第10章:五尾の教訓
道場中の視線が、驚きに目を見開いたままその三人へと注がれた。
ユラは、ミツルの打撃を受けた自身の腕の箇所に視線を落とした。
小さく鼻で笑うと、やがて彼女は穏やかな笑みをこぼした。
その突然の反応に、一年生たちは――二年生を除き――眉をひそめながら彼女を見つめた。
「すごいわね! 本当に」前髪をかき上げながら二人に目を向け、彼女は笑いを落ち着かせていった。「あんなに強い一撃を受けたのは、久しぶりだわ」
興奮にその紫色の瞳が輝く。「あなたたち、最高よ。一年生の時にアスカと手合わせして以来の、この高揚感だわ」
アスカは苦笑いしながら言った。「まだその話にこだわってるの?」
ユラは冷ややかな視線を向けた。「一生こだわるわよ」
彼女はメイとミツルの方へと向き直った。二人は背筋を伸ばして直立する。
ユラの表情が和らいだ。「合格よ。よくやったわ」
メイとミツルは顔を見合わせて微笑み、一礼した。
「ありがとうございます!」ミツルが言った。
メイも頷く。「はい。ありがとうございます」
「ふん」ユラは頷くと、背を向けた。
歩き出しながら、彼女は手袋を外し、ポケットにしまった。
「いいチームね、あなたたち」彼女はちらりと振り返って言った。「それぞれ違う強みを持っているけれど、互いによく補い合っているわ」
彼女は歩き続けた。「特に、メイ。あなたよ」
メイは瞬きをした。
ユラはかすかに微笑んだ。「またいつか、手合わせしましょうね」
メイは穏やかな笑みを浮かべて頷いた。「喜んで」
ミツルはにやりと笑うと、メイと共にクラスメートの待つ方へと戻り始めた。
「ユラって意外と優しいところあるんだね」とアスカがからかう。
ユラのこめかみに青筋が浮かんだ。
「うるさいわよ、アスカ」彼女は腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。「気が向けば優しくもなるわよ。だからって、お人よしってわけじゃないんだから」
「はいはい」アスカはくすりと笑った。
ユラは鋭い視線を向けた。
「わ、わ、わたしも、ユラはすごく優しいと思うな」チエコが控えめに付け加えた。彼女は視線を落とし、不安げに人差し指の先をちょんちょんと合わせていた。
ユラは苦笑いしながら、頭の横に汗の粒を浮かべた。「もう……あなたまで……」
シノはため息をつくと、再び一年生たちに視線を向けた。
「よし。次の試合に移ろう。次は――」
「俺の番だ!」ミナトが突然声を上げ、嬉しそうな笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
「やっと昼寝が終わったの?」ユラが尋ねると、彼女の頭の横に汗の粒が浮かんだ。
「うん!」ミナトは明るく答え、彼らの横を駆け抜けていった。「いい昼寝だったよ。シノの打撃、さらに重くなってるし」
シノは顔を覆って呆れた様子を見せた。アスカは吹き出し、チエコも小さく笑った。
ミナトは稽古場の中心で立ち止まり、自信に満ちた笑みを浮かべて琥珀色の瞳を輝かせた。
「それじゃあ……」彼は軽く腕を伸ばした。「第七、第八、第九班、前へ出て、お前たちの実力を見せてくれ」
合図とともに、三つの班が前に出て、戦闘の構えをとった。
シノはアスカに視線を向けた。「今回は『始め』って言わないのか?」
「相手はミナトだぞ」アスカは肩をすくめた。「彼が動く前に、こっちが動く隙すらないだろうな」
「そうだな」シノはため息をついた。
「瞬きするなよ」ミナトはさらに笑みを深めた。
「え?」対戦相手たちが声を漏らす。
次の瞬間、ミナトは残像を残すほどの速さで踏み込み、少年の一人に向かって強烈な蹴りを叩き込んだ。
「ぐっ!」
その衝撃で、彼は床を滑るように後方へと吹き飛ばされた。
他の連中が反応する間もなく、ミナトはすでに彼らの懐に入り込んでいた。
彼は軽やかに相手の間をすり抜け、流れるようなフットワークで次々と標的を変えていく。蹴り、打撃、そして素早いカウンターが途切れることなく繰り出され、相手チームは翻弄されるばかりだった。
アオイたちはその様子を食い入るように見つめていた。カズキは目を輝かせ、口をあんぐりと開けている。
「意外と……強いんだな」シズカが呟く。
「ああ」リクヤが頷いた。
アスカは小さく微笑みながら戦いを見守っていた。「そうよ。ミナトは『五尾』の中でも最強クラスのファイターの一人。パンチよりも蹴りを主体にしたスタイルなの」
ミナトは一人の足元を払って転倒させると、そのまま回転しながら別の相手に蹴りを放った。
「脚力が凄まじいのよ」とアスカは続ける。「それに、あの電光石火の反射神経が組み合わさっているから、不意を突くなんてまず不可能ね」
ミナトは笑みを絶やさぬまま、さらに二人を軽々と蹴り飛ばした。
「持久力やスタミナも桁外れよ」背中で手を組みながら、ユラが付け加える。「一度動き出したら、長時間戦い続けられるの」
彼女は、ミナトがまた別の攻撃をさらりとかわす様子を見つめていた。
「戦闘本能、柔軟性、そして反射神経。それらすべてが相まって、彼についていくのは至難の業なのよ」
最後の対戦相手が、荒い息を吐きながら膝をついた。
ミナトはその前に立っていた。息一つ乱さず、勝利の笑みを浮かべたまま。
「彼のスケボーの腕が誰にも負けない理由、ようやくわかった気がするよ」ミツルが呟いた。
「同感ね……」アヤネが頷いた。
「あの脚だよ」リクヤは眼鏡の位置を直した。「スケボーであれだけ無造作にバランスを保てるなんて、特にあの無茶なトリックを決める時なんか、相当な下半身の強さがあるはずだ」
興奮が高まるにつれ、彼の眼鏡が光を反射した。「それにキック力もすごい。ボードを使って……する時なんかにも役立つだろうし」
「はいはい、もういいよ」ライトは明らかに苛立った様子で鼻で笑った。「スケボーの武勇伝なら、もう散々聞いたから」
「ん?」サヤカが彼の方を向いた。「どうしてそんなに機嫌が悪いの?」
「先週のスケボー大会でミナト先輩に負けたことを、まだ根に持ってるのよ」シズカが淡々と言い放った。
ライトは即座に顔をしかめた。「ち、違うよ!」
「いいえ、そうなのよ」シズカは素っ気なく返した。
「違うってば!」
「そうなのよ」
他の面々は、呆れたような無表情のまま、額に汗を浮かべてそのやり取りを眺めていた。
「シズカ、またやってるよ……」ヒカルがニヤリと笑いながら呟いた。
「あ、ああ……」ミツルも同じようにニヤリと笑って同意した。
ミナトは倒れ込んだ対戦相手の元へ歩み寄り、その隣に膝をつくと、温かい笑みを浮かべて手を差し伸べた。
その少年はまばたきをしてから微笑み返し、手を伸ばした。ミナトが彼を引き起こすと、相手も立ち上がり、ミナトの目元は優しげな笑みで細められた。
「みんな、よくやった」ミナトは言った。「でも、油断は禁物だぞ。対戦相手から絶対に目を離すなよ」
そして彼は、パッと明るい笑顔を見せた。「いいな?」
生徒たちも満面の笑みで一礼した。「はい!」
3つのチームが背を向けて去っていくのを、メイは微笑みながら見つめていた。
「戦う時は強いかもしれないけど……」彼女は面白がるような笑みを浮かべ、ミナトを見つめながら言葉を続けた。「後輩にアドバイスする時はすごく優しいのね。なかなか素敵だわ」
「だろ?」カズキも笑顔で応じた。 「彼は本当に優しくて、それにすごい人でもあるの」
ミナトが仲間たちの元へと戻っていく中、アオイは同意するように頷いた。
「どうだった、シノ?」ミナトは黒髪の友人の前で立ち止まると、腰に手を当て、誇らしげに胸を張った。「二分もかからなかったし、汗ひとつかかなかったよ」
「お前はこの学校のエリートファイターの一人だからな、バカ」シノは手に持ったクリップボードに何かを書き込みながら、青い瞳をそこに向けたまま答えた。「調子に乗るなよ」
「えーっ!」ミナトは彼に身を乗り出し、不満げな声を上げた。「絶対褒めてくれると思ったのに」
シノはようやく彼に視線を向け、退屈そうな目で眼鏡越しに彼を見た。
「お前はいつも褒められたがるな」彼は淡々と言った。「俺に言わせれば、それはただの自慢だ」
「ふんっ!」ミナトは目をぎゅっとつむり、頬を膨らませて顔を背けた。「意地悪」
シノは彼の子供っぽい振る舞いに呆れて汗をかき、静かにため息をつきながら首を振った。
「話を戻すが……」と彼は呟いた。
「ああ」アスカが微笑んだ。「次はシノの番だよ」
「はあ!?」シノは驚いて目を見開き、眼鏡が鼻筋を少しずり落ちた。「てっきり次は君が行くんだと思ってたのに! なんで行かないんだよ!?」
「だって、次は行きたくない気分なんだもん」アスカの笑みが深まった。「それに、シノはスパーリングを楽しみにしてそうだしね。さあ、さっさと行って」
シノは少し苛立ちながら歯ぎしりし、クリップボードをミナトの胸に押し付けると、足音荒く前へと歩き出した。
「頑張ってね~!」ミナトは目を細めて明るく笑い、手を振った。
「そ、そうね、シノ。いいスパーリングを」チエコも頷いた。
シノは彼女を振り返り、驚いて瞬きをした後、小さく微笑んだ。
「ありがとう」
彼は向き直り、そのまま歩き続けた。
「おい、俺への『ありがとう』はどこだよ~?」ミナトは唇を尖らせた。
「我慢しろ!」シノが言い返した。
「ひどーい!」
アスカはくすりと笑うと、再び一年生たちに視線を向けた。「第10班、第11班、第12班、前へ出てください」
「シノ先輩を相手に、四人か」アオイはヒカル、カズキ、サヤカ、そしてシズカの方を向いた。
「そうなんだよな」和樹は小さく唇を尖らせながら、準備運動で腕を伸ばし、ため息をついた。「ミナト先輩と戦ってみたかったんだけど……」
「まあ、そういうことだからさ、和樹……」ヒカルは苦笑いしながら言った。
サヤカはにやりと笑った。「行こうか」
シズカも同意するように頷いた。「うん」
彼女が真っ先に歩み出し、サヤカ、ヒカル、和樹がそれに続いた。
「みんな、頑張ってね!」アヤネが声を弾ませる。
「シノ先輩相手に、あまり乱暴にしちゃダメだよ?」メイが穏やかな笑みを浮かべて声をかけた。
「乱暴なんてしないってば」サヤカは茶目っ気たっぷりに振り返った。
「そうだよ~!」ヒカルも唇を尖らせて付け加える。「いつも気をつけてるもん!」
アオイ、ミツル、リクヤがくすりと笑う中、ライトはただ腕を組み、不敵な笑みを浮かべていた。
ヒカル、和樹、サヤカ、シズカは、部屋の中央でチーム・イレブンと並び、四つのチーム全員がシノと対峙した。
黒髪の先輩は、彼らに視線を向けたまま、落ち着いた動作で眼鏡の位置を直した。
「数回会ったことはあるけど、戦い方については何も知らないわね」アオイはシノから目を離さずに言った。
「私は知ってるよ~!」アヤネが突然口を挟み、ノートを取り出した。「シノ先輩だよね? ちょっと見てみるね」
「そのノート、久しぶりだな」アヤネが熱心にページをめくる様子を見て、ライトが微笑みながら言った。
彼女はノートに目を通し、ふと手を止めた。
「あはっ! 見つけた」アヤネはにっこりと笑った。「シバオカ・シノ(芝岡シノ)だ」
彼女は指でページをなぞりながら、そこに書かれた内容を読み上げた。 「彼は素手での格闘や、様々な武術に長けています。物静かで真面目なタイプに見えますが、見た目以上に屈強な肉体の持ち主であり、並の格闘家とは比べものにならないほどの実力者なんです」
彼女はそう続けながら、頬を伝う一筋の汗を拭った。
「相手の肋骨をへし折るほどの怪力を誇る、パワーファイターとしても知られています」
「えっ、あの人が!?」リクヤは目を丸くした。
「なんか違う気がするけど……」ライトはまだ少し驚いた様子で呟いた。
「その特徴って、どっちかっていうとミナト先輩っぽいよね!」ミツルも目を大きく見開いて口を挟む。
アスカはニヤリと笑った。「そうね。彼女が言ったことって、ミナトの性格に当てはまるような……」
彼女の視線はシノに向けられたままだった。「でも、見かけで判断しちゃダメよね。チエコみたいに」
アオイは考え込むように唸りながら、シノから視線を外さなかった。
「合図を出していいよ、アスカ」とシノが言った。
「え?」アスカは瞬きをした。「別に、そのまま始めてもいいのよ?」
「ルールは守らないとね」シノはあっさりと答え、光を反射する眼鏡の位置を直した。
「律儀だねぇ……」ミナトが茶化すようにクスクスと笑う。
チエコは微笑み、ユラはただ溜息をついた。
アスカは不敵な笑みを浮かべた。「そうしたいならね」。彼女は声を張り上げ、目を輝かせた。「始め!」
3つのチームが即座にシノへと殺到し、シノも素早く戦闘の構えをとった。
第11チームの少年が真っ先に彼に到達し、拳を引いてからパンチを繰り出した。
シノは横に身をかわしてその一撃を避け、素早いジャブを相手の脇腹に叩き込んでバランスを崩させた。
もう一人のメンバーが即座に追撃し、連携してシノを翻弄しようとする。
「行くぞ、カズキ!」ヒカルがニヤリと笑う。
「おう!」カズキは彼と並走しながら前方に跳び、シノめがけて拳を突き出した。
シノはその両方のパンチを難なく受け止めた。
「なっ!?」ヒカルが息を呑む。
シノに拳を固定され、カズキは歯ぎしりをした。
先輩である彼はただ二人を見つめていた。頭上の照明の下で、眼鏡が怪しく光る。
そして、彼は不敵な笑みを浮かべた。
ヒカルとカズキは即座に後方へ跳び退き、パンチとキックを組み合わせた素早い連撃で反撃に出た。
シノは絶えず身をかわし、前腕や脚で攻撃を受け流しながら、隙を見ては反撃を繰り出した。
「妙だな……」彼はわずかに眉をひそめた。「なぜこいつらはこんなに強いんだ?」
そう考える間もなく、二つの人影が不意に視界に飛び込んできた。
シノは眼鏡の奥で目を見開いた。
彼は即座に二人の同時攻撃を身を屈めてかわし、後方へ跳び退きながら、両手を前に突き出した。
「ありえない!!」
その突然の叫び声に、誰もが不意を突かれた。
クロガネの双子は床に着地すると、困惑した様子でシノを見つめた。
「絶対にありえない! 俺はそんなことしない!」シノは再び声を張り上げ、防御の構えで両手を掲げたまま、うつむいた。
「あ……そうだったな……」ミナトは気まずげな笑みを浮かべ、冷や汗を流した。
「どうしたの、彼?」ミツルが眉を上げて尋ねた。
「そこまで考えが及んでなかったわね……」アスカは小さく微笑みながらため息をついた。「シノには厳格な信条があるって、言い忘れてたわ。彼は女の子に手を上げるのを拒むのよ」
「そのルールを徹底しすぎていて、女の子とは戦おうともしないんだ」ユラも冷や汗を流しながら付け加えた。「スパーリングだって例外じゃない」
アヤネは彼らの顔を交互に見やった。「でも、もし敵が女性だったら? その時は……戦わないの?」
「ううん。敵でも同じよ」アスカは微笑んだ。「味方だろうと敵だろうと、彼は決して女の子とは戦わないの」
アヤネは目を輝かせ、すぐに何かを書き留め始めた。「シノ先輩のプロフィールを更新しなきゃ~!」
リクヤは眼鏡の位置を直した。「ってことは、君たちともスパーリングしたことがないってことか?」
「そう」アスカはにやりと笑った。「でもそのせいで、彼はいつも苦労してるのよ。私たちが彼をボコボコにしちゃうから」
「彼を叩きのめすのは楽しいからね」ユラは淡々と言い放った。
ミナトが笑い、チエコは穏やかに微笑んだ。
シノはゆっくりと顔を上げ、両手を体の脇に下ろしながら、ぐっと顎に力を込めた。
ヒカルたちは戸惑いの表情を浮かべ、一瞬彼を見つめた。
「へえ、女の子とは戦えないんだ?」シズカは首を傾げながら言った。「実戦で女性の敵と戦うのを拒めば、命を落としかねないって分かってるよね?」
「関係ない」シノは眼鏡の位置を直しながら答えた。「どのみち、俺は死なないからな」
眼鏡の奥で、彼の青い瞳が鋭く光った。「俺のルールは変わらない。女の子とは戦わない」
その言葉に、シズカの瞳に影が差し、唇が薄く結ばれた。
「そう」彼女は顔を上げた。その表情から影が消え、紫色の瞳がシノを射抜く。「サヤカ」
サヤカはにやりと笑った。「もう動いてるよ、お姉ちゃん」
彼女は勢いよく飛び出した。
「なっ――!?」反応する間もなく、サヤカの拳がシノに迫る。彼は身を反らし、紙一重でその一撃をかわした。
速い……!
態勢を立て直す間もなく、今度はシズカが突如として彼の横に現れ、大きな弧を描くように脚を振り抜いた。
シノは上体を反らせ、両手を床についてキックをやり過ごす。そのまま素早く地面を蹴って後方へ宙返りし、双子との距離を取った。
だが、シズカは彼に息をつく暇も与えなかった。
彼女は素早い蹴りと拳の連打で攻め立て、シノは一度も反撃することなく、すべての攻撃を防御し回避せざるを得なくなった。
サヤカも攻撃に加わる中、彼はそれぞれの攻撃を受け流し、後退し、その勢いを逸らしていく。
「女性とは戦うべきじゃないと思っていても……」シズカはそう言いながら、彼の顔面めがけて拳を振るった。
シノは首を傾け、その拳を空を切らせた。
「……一方的に攻撃を受けている状況じゃ、そんなこと関係ないでしょ」彼女は続けて、鋭いハイキックを放った。シノは掌を突き出し、彼女の足の裏を受け止めてその一撃を阻んだ。
「私たちと戦わないのは……」シズカは声を潜めながら続けた。「……私たちが劣っていると思っているから、でしょ?」
シノは目を見開いた。
静香が不意に後方へ飛び退くと同時に、横からさやかが回り込み、彼に向かって脚を振り抜いた。
「ぐっ……!」
その蹴りが、シノの脇腹を捉えた。
衝撃によろめきながら、彼は片目をきつくつぶって顔をしかめる。
「俺たちも……混ざっていいってことか?」ヒカルが眉を上げながら呟いた。
カズキと他の二人の男子は、揃って肩をすくめるだけだった。
静香はシノから視線を外さず、その表情は読み取れないままだった。
「何かを恐れているのね?」彼女は静かに問いかけた。「だから、私たちと戦う気になれないんでしょう」
彼女の表情がわずかに和らぐ。「それとも……あなたをそうさせた何かが、過去にあったのかしら。当たってる?」
彼女の言葉にアスカが眉を上げ、ミナトたちは興味を惹かれた様子で黙って見守っていた。
シノはぐっと奥歯を噛み締めた。「……鋭いな」
彼は姿勢を正し、鼻筋にかかった眼鏡を押し上げた。
「だが、それでも何も変わらない。俺は女の子とは戦わない」
眼鏡の奥で、彼の瞳が細められる。そうだ……俺は絶対に……女に手を上げるようなことはしない。
ふと、かすかな記憶が脳裏をよぎった。
幼い子供をかばうように覆いかぶさる女と、その上に立って拳を何度も振り下ろす男の姿。
女の下で震える子供は、涙を流しながら許しを請うていた。
そして記憶の中の幼い自分が、目を見開き、肩で息をしながら彼らに向かって駆け寄っていく。
「やめろ!」
彼は女と子供から男を引き剥がすと、怒りに顔を歪めながら猛然と拳を叩きつけた。
記憶が薄れていく。
シノはゆっくりと目を開いた。その青い瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「女が傷つくのをただ見ているくらいなら……俺が殴られるほうがマシだ」
彼はわずかに目を細めた。
「それに、俺は死なない。まだ、その件についてやるべきことがあるからな」彼の声は毅然としていた。「味方だろうと敵だろうと……俺は彼らを救い、守りたいんだ」
彼の言葉は、その場にいる全員の心に何かを揺り動かした。彼らはその言葉を受け止め、わずかに目を見開く。
「シノ……」ミナトが呟いた。
アスカは腕を組んだまま立ち尽くし、ユラはその隣で唇を真一文字に結んで立っていた。
シズカがシノに向かって歩み寄る。その動作は落ち着き払っており、サヤカは姉が近づいていく様子を見守っていた。
「それでも……」シズカは無表情のまま口を開いた。「言った通り、あなたは殴られるままにするつもりなのね?」
彼女は左の拳を握りしめた。「私には、やっぱり愚かなことに思えるわ。特に、実際の戦いにおいてはね。ただ殴られるだけで……間違ったことに対して立ち向かおうともしないの? 指一本動かさないつもり?」
シノの視線は揺るがなかった。「構わない。俺は自分の言葉を絶対に曲げない」
シズカは彼の数歩手前で足を止めた。
シノは言葉を継ぐ。「それが俺の信念だ。そして、それが俺という人間なんだ」
シズカは不意に左の拳を後ろに引いた。
「はあ? 知ったことじゃないけど」彼女の拳が勢いよく突き出された。
シノはぎゅっと目を閉じ、周囲の人々は突然の攻撃に目を見開いた。
「……なんてね」シズカの拳は、シノの顔のすぐ手前で止まった。
「え?」シノはゆっくりと目を開け、戸惑いながら瞬きをした。
シズカは一歩後ずさりし、両手をポケットに突っ込んだ。
「あなたは私の先輩だもの。信念のせいで本当に殴ったりなんて、できるわけないじゃない」
彼女の口元に、小さく不敵な笑みが浮かぶ。「あなたのやり方、嫌いじゃないわ。すごいと思う」
彼女はわずかに目を細めた。「でも、それでもやっぱり……いざという時は、女性の敵相手でも戦ってほしいって思ってるけどね」
シノは息を吸い込み、言葉を続けた。
「直接拳を叩き込んだり、打撃を与えたりする必要はないわ。無用な危害を加えずに勝つ方法は他にもある」
「えっ……」
シズカは小さく口元を歪めて笑った。「戦う力を奪えば勝てるのよ。どうしても女性の相手を止めなきゃいけない時は、力任せの技じゃなくて、拘束したり、武器を取り上げたり、動きを封じたりする技に集中することね」
彼女はさらに言葉を継いだ。「あなたのいつもの戦い方は強力な打撃が主体だけど、女性相手ならアプローチを完全に変えられるはずよ。相手の勢いを利用する。攻撃をいなす。体勢を崩す。必要なら押さえ込むの」
シノは黙ったまま、熱心に耳を傾けていた。
「そうすれば、自分のルールを破らずに相手を止められるわ」
シズカがもう一度不敵な笑みを浮かべて背を向け、歩き出すと、シノは小さく息を漏らした。
「いずれにせよ、どんな状況でも決して怯んではいけないわ」
彼女は立ち止まり、肩越しに彼を振り返った。「私たちを甘く見ないで。女はあなたが思っているよりずっと強いのよ」
その言葉が彼の胸の奥を揺さぶり、口元に小さな笑みが浮かんだ。
そして前を向いた彼は、そこに立つ二人の人影に気づき、わずかに身をすくませた。彼女たちの瞳は赤く輝き、その体からはオーラが放たれていた。
「シノ……」アスカが苛立ちを露わにして口を開いた。
「つまり、自分のコンプレックスのせいで……それに私たちが弱いと思って、隠し事をしていたわけ?」ユラが眉をピクリと動かしながら言葉を重ねた。
シノは慌てて両手を振った。「ち、違うよ! 二人が弱いなんて思ってない! ただ……!」
シズカは目を閉じたまま、手をポケットに入れた状態で歩き去り、後輩を問い詰める役目を二人の先輩に任せた。
「意外だったわ、シズカ。あなたにしては珍しい」サヤカは双子の姉の隣に歩み寄りながら、くすりと笑った。
「うん」静香は数歩先で足を止め、目を開きながら頷いた。「どっちにしろ、いい結果になってよかったよ」
その言葉に合わせるように、二人の少女は背後を振り返った。
明日香はしのを小脇に抱え込み、片手でその黒髪をぐしゃぐしゃとかき回していた。その傍らでは、由良が面白そうにその様子を眺めている。
友人たちの姿を見て、千恵子は微笑み、湊は腰に手を当ててニカっと笑った。
やがて、ヒカルたち男子三人が双子の元へと歩み寄る。
「それじゃ、俺たちの勝ちってことかな?」ヒカルが尋ねた。
「うん」静香はあっさりと頷く。
背後で、しのが小さくうめき声を漏らした。
明日香は楽しげに笑いながら、ようやく彼を解放した。
「あんたたちは合格」彼女の笑みがさらに深まる。「さて……次は私の番みたいだね」
ヒカルたちが戻ってくる中、葵はライトと共に不敵な笑みを浮かべた。
「頑張ってね」満が二人に声をかける。
「本当に頑張らないとね」と彩音も付け加えた。「明日香先輩は……」
「わかってるよ」葵は彩音に微笑みかけた。「彼女を怒らせすぎないように気をつけるから」
周囲が目を丸くする。
「どうして……知ってるの?」彩音が眉を上げて尋ねた。
葵は答えた。「戦うところを見たことがあるの。数ヶ月前の、あの夜の乱闘でね。覚えてる? 私があなたのお父さんや、お姉ちゃん、それにレイナ先輩と初めて会った夜のこと」
彼女の口元に、小さな笑みが浮かぶ。「私にとって、すべてが始まった夜だったから」
彼女は決意を込めた笑みを浮かべ、皆を振り返った。「だから、心配しないで」
ライトもまた微笑み、同意するように小さく頷いた。
「第四、第五、第六チーム」明日香は不敵な笑みを崩さぬまま声を上げた。「始めようか」葵たちはスパーリングに向けたウォーミングアップとして、軽い運動やストレッチ、マッサージを行った。
その光景を目の当たりにし、クラスの生徒たちは興奮気味にざわめいた。
「飛鳥先輩……飛鳥先輩……」アヤネはノートのページをめくりながら、その名を繰り返し呟いた。
「あった。飛鳥蓮華」彼女はページに視線を走らせる。「ここには、小学生の頃から強かったって書いてあるわ」
彼女が言葉を続けると、周囲の生徒たちがそちらを向いた。
「特に素早い近接格闘が得意で、その強さゆえに、今の二年生の間でも恐れられている存在みたい」
「おまけに、とてつもなく強いってわけか」ヒカルは腕を組みながら頷いた。「湊先輩みたいにね」
「うん」アヤネは同意するように頷き、ノートを閉じた。「でも、それより知りたいのは、飛鳥先輩がどんな戦闘スタイルを得意としているかよね」
「それは見てのお楽しみってことか」カズキが前を見据えたまま付け加えた。
飛鳥は不敵な笑みを浮かべ、水色の瞳で六人の対戦相手を捉えていた。
彼女は指を組み、頭上へと掲げて腕を伸ばす。
そして右手を左肩に置き、左腕を前後に回しながらウォーミングアップを続けた。
「手加減なんて期待しないでよ」彼女は挑発するように言った。
その言葉に少し苛立ったのか、第六チームの男子生徒が舌打ちをする。
「まだ俺たちを甘く見ないでくれよ!」
彼は勢いよく飛び出した。
チームメイトや第五チームの二人、そしてライトも即座に彼に続き、それぞれ異なる角度から飛鳥へと突進していく。
赤髪の二年生は、不敵な笑みを浮かべたまま、微動だにせずその場に立っていた。
先頭の男子生徒が雄叫びを上げ、鞭のようにしならせた右脚を彼女に向かって振り抜く。
飛鳥は難なくその脚を受け止めた。
彼が態勢を立て直す間もなく、彼女は踏み込み、掌底を彼の顎へと叩き込んだ。
「ぐっ!」彼は後ろによろめかされ、地面に叩きつけられてそのまま滑っていった。
続いてチームメイトが彼女に飛びかかり、第5班の少年二人も間髪入れずにそれに続いた。
アスカが動いた。
彼女は最初の攻撃をすり抜けて相手の腕をいなし、上から打ち下ろす一撃でその体勢を崩させた。二人目の少年が反応するより早く、彼女はその手首を掴んで懐に踏み込み、前腕を相手の顎の下に叩きつけて地面に叩き伏せた。
他の者たちも態勢を立て直し、ほぼ同時に再び襲いかかった。
だが、アスカは迷うことなく動き続けた。
その動作はどれも無駄がなく的確だった。防御から即座に反撃へ転じ、掴み技からテイクダウンを奪う。相手が態勢を立て直す前に、その隙を逃さず突いていく。
「あれは……」ミツルが呟いた。
「……クラヴ・マガね」メイが言葉を継いだ。「護身を目的とした格闘技よ。脅威を可能な限り素早く無力化することに主眼が置かれているわ」
「これは記事のネタになるわね~!」アヤネは目を輝かせながら再びノートを開き、猛烈な勢いで何かを書き留めた。
「うりゃあ!」ライトが叫び、容赦ないパンチとキックの連打を繰り出した。
アスカは鋭く無駄のない動きで攻撃を一つひとつ防ぎ、時折不敵な笑みを浮かべながら反撃を繰り出す。ライトもまた、隙を見せることなく、その反撃を素早く防いでいった。
(やるじゃない……)アスカはそう思いつつ、5人全員に意識を配りながら攻撃をいなしていく。
その時、ライトが突然、彼女の顔面めがけて素早いパンチを放った。
アスカは上体を後ろに反らし、拳を紙一重でかわす。
そのまま地面に手をついて後方へ宙返りし、軽やかに着地すると、再び拳を構えた。
「わあ~!」彼女はにやりと笑った。「今の、危なかったよライト!」
ライトは舌打ちをすると、再び前へ飛び出し、即座に攻撃を再開した。
「なんでアオイはあそこに突っ立ってるの?」サヤカが尋ねた。青い髪の少女は、ほとんど動くことなく、アスカの動きをじっと見つめていたからだ。
メイはくすりと笑った。「まだ気づかないの?」その表情が優しく和らぐ。「アオイは攻撃を仕掛ける前に、じっくりと相手を観察するのよ」
彼女の紫色の瞳が誇らしげに輝いた。「まるで相手の動きを読み取っているみたいにね……そして、相手が自分の動きを見抜かれたことに気づくよりも早く、学んだことを利用して反撃するの」
まさにその言葉通り、アオイが不意に重心を移動させた。右足で軽く弾むように動いたかと思うと、一気に前へと飛び出した。
その姿は、稲妻のように素早く、残像を残すほどだった。
「えっ?!」クラスの全員が目を丸くした。
アオイは、まだライトたちを相手にしていたアスカめがけて一直線に突進した。
彼女は不意に両手を地面につき、低く身を沈めると、そのまま勢いよく前方へと跳躍した。
「なっ……!?」アスカは攻撃を察知するのが精一杯だった。
左腕を掲げた瞬間、アオイの右脚がそこに叩きつけられ、その衝撃でアスカは後方へと押し戻された。
「ぐっ……!」
不意の一撃に顔をしかめながら後方へ跳び退き、アスカは数メートル先でしっかりと着地した。
アオイは軽やかに着地して姿勢を正し、無表情な瞳をアスカに向けたまま立ち尽くした。
「……っ!」突然の攻撃に、クラス全員が口をあんぐりと開け、目を見開いた――チエコ、ミナト、シノ、そしてユラでさえも。
ミナトとシノは、あごが外れんばかりに驚愕していた。
ユラは信じられないといった様子で唇をわずかに開き、瞬きをした。チエコはただアオイを見つめ、わずかに眉をひそめていた。
アスカはゆっくりと腕を下ろした。目の前に立つ青髪の少女を見つめる彼女の頬を、一筋の汗が伝い落ちる。
(今の、何……?)アスカはアオイから視線を外さずに思った。(あの一撃……まともに食らってたら、保健室行きだったかも)
彼女の目がわずかに見開かれた。(それに、あの威力……たった一人で? まるで『五尾』のメンバー全員を合わせたみたいだ)
アオイが不意に前方へと飛び出した。
少女が矢継ぎ早に繰り出す拳や打撃の連打に、アスカの瞳が鋭さを帯びる。
(速い!)アスカは最初の攻撃をかわし、即座に反撃を繰り出した。
アオイは迷いなくそれをすり抜けた。
アスカが脚を薙ぎ払うように振るう。アオイは瞬時にそれを回避した。
アスカは目を見開いた。(嘘でしょ……今の、読まれてたの!?)
アオイが拳を握りしめ、次のパンチを繰り出すために腕を引いた。
(まるで、私が動く前に次の動きを知ってるみたいだ!)
その瞬間、アオイが低く身を屈めた。
「えっ……!?」アスカは瞬きをした。
ライトは即座にその隙を突いた。
彼は葵の右肩に片手を置き、彼女を飛び越えるように身を翻すと、空中で体をひねりながら飛鳥の顔面めがけて蹴りを放った。
飛鳥は目を見開いた。彼女はとっさに両腕を顔の前で交差させ、その一撃を防ぐ。
ライトのスニーカーのつま先は、彼女の鼻先わずか数センチのところで止まった。
ライトが軽やかに着地すると同時に、飛鳥は後ろへと飛び退いた。彼女は地面を滑るようにして止まり、荒い息を吐きながら、他の四人の男子生徒たちが葵とライトを囲むように位置につくのを眺めた。
やがて、彼女の口元に小さな笑みが浮かんだ。
「いいじゃない」彼女は腕を下ろし、軽くさすった。「合格よ」
葵と男子生徒たちがすぐに満面の笑みを浮かべる中、教室は驚きの声と歓声に包まれた。
「見たかよ、今の!」
「すっげーカッコよかった~!」
「さすが葵だね~! まさに『バシッ!』って感じだった!」
葵たちを囲んで歓声が上がる中、飛鳥はニヤリと笑い、両手をポケットに突っ込んだ。
「今の動き、何だったんだ?」シノ、チエコ、ユラを伴って飛鳥に歩み寄りながら、ミナトが呟いた。
「すごく面白い子ね」飛鳥はそう答え、クラスメートたちと笑い合う青髪の少女から視線を外さなかった。
「あの動き……」シノは二人の視線を追いながら、声を潜めた。「信じられない。ミナトよりも速かったなんて」
当のミナトは何も言わず、隠しようのない感嘆の念を込めた琥珀色の瞳で、じっと葵を見つめていた。
「爆発的なスピードに、正確な格闘技術か」ユラが感心した様子で呟いた。「レイナ先輩が彼女をあんなに可愛がる理由がわかった気がする」
「それだけじゃない気がするけどね、ユラ」飛鳥はそう付け加え、表情を和らげた。
チエコは何も言わなかった。彼女はただ、教室の向こう側にいるクラスメートたちを眺め、その視線を葵に向け続けていた。




