視線を落とした。
「ううん、大丈夫」と彼女はささやいた。
彼女の頬がほんのりと赤らみ、つり革を握る指先に力がこもる。
ライトはゴクリと唾を飲み込み、慌てて視線を別の方向へ向けた。
「うわ、もう……!」心臓が激しく高鳴る。一体どうしてこんな状況になっちゃったんだ!?
数秒後、彼は恐る恐る、もう一度葵の方に視線を落とした。
彼女はまだつり革を握ったまま、視線を伏せていた。その唇には、どこか照れくさそうな、小さな笑みが浮かんでいる。
次第に、ライトの混乱していた思考が落ち着きを取り戻し始めた。彼はゆっくりと息を吸い込み、パニックになる必要なんてないのだと自分に言い聞かせた。
大丈夫だ。彼女は友達なんだから……。
彼の腕は葵の腰に添えられたままで、電車が揺れるたびに彼女の体をしっかりと支えていた。
それでも、前を見つめる彼の胸の奥には、静かな決意が宿っていた。
彼女を守る。何があっても。
10分ほど経った頃、列車は目的の駅に近づき、ようやく速度を落とした。軽い衝撃とともに列車が停止し、ドアがスライドして開いた。
「着いたよ。行こう」ライトは開いたドアの方を指し示し、ホームへと降りた。
葵もそれに続こうとしたが、一歩踏み出すより早く、新たな乗客たちが車内へと押し寄せてきた。すでに中にいた人たちをかき分けるようにして、人がなだれ込んでくる。
「あ、あの……」葵は人混みの中で立ち往生し、言葉を詰まらせた。「す、すみません……」
ライトはドアの脇へ移動したが、すぐ隣に葵がいないことに気づいた。
「葵?」彼は振り返った。
彼女はまだ乗客の波に飲み込まれ、周囲から押し寄せられる人々に阻まれて、なかなか外に出られずにいた。
「葵!」ライトは目を見開いた。
迷うことなく、ライトは彼女に向かって手を伸ばした。
「こっち! 手を貸して!」
葵は彼に気づき、手を伸ばした。指先が触れ合った瞬間、ライトはしっかりと彼女の手を掴んだ。
ライトが軽く引くと、葵は人混みを抜けて車外へと出た。そのまま彼の胸元に受け止められ、ライトは彼女の肩に手を置いてしっかりと支えた。
その直後、背後でドアが閉まった。列車はホームを離れていき、二人の若者だけがホームに取り残された。
「危なかったね……」ライトは息を吐き出し、肩の力を抜いた。
葵は少し身を引いて彼を見上げ、小さく頷いた。
「うん。ありがとう」彼女は感謝を込めて微笑んだ。
ライトも微笑み返し、彼女の肩をもう一度優しく握ってから、手を離した。
「さあ、行こうか」
二人は駅を出て、歩道へと歩み出た。
街はすっかり夜に包まれていた。街灯が歩道に光の輪を落とし、近くの店の看板が暗闇に色鮮やかな光を添えている。
葵とライトは並んで歩き、スニーカーが歩道を叩く音が静かに響いた。
しばらくの間、二人は何も言葉を交わさなかった。
だが、ライトの心の中は、決して静かではなかった。変だと思われてなきゃいいけど……。彼は視線を自分の手に向けた。
頭をよぎったのは、電車でのことだ。葵が倒れないように、彼女の腰に手を回して支えた時の感触。今でも、彼女の温もりが体に残っているような気がした。
くそっ……。彼女を不快にさせていなきゃいいんだが。
彼はごくりと唾を飲み込んだ。これまでだって、彼女を近くに引き寄せたことはあったけれど……それにしても……!
まるで合図でもあったかのように、二人の手が触れ合った。
二人は同時に、横にいる相手へと視線を向けた。
「ご、ごめん!」ライトはとっさにそう口にし、慌てて手を引っ込めた。
葵は突然の反応に、きょとんとした表情を浮かべた。
「え?」
「な、なんでもない!」ライトはそう呟くと、視線を逸らした。
(なんでこんな反応しちゃうんだよ……!)
自分の反応が恥ずかしくて、ライトはうつむいたまま歩き続けた。
再び、二人の間に静寂が訪れる。
頬の熱は引かず、心臓の鼓動もなかなか落ち着かない。
その時、視界の端で、葵が彼の方へ手を伸ばすのが見えた。
反応する間もなく、彼女の指がそっと彼の手を包み込んだ。
ライトは一瞬、息を止めた。驚きに茶色の瞳を見開き、繋がれた手を見つめる。
葵はうつむいたままだったが、その頬はほんのりと赤らんでいた。
ライトはしばらく呆然としていたが、やがて表情を和らげた。
慎重に指を動かし、彼女の指の間に自分の指を滑り込ませて、しっかりと手を握り直した。
葵の頬はさらに赤くなったが、手を離そうとはしなかった。それどころか、彼女もそっと力を込めて握り返してきた。
二人とも、相手の顔を見ることはできなかった。
手を繋いだまま歩道を進む。手のひらから伝わる温もりが、痛いほどに感じられた。
しばらくして、ライトは絡み合った指先を見下ろした。
心臓が、またドキリと跳ねた。
……いいな。なんだか、すごくいい。
少し勇気を出して、彼は指をしっかりと絡め合わせ、彼女の手をより確かに握りしめた。
その仕草に、葵は少し目を見開き、頬の赤みをさらに濃くした。それでも彼女は握り返してきて、その小さな出来事に嬉しさを隠そうともしなかった。
ライトの口元に、穏やかな笑みが浮かんだ。
言葉は交わさなかったけれど、二人はどちらも、手を離そうとはしなかった。
やがて二人は、それぞれの道へと分かれる分岐点にたどり着いた。
葵はゆっくりと指をほどき、名残惜しそうにライトの手から離れた。
一瞬、ライトの手はそのまま脇に残された。手のひらには、彼女の温もりがまだかすかに残っている。
彼が顔を上げると、そこには温かな笑みを浮かべた葵がいた。
「それじゃあ、ここでお別れだね」と、葵が優しく告げた。
なぜか、その言葉がライトの胸を締めつけた。
茶色の瞳が柔らかく和らぐ。一緒に過ごした時間がついに終わってしまうのだと気づき、胸の奥に微かな痛みが走った。
「あ……ああ」と、彼は静かに答えた。
脇に垂らした指先が、わずかに曲がる。もう少しだけ、彼女と一緒にいたかった。もう行くあてなどなくても、またその手を握って、隣を歩き続けたかったのだ。
葵の笑みがさらに優しくなり、頬がほんのりと赤らんだ。
彼女は小さな歩幅で、二歩だけ彼に近づいた。
ライトは瞬きをした。彼女が何を求めているのかを悟り、自身の頬も熱くなるのを感じた。一瞬ためらったものの、彼は歩み寄って腕をわずかに広げ、無言の誘いを送った。
葵の瞳が潤んだ。何も言わず、彼女は身を乗り出して彼を抱きしめた。
ライトもすぐに応え、彼女を優しく胸元へと引き寄せた。背中に腕を回してしっかりと抱きしめ、顔を彼女の首筋へと寄せた。
葵の心臓が激しく高鳴った。
彼女は肩に顔を埋め、腕に力を込めて、彼の温もりに身を委ねた。
しばらくの間、二人はそのまま動かなかった。
自分に何が起きているのか、ライトにはうまく説明できなかった。ただ、葵を腕の中に抱いていると、不思議なほど心が安らぐのを感じた。これまで経験したことのないような、温かな感覚に満たされていく。
そして、驚いたことに――。
彼は幸せだった。あまりに幸せで、ほんの一瞬だけ、「まだ別れたくない」と願ってしまうほどに。穏やかな夕風が吹き抜ける中、彼は彼女を抱く腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
「今日は本当にありがとう、ライト」葵は彼の肩に顔を寄せたまま、柔らかく、心からの響きを込めてつぶやいた。「すごく楽しかった」
その言葉に、ライトは喉の奥が熱くなるのを感じ、唾を飲み込んだ。彼は彼女をもう一段強く抱き寄せると、ようやく言葉を紡いだ。
「ああ、俺もだよ」と、彼はささやいた。
彼は名残惜しそうに腕を緩めて身を引き、再び二人が向き合う形になった。
葵はパッと顔を輝かせ、「今日は本当に楽しかった」と言った。
ライトは微笑んで、「ああ。本当にね」と応じた。
「また今度、こうして会おうね」
ライトの心臓が跳ねた。「……ああ。ぜひそうしよう」
葵は表情をさらに和らげると、身を乗り出してもう一度彼を抱きしめた。
ライトも迷うことなく抱き返した。まるで、まだ抱きしめ足りないと言わんばかりに、彼女をしっかりと腕の中に包み込んだ。
数秒間、どちらも腕を解こうとはしなかった。
やがて、二人はゆっくりと体を離したが、互いの体に触れていた腕はそのまま残り、照れくさそうに微笑み合った。二人とも頬をうっすらと赤らめ、次に何を口にすればいいのか迷っている様子だった。
「もう行かなくちゃ」と、葵がささやいた。
ライトは頷いたが、まだ彼女を腕から放そうとはしなかった。「ああ」
彼の茶色い瞳は葵の顔を見つめたまま、言葉にできないほどの愛情を帯びて優しく細められた。
「おやすみ」と、彼はつぶやいた。
葵はさらに温かな笑みを浮かべて頷いた。「おやすみ、ライト」
ついに、二人は名残惜しそうに互いの体から腕を離した。
葵は小さく一歩後ずさり、最後にもう一度微笑んでから、手を振った。ライトも手を振り返し、彼女が自分の帰る道へと向かっていく姿を、愛おしそうに見つめた。
彼はその場にしばらく立ち尽くしてから、自分の帰る道へと向きを変えた。胸の中には、抱き合ったときの温もりがまだ残っていた。
二人は、家と家の間にある狭い路地の影に、フードを被った何者かが潜んでいることに気づいていなかった。
その人物は、二人がそれぞれ反対の方向へ去っていくのを見届け、フードの下で不気味な笑みをゆっくりと浮かべた。
低く、どこか不穏な笑い声がその口から漏れた。
そして、誰もいなくなった通りを最後に一瞥すると、その人影は夜の闇の中へと消えていった。
..............................
ライトは自宅の玄関をくぐった。頬にはまだ赤みが残っていたが、その顔には満面の笑みが広がっていた。
「あら、ライト!」リビングから恵子が声をかけた。
ライトの表情を目にした瞬間、彼女の瞳は好奇心で輝き出した。
「で、どうだった?」恵子は期待に満ちた様子で、両手を合わせた。
そのそばでは、総四郎が床に座り、ジュンの毛並みを優しく撫でていた。彼は息子の方を見上げ、会話に耳を傾けた。
ライトは目を閉じ、さらに大きく笑みを浮かべた。その表情からは、あふれんばかりの幸せが伝わってくるようだった。
「最高だったよ!」ライトは声を弾ませた。「想像以上に良かった!」
恵子の顔がパッと明るくなった。「よかったぁ〜!本当によかったわねぇ!」
彼女は勢いよく立ち上がると、誇らしげにライトを抱きしめた。
ライトは笑いながら、一瞬だけ抱きしめ返した。やがて恵子が彼を解放し、その肩をポンポンと力強く叩いた。
「さあ、全部聞かせてちょうだい!私たちが勧めた場所はどうだった?」
恵子はライトをソファの方へ促して座らせると、再び愛情を込めて彼の肩を叩いた。
「そうそう、冷たいジュースでも飲む?お腹は空いてない?一日中出かけていたんだもの、疲れたでしょう!」
母の興奮した様子に、ライトはクスクスと笑った。「冷たいジュースだけでいいよ、お母さん」
「了解!」恵子は明るい声で言うと、キッチンの方へ向かった。「取ってくるわね。戻ってきたら、お父さんと私に全部話してちょうだいよ!」
ライトは、恵子がキッチンへと消えていく姿を微笑みながら見送った。
彼の隣では、総四郎が床から立ち上がり、ソファに腰を下ろした。
「楽しめたようで何よりだ」総四郎は温かな笑みを浮かべて言った。
ライトは頷いた。「うん、本当に楽しかったよ、お父さん」
一呼吸置いて、ライトはリビングの中を見回した。「ところで、お兄ちゃんはどこ?」
「さっき出かけたわよ」キッチンから戻ってきた恵子が、オレンジジュースの入ったグラスを3つ載せたトレイを運びながら答えた。「レイナちゃんと会う約束があるんですって」
「えっ、そうなの?」ライトは驚いて瞬きをした。
「ああ」宗四郎は考え込むように顎に手を当てた。「ただ、かなり急いでいたみたいだ。ろくに説明もせず、突然飛び出していったからな」
恵子は頷きながら、目の前の小さなテーブルに慎重にトレイを置いた。
「そうね。何か言う暇もほとんどないまま、あっという間に出ていっちゃったわ」
ライトは少し笑みを消し、視線を床へと落とした。
一体、何があったんだろう。
その表情の変化に気づいた恵子は、ライトの隣に腰を下ろすと、彼を安心させるような優しい声で言った。
「大丈夫よ、ライト。お兄ちゃんのことは、そんなに心配しなくていいわ」
ライトは顔を上げ、小さく頷いた。
だが、彼が何かを口にするより早く、恵子の顔には再び茶目っ気たっぷりの笑みが浮かんだ。
「さあ、お兄ちゃんの話はもうおしまい!」彼女は目を輝かせながら、身を乗り出して言った。「さあ、教えてちょうだい! アオイちゃんと過ごした一日、全部聞かせて~!」
ライトの頬は瞬く間に赤く染まった。「か、母さん!」
恵子が楽しそうに声を上げて笑うと、ライトもつられて笑ってしまった。
その横で、宗四郎は妻が息子をからかう様子を眺めながら、静かに微笑んでいた。
.......................................
「はぁ……はぁっ!」
静まり返った通りに、リョウの荒い息遣いが響く。彼は歩道を全速力で駆け抜け、靴が地面を激しく叩く音が響いた。その顔には不安と焦燥が色濃く浮かび、心臓は早鐘を打っていた。電話でレイナから告げられた場所へと、彼は急いでいたのだ。
近くの小屋のそば、街灯の明かりに照らされて、見覚えのある人影があった。黒い車体に赤いアクセントが入ったホンダのバイクに寄りかかり、ズボンのポケットに無造作に手を突っ込んでいる。
「レイナ!」
声に反応して、少女は顔を上げた。バイクから体を離すと、黒いショート丈のジャケットが風に揺れた。
「リョウ」と彼女は応えた。エメラルドグリーンの瞳が、相手を認めて和らぐ。
彼女が何かを口にするより早く、リョウは駆け寄ると、彼女を強く抱きしめた。
「大丈夫か!? 怪我はないか!?」不安に震える声で、彼は問い詰めた。
しばらく抱きしめたままだったが、やがて名残惜しそうに腕を解くと、彼女の肩に手を置き、頭の先から足の先まで慌ただしく確認した。
「怪我はないんだな!? 電話がかかってきた時、俺はてっきり……!」
「リョウ」レイナは小さく笑い、必死に問いかけてくる彼を優しく遮った。「大丈夫よ。本当に」
彼女は安心させるように微笑んだ。一連の出来事など、何でもなかったかのように。
「ただの、素人じみた襲撃だっただけよ」
リョウは彼女を見つめた。一瞬、耳にしたことが信じられないといった表情を浮かべる。
やがて、彼のこめかみに青筋が浮かんだ。
「『プロの仕業じゃない』だと!?」彼は両手を大きく振り上げ、信じられないといった様子で声を荒らげた。
「今夜、襲われたんだぞ!誰かがお前を狙ってきたっていうのに、まるで何でもないことみたいに平然と話してるなんて!少しは心配する素振りを見せたらどうなんだ!?」
レイナはただ首を振り、口元には微かな、どこか面白がるような笑みを浮かべた。
「はいはい、わかってるって」
「『はいはい』で済ませるな!」
激昂してみせたものの、リョウの青い瞳には、隠しきれないほどの心配の色が宿っていた。
レイナは自分の手元に視線を落とし、その笑みを徐々に消していった。
「……それだけじゃないの」
その口調の変化に、リョウはハッとして彼女を見た。
「襲ってきた相手に一撃は食らわせたけれど、顔をしっかり確認する前に逃げられちゃった」彼女は言葉を切ると、ポケットに手を伸ばした。「でも、逃げる直前に、これを渡されたの」
彼女は白い封筒を差し出した。
リョウは表情を引き締め、それを受け取った。
迷うことなく封筒を開け、中からメッセージを取り出すと、彼はその内容に目を走らせた。
読み進めるにつれ、封筒を握る手に力がこもっていく。
メッセージの重みが伝わってきたのか、彼は眉間に深い皺を寄せ、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「……まさか」
「ええ」レイナは重々しく頷き、リョウの脳裏に浮かんだ疑念を肯定した。
彼女のエメラルドグリーンの瞳が細められ、街灯の光が届かない、暗闇に包まれた通りへと向けられた。
「もうすぐ、戦争が始まるわ」




