幼体
二
次の日の朝。私は指定のブレザーの前ボタンを上までしっかりと留め、両手でぎゅっと前を絞めるようにして歩いていた。ただでさえ目立つコンプレックスの胸の膨らみを少しでも隠すように、そして誰とも目が合わないように、極端な前かがみの猫背になってとぼとぼと通学路を歩く。
いつも通りの重い足取りのはずなのに、今日の私の頭の中は昨日の出来事で完全に支配されていた。
(昨日のあれ、夢じゃないよね……? 私、男の子と、しかもクラスメイトとあんなに長く話しちゃったんだ……)
しかし、喜びよりも先に押し寄せてくるのは、激しい後悔と自己嫌悪だった。昨日の自分の姿を脳内で再生するたびに、あまりの挙動不審さに穴を掘って埋まりたくなる。終始あわあわして、まともに言葉も発せられず、カエルのような変な声ばかり出していた。
(亞那谷くんは昨日、また話していい? って言ってくれたけど……一晩経って冷静になったら、やっぱり気持ち悪いやつだったな、とか思われてたらどうしよう……。いや、絶対思われてるっ! 私みたいな得体の知れない女、普通に考えて関わりたくないよぉ……!)
ネガティブな思考の沼にズブズブと沈み込み、ため息をつきながら歩いていると、突然背後から声が降ってきた。
「黒瀬さん、おはよう」
びくり! と肩が大きく跳ね上がり、私は錆びついた機械のようにギギギ……と効果音が鳴りそうな動きで首だけを後ろへ振り返らせた。
そこには、朝の柔らかい日差しを背に受けて、昨日と同じようにふんわりと微笑んでいる亞那谷くんの姿があった。
(ひゃああああ! ほんとに話しかけられたああぁ!)
心の中で絶叫しながらも、私は完全にパニックに陥った脳みそからなんとか言葉を絞り出す。
「お、おおお、おはよう、亞那谷くん……っ」
声は上ずり、見事なまでにどもってしまった。しかし彼は気にする素振りも見せず、そのまま自然な動作で私の横に並び、歩幅を合わせて一緒に歩き始めたのだ。
(えっ!? 隣に彼が来てる!? 一緒に歩いてる!? 嘘でしょ、どうしようどうしよう! これって周りから見たら一緒に登校してるみたいに見えない!?)
私が内心でおろおろと視線を泳がせ、心臓を口から吐き出しそうになっていると、彼は前を向いたまま、ごく普通に話しかけてきた。
「今日はぽかぽか日和だね。朝からあったかくて気持ちいいや」
「う、うんっ、そ、そうだね……」
なんとかそれだけを返すのが精一杯だった。その後も学校までの道のり、彼は何かと話題を見つけては話しかけてくれた。もっとも、その会話の比率は九対一くらいで、主に亞那谷くんが一方的に話し、私がぎくしゃくした動きで首を縦に振ったり、短く相槌を打つだけのいびつなものだった。
(やばい、やばいよぉ! 男子と会話が続いちゃってるよぉ! 私、今絶対顔真っ赤だし、変な汗かいてるし、どう見ても不審者だよっ!)
内心であわあわと焦りまくる私。しかし、彼のその穏やかで波のない、いわゆる1/fゆらぎを持ったような声色を聞いていると、不思議と荒れ狂う心拍数が少しずつ落ち着いていくのを感じた。彼の持つふんわりとした雰囲気も相まって、私はギリギリのところで正気を保ちながら学校に辿り着くことができた。
そして、試練の時は訪れる。教室の前に行き着き、彼がガラッと勢いよく引き戸を開けた瞬間、一斉にクラスメイトたちの視線が入り口に向けられたのだ。
「あっ、亞那谷くんおはようー!」
「おはよう、今日も早いね」
まわりの生徒たちが次々と明るい声をかけて、亞那谷くんも笑顔で「おはよう」とそれに返す。だが、その無数の視線は、彼のすぐ後ろで縮こまっている私にも容赦なく向けられていた。
(見られてるぅ……!)
もちろん、それが私を馬鹿にするような軽蔑や冷たい視線じゃないのは分かっている。単なる好奇心だ。だけど、長年孤独を貫いてきたコミュ障の私にとって、他者からの複数の視線というものは、それ自体が致死量の毒すぎた。
「あれ、黒瀬さんじゃん。亞那谷くんと一緒? なんか意外な組み合わせー」
クラスの女子の一人が、悪気のない軽い調子でそんな声を浴びせてきた。
「ひっ……!」
短い悲鳴が漏れ、私はその場にカチンコチンに固まってしまった。小動物のようにぷるぷると震え出し、泣きそうになっていると、すかさず亞那谷くんが口を開いた。
「あはは、たまたま廊下で会っただけだよ。黒瀬さんと偶然同じ時間に登校してたみたいでさ」
彼は笑いながら、あくまで偶然の一致であることを強調してくれた。その機転の利いた一言に、クラスの空気は「なーんだ」という感じで日常へと戻っていく。
「あ、あうう……」
私は彼に命を救われたような気持ちになりつつ、そそくさと彼から離れ、逃げるように自分の席に座った。そして、すぐさま机に突っ伏して両腕で頭を抱え込み、周りの世界から完全に自分をシャットアウトした。朝から誰かとまともにしゃべり、さらにクラスメイト全員の注目を浴びるなんて。完全にキャパオーバーだ。机に顔を押し付けたまま、私はぶるぶると小刻みに震え続けていた。
★
授業が始まっても、そして休み時間になっても、私は机に突っ伏したままの防御姿勢を崩せなかった。しかし、完全に寝ているわけではなく、腕の隙間からチラチラと彼の方を盗み見てしまう自分がいた。
(亞那谷くんって、普段はどんな人なんだろう……)
どうしても気になってしまうのだ。出席番号が最初の方だから、亞那谷くんの席は教室の前方、入り口の近くにある。そっと目をやると、彼の姿があった。休み時間、彼は数人の男子生徒に囲まれて楽しそうに談笑している。しかし、観察していて分かったのだが、どうやら彼はクラスの中心で騒ぎ立てるような、ゴリゴリの陽キャという感じではなさそうだ。かと言って、私のような日の当たらない陰キャってほどでも無い。誰とでも分け隔てなく接し、自然とその場に馴染んでいる、いわゆる中間ポジションに上手く収まっている感じだった。
そんな彼の姿を、腕の隙間からぼーっと眺めていると、ふいに彼がこちらの視線に気付いた。そして、目が合うとニコッと笑って、ひらひらと小さく手を振ってきたのだ。
びくっ!
私は心臓を射抜かれたように体を跳ねさせ、またしてもばっ! と顔を伏せてしまった。
(見られたっ! ずっと見てたのバレたっ! 気持ち悪いストーカーだと思われたっ!)
そんな自意識過剰なパニックのせいで、午前中の授業はまったく頭に入ってこなかったし、その後の休み時間も彼と目が合うたびに同じような過剰反応のムーヴを繰り返してしまった。客観的に見れば、完全に不審者の動きだ。
★
昼休み。
私はいつもの旧校舎にある秘密の物置小屋に行くべく、カバンからお弁当を引っ張り出し、誰にも見つからないようにこそこそと教室を出ようとしていた。その前に、最後にちらりと教室内を見た。亞那谷くんの席の方だ。
彼はすでに机をくっつけ、クラスの男子何人かと卓を囲んで、ワイワイとお弁当を食べていた。
(やっぱり、亞那谷くんも一緒にご飯食べる友達いるよね。そりゃ当然か……彼みたいに優しくていい人が、一人ぼっちなわけないもんね)
自分との圧倒的な身分の差を見せつけられたようで、内心でズキッとした痛みを感じる。しかし、そんな私に気付いたのか、また彼とバッチリ目が合ってしまった。そして彼は、箸を持ったままもう片方の手を軽く振ってきた。
「ひぅっ……」
私はびくびくと不審者のように周りを気にしつつも、ほんの少しだけ胸のあたりで小さく手を振り返し、そのまま小走りで逃げるように旧校舎に向けて駆けて行った。
薄暗い物置小屋に到着し、いつもの定位置に敷いたマットにちょこんと座って、一人寂しくお弁当の蓋を開ける。冷めた卵焼きを口に運びながら、だが、やはり内心で思ってしまうのだ。
(私も、亞那谷くんみたいに、友達と一緒にご飯を食べたり、笑い合いながら楽しく会話して昼休みを過ごしてみたい……な)
想像してしまった温かい光景に、胸が締め付けられる。しかし、私はすぐにその考えを振り払うように、首をぶんぶんと激しく横に振った。
(ダメダメっ! 高望みするな、厚かましいぞ私っ! 私みたいなゴミ陰キャが、そんな普通の青春を望んじゃダメだっ! それに……)
箸を握る手に力が入る。
(亞那谷くんはすごく優しそうだし、きっと私がいつも一人ぼっちで可哀想だから、哀れみの気持ちで接してくれてるに違いないっ! そうだ、そうに決まってる!)
ネガティブ思考が限界まで加速していく。彼が優しいのは同情だからだ。そう思い込まなければ、このどうしようもなく惹かれていく感情を抑えきれそうになかった。
私は、モヤモヤした気持ちを押し殺すように、無言でお弁当を猛スピードでかき込んだ。
★
放課後。
ホームルームが終わるや否や、誰とも関わらないように一番に教室を飛び出し、早足に帰ろうとしていた。しかし、廊下に出た直後、聞き慣れた声に呼び止められた。
「あっ、黒瀬さん、ちょっといい?」
ビターン!
見えない壁にぶつかったかのように体がびくり! と跳ね上がり、私は恐る恐る振り返った。
「な、ななな、なに……?」
極度の緊張で、自分でも引くくらいどもってしまう。そんな私の前に立った亞那谷くんは、少しだけ言い淀むように視線を彷徨わせた後、意を決したように言った。
「僕、まだ黒瀬さんの連絡先持ってなくてさ。よかったら、ライン交換しない?」
「ひゅぐっ!?」
変なところに入った空気と一緒に、奇妙な破裂音のような声が出てしまった。
(れ、れれ、連絡先っ!? 私とっ!?)
誰かと連絡先を交換するなどという高度なコミュニケーションイベント、異性どころか同性のクラスメイトとすら今まで一度もしたことがない。頭の中の処理能力が完全に限界を突破し、ショート寸前になる。
しかし、混乱する頭でまじまじと彼の顔を見ると、亞那谷くんのその真っ直ぐな瞳には、冷やかしや面白半分といった一切の悪意も、ましてや哀れみのような感情も感じられなかった。彼は本当に、純粋な善意と好意で自分に話しかけ、関わろうとしてくれているのだ。
(私、昼休みに彼のこと疑って……最低だ)
自分の醜いネガティブ思考をひどく申し訳なく思っていると、私の沈黙を<拒絶>と受け取ったのか、彼が慌てたように言った。
「あっ、ごめんね、嫌だったなら無理にとは言わないけど……」
悲しそうに眉を下げる彼を見て、私は強く思った。
(ダメだ、ここで断ったら絶対に後悔する。このチャンスを逃したくないっ!)
私は震える拳を握りしめ、ありったけの勇気を振り絞った。
「あっ、だ、大丈夫っ……! こ、交換しようっ……」
か細く、しかしはっきりとそう言うと、彼はパッと花が咲いたように嬉しそうに笑った。
「ほんと!? ありがとうっ!」
私たちはそれぞれ鞄からスマホを取り出し、画面を向け合った。震える指でQRコードを読み取り、追加ボタンを押す。
<亞那谷さんが追加されました>
画面に表示された文字を見て、じんわりと手汗をかく。
「じゃあ、これでオッケーだね。よろしくのスタンプ送っとくよ」
ポーン、と私のスマホが鳴り、可愛らしい犬がお辞儀をしているスタンプが届いた。私も慌てて、無難なウサギの挨拶スタンプを送り返す。
「ありがとう。じゃあ黒瀬さん、また明日ね」
彼は満足そうに微笑み、ひらひらと手を振ってくれた。
「う、うん……ま、また明日っ……!」
私もか細い声で返し、ぎこちなく手を振り返した。彼が背を向けて歩き出すのを見送ってから、私は再び歩き出した。
★
帰り道。夕日が差し込む道を歩きながら、私は立ち止まって再びスマホの画面を開いた。
ラインのトークリストの一番上に、燦然と輝く<亞那谷>という彼の名前。
今まで、私のラインのトークリストには家族の名前か、企業のお知らせ公式アカウントしか並んでいなかった。初めて、家族以外の、自分と同年代の人の名前がそこに存在する。
それがどうしようもなく嬉しくて、私は彼とのトーク画面をじっと見つめた。そこにあるのは、たった二つのスタンプのやり取りだけ。文字のメッセージすら無い。けれど、それを見ているだけで、思わず顔の筋肉が緩み、だらしない笑みが浮かんでにたにたしてしまった。
だが、すぐにハッ! と我に返る。
(やめろやめろっ! スタンプ一個でニヤついてるなんて、キモイぞ私っ! 完全にヤバいやつだ!)
心の中で自分に猛烈なツッコミを入れ、すぐさまスマホをポケットにしまい込む。そして、緩みきった表情を引き締めるために、ペチペチと両手で自分の頬を軽く叩いた。
(と、とりあえず帰ろうっ! 早く帰って、深呼吸しなきゃっ!)
これ以上外で不審な動きをする前に、私は胸の高鳴りを隠すように顔を伏せ、早歩きで家路へと急いだ。心臓は、まだずっとうるさいくらいに鳴り続けていた。




