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黒蝶  作者: Paracoccidioidomicosisproctitiss


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3/4

蛹化

          三


 あれから、数日が経った。

 ラインを交換したからといって、いきなり私の生活が劇的に薔薇色に変わるなんてことは当然なく、相変わらず昼休みは一人、旧校舎の薄暗い物置小屋に逃げ込み、ホコリの匂いをおかずにぽつんとお弁当を食べる日々が続いていた。

 ただ、決定的に変わったことがあるとすれば。夜な夜な自分の部屋のベッドの上で、彼とのたった一つのスタンプだけのライントーク画面を見返しては、だらしなく頬を緩めてにまにましてしまい、ハッと我に返って「キモイキモイキモイ! 死ね私っ!」と枕に顔を押し付けて自分を滅するという無意味な行為を繰り返すようになったことくらいだ。

 そして、一人で勝手に感情をジェットコースターのように乱高下させた土日を挟み、週明け。再び、私にとって地獄のような学校の一週間が始まってしまった。


(行きたくない、行きたくないよぉ……。またあの居心地の悪い教室で、息を潜めてやり過ごす日々が始まるんだ……)

 どんよりとした重い雲のような気持ちを抱えながら、いつもの様に虚ろな瞳で足元を見つめ、コンプレックスの胸を隠すように前かがみで通学路をとぼとぼと歩いていると。

「おはよう、黒瀬さん」

 春の風に乗って運ばれてきたような、ふわりとした心地よい声が背後から降ってきた。

 びくぅっ! と全身の毛が逆立つような感覚に襲われ、私はバネ仕掛けのおもちゃのように慌てて振り返った。

「あ、ああ、亞那谷くん、お、おはようっ……!」

 キョドるあまり、声のボリューム調整が上手く機能せず、自分でもびっくりするくらい変に大きな、それでいて裏返った声で小さく叫んでしまった。

 しかし、亞那谷くんは私のこんな寄行にも一切引くことなく、いつもの太陽のようなふんわりとした笑顔を向けてくれた。

「あはは、黒瀬さん、朝から元気だね。今週もよろしく」

 実を言うと、これがライン交換に次ぐ、最近の私の生活の大きな変化だった。

 亞那谷くんの家と私の家はどうやら方向が同じらしく、通学路の途中のある交差点あたりで、こうして合流できることが判明したのだ。そして、彼が私を見つけると、必ずこうして後ろから声をかけてくれて、学校まで一緒に歩くのがお決まりのパターンになりつつあった。

 隣に並んで歩き出す彼を見上げながら、私はあわあわとパニックになりかけていた脳みそを必死に落ち着かせ、なんとか彼の他愛もない雑談に相槌を打つ。十五年の人生において同年代の異性への耐性など完全にゼロの私だが、彼のそのふわりとした緊張を強いない雰囲気と、何より一切の下心も悪意もなく、まるで道端の花に水をやるような自然さで接してくれるおかげで、しどろもどろになりながらもなんとか会話が成立するくらいにはなっていた。

 しかし、やはり慣れない異性との並び歩きに、体はぷるぷると子鹿のように震えてしまうし、心臓はばくんばくんとうるさく鳴り続けている。

 そんな私を見て、ふと亞那谷くんが少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。

「あのさ、黒瀬さん。僕、いつも朝見つけると声かけて、無理やり一緒に登校しちゃってるけど……嫌だったりしない? もしかして、一人のペースで歩きたいのに、無理させちゃってたら悪いなって思って」

 その唐突な、そしてあまりにも思いやりに満ちた質問に、「ひうっ!」とカエルの潰れたような変な声が出てしまう。

(ち、ちちち違うのっ! 嫌なわけないじゃないっ! むしろ奇跡みたいで嬉しくて、毎日この時間を密かに楽しみにしてるくらいなのにっ!)

 私は、彼に誤解されては大変だと、壊れた首振り人形のようにふるふると激しく首を横に振った。

「う、ううんっ! そ、そんなことないっ……」

「ほんと? でも、いつもすごく緊張してるみたいだから……」

「き、緊張、しちゃってて……そ、その、私、ひ、人と話すの、全っ然、得意じゃないから……だから、変な態度になっちゃうだけで……」

 必死に弁解するが、どもりまくりで言葉が途切れ途切れになってしまう。

 そして、言い終わった直後、私はハッとなった。

(待って、今の言い方だと、『あなたと話すのが苦痛です』って拒絶してるみたいに聞こえない!? 私のバカぁ! コミュ障の極みっ!)

 焦燥感に駆られ、私は思い切ってガバッと顔を上げ、彼の真っ直ぐな瞳を見つめた。

「あっ! で、でも、違くてっ! 嫌じゃなくてっ! は、話しかけてくれるのは、う、嬉しい、からっ……!」

 そこまで一気にまくしたてた瞬間、自分の口から出た<嬉しい>というストレートな言葉の響きに気付き、ボフッと音を立てて顔が茹でダコのように真っ赤になるのを感じた。

 亞那谷くんは、一瞬きょとんとした後、パァッと顔を輝かせた。

「そうなの? あー、よかった。僕の一方通行じゃなくて」

「あうっ!」

(よ、よかった!? 今、よかったって言った!? いやいやいや、ただ私が拒絶してないから恥かかずに済んだって喜んでるだけだよね!? 絶対そうっ! 勘違いするな私っ!)

 またしても情けない声を出して一人でパニックに陥る私を見て、彼は優しく、本当に優しく微笑んだ。

「ふふ、黒瀬さんのペースでいいから、少しずつ僕と話せるようになってくれたら嬉しいな」

 どきり、と心臓が大きく跳ねた。

(なんて……なんて優しいんだ……! 神様なの? 仏様なの? それとも天使……?)

 彼の底なしの優しさに触れ、私の心の中の荒んだ大地に、少しずつ温かいお湯が染み込んでいくような感覚がした。


        ★


 学校に着き、下駄箱で靴を履き替え、教室までの廊下を一緒に歩く。

 交わす会話の内容は「今日の時間割、体育あるの嫌だなー」とか「昨日のテレビ見た?」とか、本当に他愛もないものばかりだけれど、今まで誰ともそんな会話をしたことがなかった私にとっては、まるでおとぎ話の中に迷い込んだような、嘘みたいな現実だった。おかげで、学校に足を踏み入れる時のあの鉛のように重い足取りが、少しだけ軽くなっている気がした。

 だが、やはり教室に近づくにつれて、周りの生徒たちの視線がチクチクと突き刺さってくるのを感じる。

「え、またあの二人一緒に来てる」

「亜那谷くん、なんであんな暗い子と?」

 そんな幻聴まで聞こえてきそうで、私は教室の引き戸を開けるなり、脱兎のごとく自分の席まで駆け抜け、勢いよく机に突っ伏した。

(亞那谷くん、ごめんねっ! せっかく一緒に教室まで来てくれたのに……! やっぱり、クラスのみんなの好奇の視線には、私のメンタルが耐えられないっ!)

 内心で彼に平謝りしながら、私は午前中の授業をいつものように息を潜めてやり過ごした。


        ★


 昼休み、いつものように、誰にも気づかれないうちに教室を抜け出し、旧校舎へ避難しようとカバンからお弁当箱を取り出した時のことだった。

「黒瀬さん」

 不意に横から声をかけられ、びくぅ! と肩を震わせて振り向くと、そこにはお弁当箱を手にした亞那谷くんが立っていた。

「そ、そういえばさ、ずっと気になってたんだけど。黒瀬さんって、いつもお昼休み、どこに行ってるの? 教室にいないよね」

 ぎょっ!? と目玉が飛び出そうになる。

(しまった、目をつけられていた……! どうしよう、正直に言うべきか、適当に誤魔化すか。図書室? いや、図書室でご飯は食べられない。中庭? あそこは陽キャの巣窟だ。ええい、もう嘘なんてつけないっ!)

 私は観念して、視線を泳がせながら小声で白状した。

「きゅ、旧校舎の……物置小屋で……ひ、ひとりで、お弁当、食べててっ……」

「え?」

 亞那谷くんが、予想外の答えに目を瞬かせる。

(私のバカバカバカっ! なんで正直に言っちゃうのっ! 『旧校舎の物置小屋で一人で食べる』なんて、完全にホラーじゃんっ! ヤバい奴確定じゃんっ! 絶対引かれるっ! 気持ち悪がられて嫌われるっ!)

 絶望に打ちひしがれ、これまでの奇跡のような時間が終わることを覚悟してギュッと目を瞑った私。

 だが、彼の口から飛び出したのは、私の予想を遥かに超える言葉だった。

「へぇー、旧校舎の物置小屋っ! なんか秘密基地みたいで面白そう。ねえ、僕もそこに行っていい?」

「ひいっ!?」

 あまりの展開に、内心で大きく仰け反ってしまった。

(わ、私の誰にも邪魔されない孤独な聖域に、亞那谷くんが入って来ちゃうぅ!? どどどうしようっ!)

 心の中であわあわと大パニックを起こしつつも、私の心の奥底には、別の感情がはっきりと存在していた。

 ——昼休み、誰かと一緒にご飯を食べながら過ごせる。

 それは、今までの十五年間の人生で一度も経験したことがないことで、そして、心の底からずっとずっと望んで来た、夢のような時間だったのだ。

「あっ、もちろん強制はしないよ。黒瀬さんが一人のほうが落ち着くなら、全然遠慮なく言ってね」

 私が固まっているのを見て、彼が優しくフォローを入れてくれる。その気遣いに背中を押されるように、私は蚊の鳴くような声で答えた。

「だ、大丈夫……いい、よっ……」

「ほんとっ!? やった、じゃあ行こうっ!」

 嬉しそうに笑う彼を見て、ふと私は我に返った。

「あ、でも、亞那谷くん……いつものお友達とは、一緒に食べなくて、大丈夫なの……?」

 いつも彼と一緒にご飯を食べている男子たちの顔が浮かび、不安になって尋ねる。私なんかのせいで、彼の交友関係にヒビが入ってしまっては申し訳なさすぎる。

 しかし、彼はあっけらかんと言い放った。

「ん? あー、大丈夫大丈夫。それよりも僕、今日は黒瀬さんと一緒にお昼食べたいなー、もっと一緒に過ごしたいなーって思っててさ。だからちょっと伝えて抜け出してきたんだ」

「ひょえっ!?」

 またしても、自分でも聞いたことのないような奇声が出てしまった。

(ど、どどどどういう意味なのっ!? 私ともっと一緒に過ごしたい!? えっ、それってつまり……いやいやいや! 落ち着け私っ! 亞那谷くんは、こんなゴミみたいな日陰者の自分とも平等に接してくれる、マザー・テレサもびっくりの聖人なだけなんだっ! キモイ勘違い妄想はやめろ黒瀬セセリっ!)

 爆発しそうな心臓を押さえつけ、私は必死に自分を律しながら、彼を先導して旧校舎へと向かった。


 ギィィ……と、錆びた蝶番が嫌な音を立てて物置小屋の扉が開く。

 薄暗く、ホコリの匂いがする空間に、私はいたたまれなくなって振り返った。

「ご、ごめんね……こんな、汚い所で……」

 しかし、亞那谷くんは顔をしかめるどころか、目をキラキラさせて小屋の中を見回した。

「えー? 全然気にしないよ。むしろ、なんか探検みたいでワクワクするけどなぁ」

 彼は本当に楽しそうに笑い、私がいつも敷いている古い体操マットの上に、ちょこんと胡座をかいて座った。私も少し距離を空けて、正座でそのマットの端に座る。

 二人でお弁当箱の蓋を開け、「いただきます」をして食べ始める。

 だが、私の内心はもう、心拍数が危険域に達してバクバクとうるさく鳴り響いていた。

(お昼休みに、誰かと一緒にご飯を食べている……しかも、男子と……こんな密室で二人きり……!)

 状況を客観的に認識すればするほど、緊張で胃がキュッと縮み上がって、卵焼きの味が全く分からない。

 何を話せばいいのか、どう振る舞うのが正解なのか、コミュ障の私には全く分からず、ただひたすらに白米を無言で咀嚼していた。

「あ、黒瀬さんのお弁当、彩り綺麗で美味しそうだね。自分で作ってるの?」

 気まずい空気を察してか、亞那谷くんが話題を振ってくれた。

「う、うんっ……お母さん、朝早いから……じ、自分で、適当に……」

「へえ、すごい! 僕なんていつも寝坊しちゃうから、母親に作ってもらってばっかりだよ。黒瀬さん、偉いね」

「そ、そんなことないっ……」

 しどろもどろになりつつも、なんとか会話のキャッチボール(といっても私が暴投しているだけだが)を返す。

 しかし、それから数分後。お互いにお弁当を食べ終わってしまうと、恐れていた事態が起きた。会話が完全に途切れてしまったのだ。

 シン……とした物置小屋に、遠くのグラウンドから聞こえる微かな歓声だけが響く。

(気まずい……あまりにも気まずいっ! どうしよう、何か話題を提供しなきゃ……!)

 頭をフル回転させるが、気の利いた話題など一つも浮かんでこない。

 沈黙が痛い。でも、私はどうしても聞きたいことがあった。ずっと心の中に引っかかっていた疑問。

 私は、お茶の入った水筒をぎゅっと両手で握りしめ、勇気を振り絞って口を開いた。

「あっ、あのさ……亞那谷くんは……」

「ん?」

「なんで、私なんかに……こんなに、構ってくれるの……?」

 喉から絞り出した声は、かすれて震えていた。

 彼が私のような人間とこうして話してくれるメリットが、いくら考えても全く分からなかったからだ。一緒にいて楽しいわけでもないし、周りの目だってある。なのに、どうして。

 私が問いかけると、物置小屋にしばしの沈黙が落ちた。

 彼の顔を見ることができない。うつむいたまま、私は悪い想像ばかりを膨らませていた。

(本当は罰ゲームで話しかけられてるとかだったらどうしよう……。それとも、彼こそ私なんかに気を使って、無理して付き合ってくれてるんじゃないか……)

 陰キャ特有のネガティブな妄想が頭を支配しそうになった時、彼の穏やかな声が降ってきた。

「うーんとね。実は、入学した時から、前から黒瀬さんと話してみたいなーって思っててさ」

「えっ?」

 予想外の答えに、私は思わず弾かれたように顔を上げ、亞那谷くんの方を見た。彼は少しだけ照れくさそうに頬をかきながら、言葉を続けた。

「あ、変な意味じゃないんだけどね。実はさ、黒瀬さんの名前の響きが、すごく綺麗だなーって思ってて」

「私の、名前……?」

「うん。<クロセセリ>って。なんだか黒い蝶々みたいな響きで、すごくかっこよくて綺麗だなって。だから、どんな子なんだろうって気になってたんだ」

 その言葉に、私は息を呑み、少しだけ口ごもってしまった。

 ——黒瀬セセリ。

 昔から、この名前にはひどいコンプレックスがあったのだ。<クロセセリ>という、実在する黒い蝶の名前。両親がどういう意図で付けたのかは知らないが、一見すると蝶々のように可憐で美しい響きの名前なのに、それに引き換え、中身の自分自身はこんなにも暗くて、どもり癖があって、どうしようもない人間だ。圧倒的に名前負けしている。

 それがずっと恥ずかしくて、名前を呼ばれるのがあまり好きではなかった。

「だから、ずっと気になってたんだけど……黒瀬さん、いつも一人で静かにしてるから、なんだか話しかけづらくってさ。嫌がられたらどうしようって。……だから、あのプリントのペアワークの時、思い切って声かけて、一緒にペア組めて、少しだけど話せて……僕、すごく嬉しかったんだよね」

 彼は、本当に嬉しそうな、混じり気のない笑顔でそう言って笑った。

 ドクンっ!!

 その言葉を聞いた瞬間、心臓が今までで一番大きく、激しく高鳴った。

(う、嬉しかった……? 私と話せて、嬉しかった……?)

「あ、あわわわっ……!」

 顔から火が出そうなくらい熱くなり、私は再びうつむいて口ごもってしまった。

(ごめんね亞那谷くんっ! 私、こんな綺麗な名前なのに、本当の中身は全然違くて、ダメダメで終わってるゴミ人間なのっ! 詐欺みたいでごめんなさいっ!)

 内心で彼に対して土下座で謝罪していると、私が黙り込んでしまったのを見て、彼が慌てて身を乗り出してきた。

「あっ、ごめん! 僕、なんか変なこと言っちゃったね、気持ち悪かったよね、ごめんね……」

「う、ううんっ……ち、違うのっ!」

 私は彼を否定するために、必死に顔を上げた。

「そ、そんなことないっ……! わ、私も……」

 言い淀む私を、彼は急かすことなくじっと見つめて待ってくれている。その優しい瞳に勇気をもらい、私は途切れ途切れになりながらも、本心を口にした。

「わ、私も……あの時、亞那谷くんが声かけてくれて……う、嬉しかった、からっ……」

 それを聞いた瞬間、彼の顔にパッと安堵と喜びの色が広がった。

「そっかー、よかった! 同じだねっ!」

「うぅ……」

(同じ……同じだなんて……!)

 私は恥ずかしさのあまり両手で顔を覆い、膝を抱えて丸まってしまった。耳まで真っ赤になっている自覚がある。

 その後、再び物置小屋にはしばしの沈黙が訪れた。

 いくら相手が優しい亞那谷くんだとはいえ、異性と二人きりでこんな狭い密室にいるのは、私の弱い心臓には悪すぎる。

 しかし、横目で彼の様子を伺っても、やはり彼からは一切の下心も、不純な悪意も感じられなかった。

 中学の頃から、私の無駄に発育の良い胸は男子のからかいや好奇の対象だった。すれ違いざまにじろじろと見られたり、コソコソと笑われたり。それがトラウマで、今のように極端な猫背になり、男の人に対して縮こまって怯えるようになってしまったのだ。

 だが、亞那谷くんは違う。彼は一度たりとも、私の身体をいやらしい目で見たりしない。ただ真っ直ぐに私の目を見て話してくれる。そして、今もこうして、クソコミュ障の私がパニックを起こして黙り込んでしまっても、急かすことなく、ただ穏やかに私が言葉を発するのを待ってくれている。

(なんて心地いいんだろう……)

 そのどこまでも温かく優しい彼との空間に、私は極度の緊張状態にありながらも、一緒にいると少しだけ、なんだか深い安心感に包まれていることに気がついた。


 キーンコーンカーンコーン。

 やがて、昼休みの終了を告げる予鈴が、遠くから響いてきた。

「あっ、もう予鈴だ。教室戻らないとね」

 亞那谷くんが空になったお弁当箱を持ち上げ、立ち上がる。

「う、うんっ……」

 私も慌ててお弁当箱をカバンにしまい、立ち上がって制服のスカートの埃を払った。

 小屋を出ようとした時、彼が振り返って私を見た。

「あのさ、黒瀬さん。また明日も、ここでお昼休み一緒にご飯食べない? 黒瀬さんさえ良ければ、だけど」

 どきっ!

 胸が跳ねた。

(あ、明日もっ!? 私とっ!?)

 内心で激しくパニクる。でも、その直後に湧き上がってきた感情は、恐怖でも不安でもなかった。

 昼休みに孤独を感じなくて済む。そして何より、あの穏やかで優しい彼と一緒に過ごせる時間が、明日も続く。それが、とても嬉しくて、純粋に<楽しみだ>と思っている自分がいたのだ。

 私は、照れ隠しのために少しだけうつむきながら、か細い、けれどはっきりとした声で答えた。

「う、うんっ……」

「ほんと!? やった、約束ねっ!」

 亞那谷くんは、今日一番の輝くような笑顔を見せてくれた。


        ★


 そして放課後。

 帰りのホームルームが終わり、私がそそくさと帰る準備をしていると、亞那谷くんが私の席の近くを通るついでに声をかけてくれた。

「またね、黒瀬さん。明日もよろしく」

「ま、またね、亞那谷くん……」

 私は短く返し、顔が赤くなるのを隠すように、たたたっ! と小走りで教室から逃げるように去った。

 一人で歩く帰り道。

 胸に手を当てると、心臓がまだトクトクと心地よいリズムでドキドキと鳴っているのがわかる。

(私、もしかして……亞那谷くんと、友達になれたのかな……)

 今日の朝の通学路での会話。そして、物置小屋で一緒にお弁当を食べた時の、あの少し気まずくて、でもすごく優しかった時間。その一つ一つの出来事を頭の中で思い出すたびに、胸の奥底からじんわりと熱が広がり、心がぽかぽかと温かくなるのを感じた。

(亞那谷くんは、私のこと、どう思ってるんだろう……)

 歩きながら、ふとそんな考えが頭をよぎる。

(友達って、思ってくれてるのかな。……いや、あの優しい彼のことだもん。きっと、こんなダメな私のことも、友達だって思ってくれてるはず)

 自分に言い聞かせるようにそう思いつつ、私は少しだけ足取りを軽くして、オレンジ色に染まる帰路を急いだ。

 明日の昼休みが、少しだけ待ち遠しかった。


 帰宅後。

 自分の家。

 誰にも邪魔されない唯一の安全地帯である自室に逃げ込むように入った。

 扉を閉めた瞬間、ほうっと長く濁った息が漏れる。私はすぐさま、制服の胸のあたりをきつく締め付けていたブレザーのボタンを外し、ハンガーに乱雑に引っかけた。そして、首元を窮屈にさせていたワイシャツの第一ボタンまで外し、ようやく体を楽にさせる。

 ふるん、と。布の拘束から解き放たれた私の無駄に大きな胸が、重力に従ってこぼれ落ちるように揺れた。その瞬間、首から背中にかけて、一気に肩が重くなったような不快感がのしかかってくる。

(本当に……この無駄に育ってしまった胸が、忌々しい……)

 走れば揺れて痛いし、服は似合わないし、何より男子のいやらしい視線を集めてしまう。このコンプレックスの塊のせいで、私の青春はどれだけすり減らされてきたことか。

 そんなどんよりとした嫌な気持ちをかき消すように、私は制服のスカートがシワになるのも構わず、そのままベッドへと勢いよくダイブした。

 ぼふんっ、と柔らかい布団に顔を埋める。しかし、どれだけ布団に顔を押し付けても、私の心臓はずっとうるさいくらいにトクトクと鳴り続けていた。

 今日の出来事を思い出すだけで、どうにかなってしまいそうだった。

(あの日、亞那谷くんにペアワークで話しかけられてからと言うものの……なんだか、信じられないような日々が続いてるよ……)

 同年代の男の子とまともに喋るどころか、偶然とはいえ一緒に登校して。あろうことか、私の唯一の聖域だった旧校舎の物置小屋で、一緒にお昼休みを過ごしてしまった。

 さらに、だ。

『また明日も、ここでお昼休み一緒にご飯食べない?』

 昼休みにかけてくれた、あの優しい声が耳の奥でリフレインする。明日も、一緒に過ごせる。未だにこれが現実だと信じられなくて、悪い夢でも見ているんじゃないかと何度も頬をつねった。

 でも、ベッドの上で寝転がりながらスマホの画面を開くと、そこには紛れもない現実があった。

 ラインのトーク画面。私のスマホの友達リストに、燦然と輝く<亞那谷>という彼の名前。

(夢じゃ、ないんだよね……)

 私は彼とのライントーク画面を開いた。画面には、お互いに送り合ったたった二つの挨拶スタンプが表示されているだけだ。それでも、それを見ているだけで、心の奥からじんわりと温かいものが込み上げてくる。

「ふひひ……」

 自分でもドン引きするくらい気持ち悪い、だらしない笑い声が漏れてしまった。スタンプを眺めながら、にまにまと口角が上がりっぱなしになる。

 その時だった。

 ぽんっ。

 突然、静かな部屋に軽快な通知音が響き、私の目の前のトーク画面に、新しい吹き出しがひょっこりと現れたのだ。

『黒瀬さん、今大丈夫?』

「ぎょえっ!?」

 潰れたカエルのような、とんでもなく変な声が喉から飛び出した。

 思考が完全に停止する。画面に表示された文字を三回ほど目でなぞって、ようやく事態を把握した。亞那谷くんから、メッセージが来たのだ。

 しかし、喜びよりも先に、とてつもない絶望が私を襲った。

(ぎゃああああっ! 即既読っ! 画面開いたままだったから、送られてきた瞬間に秒で既読つけちゃったよぉぉぉ!)

 パニックでスマホを放り投げそうになる。

(どうしようっ! これじゃ、帰ってからもずっと彼のライントーク画面に張り付いて見ていた、ストーカーまがいのキモイ女だってバレたじゃないかっ! ひぃぃぃぃ、死にたいっ!)

 内心であわあわとベッドの上でのたうち回り、頭を抱えてジタバタしていると、一階から階段を上ってくるような声が聞こえた。

「セセリー、どうしたのー? ドタバタうるさいわよー?」

 お母さんの呑気な声だった。

「な、ななな、なんでもないよっ! 虫っ! 虫が出ただけだからっ!」

 私は裏返った声で適当な嘘を叫び返し、再びスマホの画面に恐る恐る向き直った。

(な、何か、何か返さないと……! 既読スルーしたまま焦らしたら、もっと変に思われるっ!)

 震える指先でキーボードをタップする。気の利いた返しなんて、十五年間親としかラインをしてこなかった私にできるはずがない。

『大丈夫』

 とりあえず、それだけを打ち込んで送信ボタンを押す。

 既読。

 送信した瞬間に、文字の横に小さなマークがついた。彼もまた、画面を開いたまま待っていてくれたのだ。

(うぅぅ……彼に『即既読つけてくるなんて気持ち悪い女だな』って思われてたらどうしよう……)

 生きた心地がしないまま、じっと画面を見つめていると、すぐに次の吹き出しが現れた。

『突然ごめんね。通学路が途中から同じだから、明日から待ち合わせしない?』

 ピタリ、と。

 私の全身の時が止まり、そのまま石像のように固まってしまった。

(ま……待ち合わせ……?)

 それはつまり、偶然合流するのではなく、はっきりと約束をして、毎日一緒に登校するということだ。そんなの、まるで漫画やドラマの中の、キラキラしたリア充たちのそれではないか。

(ひぃっ! む、無理無理無理っ! 毎日待ち合わせなんて、ハードル高すぎるよぉ!)

 内心でまたしてもあわあわとパニックに陥る。朝から彼と顔を合わせて、二人きりで並んで歩く。

 そして、学校の廊下を歩いて教室まで行くということだ。

 周りの生徒に見られたらどう思われるか。もし、彼が私みたいな暗くて気持ち悪いゴミ陰キャと付き合ってるとか、あらぬ誤解でもされたらどうするんだ。彼には私なんかとは違う、普通の楽しい友達がたくさんいるのに。私のせいで、彼の爽やかで優しいイメージが穢れてしまうかもしれない。本当に、それは申し訳なさすぎる。

 断るべきだ。彼のためにも、<一人で行くから大丈夫>って突っぱねるべきだ。

 ……だが。

 すごく、すごく嬉しいと思ってしまった自分がいたのだ。

(毎朝、友達と他愛もない話をしながら、一緒に学校まで登校する……)

 それは、ずっと一人ぼっちだった私が、夢にまで見た光景だった。そして何より、こんな私が、毎朝誰よりも早く、あの太陽のように優しくて温かい彼に会えるという事実が、胸が苦しくなるほど嬉しかったのだ。

 私は、自分の醜い自意識や不安を無理やり心の奥底に押し込み、震える指で画面をタップした。

『わかった』

 送信した後で、また激しい自己嫌悪に襲われる。

(あああっ! 簡素すぎるっ! そっけない! 文字の冷たさが異常! もっと『うん、嬉しい!』とか『よろしくね!』とかあるでしょ私のバカっ!)

 同年代の子とラインで会話したことなどないため、どう返信すれば良いのかというさじ加減が全く分からなかった。こんなロボットみたいな返信しか出来ない自分が、本当に情けなくて彼に申し訳ない。

 すると、彼からすぐに返信が来た。

『やった! 何時くらいなら大丈夫そう?』

 私のそっけない返信を気にする素振りもなく、純粋に喜んでくれているのが文章から伝わってきて、ホッと胸を撫で下ろす。

(時間、時間……私がいつもあの交差点を通るのは……)

『じゃあ7時半がいい!』

 勢い余ってビックリマークをつけて送信してしまった。

(うぅ、こんな感じでいいのかな……必死すぎるって思われてないかな……)

 不安でスマホを握りしめていると、ポンッという音と共に、今度は文字ではなくスタンプが飛んできた。

『おっけー』という文字と共に、可愛らしい女の子のアニメキャラクターがサムズアップしているスタンプだった。

「ふふっ」

 それを見た瞬間、私は思わず声に出して笑ってしまった。

(亞那谷くんも、こういう可愛いアニメのスタンプ使うんだ。なんか、意外だけど……男の子だし、こういうのが好きなのかな)

 彼の人間らしい、少し男の子っぽい一面を垣間見れた気がして、なんだか急に親近感が湧いた。私も、無難な動物スタンプではなく、少しだけ自分を出してみようかな。

 そう思い、私はスタンプの履歴を探り、自分がずっと好きで見ている深夜アニメのキャラクターが『了解!』と敬礼しているスタンプを選んで送信した。

 数秒後。私の送ったスタンプの横に、小さくハートマークの<いいね>のリアクションがついた。

 そこで、彼との初めてのライントークは自然な形で終わった。

 私はスマホの画面を暗くすると、ベッドの上でゴロンと寝返りをうった。両手でスマホを胸に抱え込み、ぎゅっと強く抱きしめる。

 明日から、亞那谷くんと毎日一緒に登校できる。

 ちゃんと会話が続くかなとか、変な顔してないかなとか、不安は山のようにある。今まで通り、上手く喋れる気なんて全くしない。

 けれど、あのふんわりと笑う亞那谷くんなら。こんなにもクソコミュ障で不器用な私にも、急かさずゆっくりと歩幅を合わせてくれる彼となら。

 ……怖くは、ない。

 スマホの画面を再び点け、パスコードを解除して、もう一度先ほどのトーク画面をスクロールする。本当にただの事務連絡のような、淡々とした短文のやり取り。それでも、画面を見つめていると、どうしても顔がにまにましてしまうのを止められなかった。

(とりあえず……)

 私は、明日の朝の自分を想像して、小さく拳を握った。

(明日は、まずはちゃんと噛まずに『おはよう』の挨拶くらいは、出来るようになろう……)

 少しだけ前向きな目標を胸に掲げながら、私は何度も何度も、彼との短いトーク履歴を愛おしそうに眺め続けた。

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