合縁奇縁
一
鏡を見る。そこに映るのは、いつもの見慣れた、そして大嫌いな自分の姿。
黒紫色の、手入れもまともにされていない伸びっぱなしの長髪が、顔の半分を覆い隠している。その隙間から覗くのは、妙に色素の薄い金色の瞳。そして何より、全体から滲み出ている暗く、どんよりとした雰囲気の顔つき。
私、黒瀬セセリは、この春で十五歳になった。しかし、年齢を重ねたところで中身は何も成長していない。私は何をしてもダメダメな、本当にどうしようもない、終わっているゴミ人間なのだ。
まず、勉強が全然出来ない。授業を聞いていても右から左へと抜けていき、テストはいつも赤点ギリギリを這いつくばっている。そして運動も全くできない。体育の時間はいつも公開処刑だ。運動ができない理由の一つには、この無駄に発育の良い身体のせいでもある。同年代の女の子と比べても明らかに大きすぎるこの胸は、私にとって最大のコンプレックスだった。走れば邪魔になるし、男子の視線が気になって仕方がない。だから、少しでも目立たないようにと、普段から前かがみのひどい猫背になりがちだった。
そして何よりも致命的なのが、コミュニケーション能力に関して完全に終わっていることだ。
極度の緊張しいで、人と喋ろうとするとどうしてもどもり癖が出てしまう。「あっ」とか「うっ」とか、変な声が漏れてしまい、そもそもまともな言葉のキャッチボールが成立しない。
そのせいもあって、小中学生と九年間も学校に通っていたのに、友達と呼べる存在はただの一人もいなかった。文字通りの絶対的な孤独。表向きは<一人でも平気だし、そんなの気にしない>というオーラを出して振舞っていた。
でも、本当は違う。友達が欲しい。凄く、めちゃくちゃ欲しいのだ。一緒に帰ったり、休日にお出かけしたり、たわいないことで笑い合える、そんな当たり前の青春が羨ましくて仕方がなかった。だからこそ、高校に入学したら今度こそ、絶対に友達を作ろうと固く意気込んでいたのだ。
そして迎えた高校入学の初日。最初の関門である自己紹介で、私は見事にやらかした。
教壇に立ち、クラス全員の視線を浴びた瞬間、頭が真っ白になった。口をパクパクさせるだけで言葉が出てこず、思いっきりどもってしまい、結局自分の名前すらまともに言えなかったのだ。教室が静まり返るあの地獄のような時間。笑いものになった訳ではなかったのがせめてもの救いだったが、担任の先生に「緊張しちゃったかな、じゃあ次の人」と普通に流されてしまい、私の高校デビューは開始数分で儚く散った。
次の順番だった人は典型的な陽キャって感じの明るい女の子で、ハキハキと自己紹介をこなしていた。みんな彼女の話に夢中になり、自己紹介に失敗した私のことなど即座にどうでも良くなったのか、幸いバカにされたり陰口を叩かれたりはしなかった。
しかし、それは単に<無関心>という名の残酷な現実でもあった。特にその後、誰からも話しかけられる訳でもなく、気がつけば今まで通り、ただ息をしているだけの孤独な学校生活が始まってしまったのだ。
★
あっという間に早一ヶ月が過ぎた。
気付けばクラスの中では完全にいくつかのグループが出来上がっていて、私はその見えない輪から完全に弾き出され、孤立していた。誰にも話しかけられず、休み時間は一人で自分の机に突っ伏して、寝たふりをしてやり過ごす毎日。幸いなことに、いじめられているとか、あからさまな悪意を向けられているわけではない。ただ、完全に教室の<空気>と化しているだけだ。私がいてもいなくても、このクラスは何も変わらずに回っていく。
体育の時間は特に憂鬱だった。自分のコンプレックスである胸が揺れるのが本当に嫌で嫌でたまらず、いつも適当な理由をつけて体調不良の振りをし、制服のまま隅っこで見学していた。楽しそうにバレーボールを追いかける同級生たちを遠目に眺めながら、私って本当に何のために学校に来ているんだろうと虚無感に襲われる。
そして昼休み。みんなが机をくっつけてワイワイとご飯を食べるあの時間は、私にとって最も居心地の悪い時間だ。ひとりぼっちでお弁当を食べているのを見られたくなかったし、そもそもクラスの楽しそうな雰囲気に私の精神が耐えられそうになかった。
なので、昼休みになると私は教室から逃げ出し、学校内を適当に散策していた。
そして見つけたのが、普段は誰も立ち入らない旧校舎の裏手にある、古い木造の広い物置小屋だった。そこに逃げ込み、ホコリまみれだった床を自分でこっそり清掃して、なんとか座れるくらいに綺麗にした。
片隅に置いてあった古い体操用マットを敷いて、そこを私の秘密基地にした。薄暗く、カビとホコリの匂いがするその場所で、一人寂しくお弁当を食べる日々。でも、誰の目も気にしなくていいこの空間だけが、今の私にとって唯一息ができる安息の場所だった。
★
そして今日も、また誰とも一言も話さないまま終わる一日になると思っていた。いや、そうなることを願っていたのだ。しかし、午後の授業で、私のようなコミュ障陰キャにとっては死刑宣告にも等しい絶望的な出来事が起きてしまった。
「はい、じゃあここから先のプリントは、隣同士とか近くの人と二人一組でペアワークして解いてみて」
教師のその軽い一言で、教室の空気が一気に和んだ。しかし、私にとっては心臓が凍りつくような言葉だった。
一対一のペアワーク。どうして三人以上のグループじゃないのか。二人組というのは、クラスの人数が偶数で、かつ全員が均等に仲が良くない限り、必ず残酷な結果を生み出す。当然、周りのみんなは既に仲の良い子同士でアイコンタクトを取り合い、あっという間にペアを組んで机をくっつけてしまった。
そして私は、当然のように余り物になってしまった。
どうしよう、どうしよう。先生に「余りました」なんて言えるわけがない。誰かに入れてもらおうにも、そんな勇気は微塵もない。机の上に置かれたプリントを見つめながら、私はあわあわと視線を泳がせ、冷や汗をダラダラと流していた。このまま授業が終わるまで、プリントとにらめっこして息を潜めているしかないのか。
すると、背後から不意に声が降ってきた。
「黒瀬さん、よかったらペア組んでもらっていい? 僕も余っちゃってさ」
ビクッと体が大きく震える。
「ひゃいっ!」
自分でも信じられないくらい情けない変な声が出てしまった。
(えっ、嘘、今、私に話しかけられたの!? もしかして幻聴!?)
内心で大パニックに陥りながら、恐る恐る背後へと振り向く。そこには、確かに一人のクラスメイトの男子が立っていた。
ふわりとした茶髪の天然パーマを揺らし、彼は優しげな笑みを浮かべて私を見下ろしている。だが、私・黒瀬セセリは当然のことながら、誰かとまともに話すことすら久しいのだ。ましてや、それが同年代の異性となれば、耐性なんてマイナスを振り切っている。
ドクン、ドクンと心臓が痛いくらいにバクバクと激しく鳴り始めた。全身の血が逆流するような感覚。しかし、彼の声は不思議と耳に心地よかった。いわゆる1/fゆらぎと言うやつなのだろうか、パニックになりかけている私の心を、なんだかスッと落ち着かせてくれるような、そんな響きがあった。
それに、彼から滲み出ている雰囲気だ。決して人を威圧しない、ほんわかとしていて、まるで春の日の陽だまりのような、ポカポカとした温かさがある。
い、いけない、彼に返事をしなければ。無視していると思われたら大変だ。そう思った私だが、極度の緊張で喉がキュッと締まり、
「あっ、あひっ……」
と、またしてもカエルのような情けない声が漏れてしまった。
(やっちゃった! 絶対引かれたああっ!)
内心で頭を抱えてのたうち回る。なんで自分はいつもいつもこうなっちゃうの。普通に「いいよ」って言うだけのことが、どうして出来ないの。激しく自分を責めていると、彼の表情が少し曇った。
「あっ、ごめんね。もしかして嫌だった……?」
申し訳なさそうに、眉を下げて彼が言ってくる。
(違う、違うの! なんで彼に謝らせてるのっ!? ダメだ私っ! せっかく彼の方から声をかけて来てくれたのに、こんな突っぱねるような、嫌がっているみたいな態度しちゃ絶対ダメだっ!)
私は必死に、ふるふると壊れたおもちゃのように首を何度も横に振った。
「あっ、あの、ちが、違うのっ……び、びっくり、しちゃって……」
うつむき加減で、消え入りそうな声でなんとか紡ぎ出す。完全に吃ってしまっているし、声も震えている。それでも、なんとか声を振り絞らなければ。
「わっ、私で、よ、よければ……」
しどろもどろになりつつも、ようやく肯定の言葉を口にする。しかし、どうしても顔を上げることができない。こんな気持ち悪い挙動不審な態度を見て、絶対に引かれたんじゃないか。<なんだコイツ、声かけて損した>って思われたんじゃないのか。そんな被害妄想が頭の中を駆け巡り、相手の表情を見るのが怖くて、そのままギュッと目を瞑って俯いたまま固まってしまった。
だが、頭上から降ってきたのは、私の予想に反してとても明るい声だった。
「よかった! よろしくね、黒瀬さんっ!」
えっ? と思い、恐る恐る顔を上げると、そこには嫌悪感の欠片もない、ふんわりとした柔らかい笑顔を浮かべる彼がいた。
「う、うんっ……」
安堵と緊張が入り交じり、相変わらず声帯が震えてしまっている短い返事を返す私。
彼はそんな私の明らかに尋常ではない挙動不審さを見ても、からかったり呆れたりすることなく、スッと私の隣の空いている席に自分の椅子を持ってきた。
「大丈夫だよ、ゆっくりでいいからね。黒瀬さんのペースに合わせるから」
プリントを覗き込みながら、彼が優しく囁いてくれた。
その言葉が、その気遣いが、私にとっては泣いてしまいそうなくらい、とても嬉しかった。誰かに自分のペースを尊重してもらえるなんて、いつぶりだろうか。
だが、ここでふと重大なことに気がついた。私は、彼の名前を知らないのだ。クラスメイトなのに、他人と交流が無さすぎて名前と顔が全く一致していない。
もじもじと指先を弄りながら、私は勇気を振り絞った。
「あ、あのっ……」
「ん?」
彼がプリントから顔を上げ、不思議そうに首を傾げる。
「ご、ごめんね、そ、その、私、あなたの、な、名前、知らなくてっ……」
蚊の鳴くような、か細い声で懺悔するように言う。申し訳なさで体が小刻みに震えてしまう。クラスメイトの名前も覚えていないなんて、失礼すぎる奴だと思われたらどうしよう。
しかし彼は、嫌な顔ひとつせずに、むしろ少し照れくさそうに笑った。
「あはは、そうだよね、自己紹介以来あんまり話してないもんね。僕、亞那谷道慈って言うんだ」
「あ、亞那谷くん……?」
初めて口にするその響きを確かめるように、か細く復唱する私。
「そう! あはは、なんかさ、<あなた>って二人称みたいな苗字だよね。今も名前呼ばれたと思ったし、よくからかわれるんだ」
と、亞那谷くんはあっけらかんと笑った。その屈託のない笑顔に、少しだけ私の心の緊張がほぐれるのを感じた。
「じゃあ、改めてよろしくね、黒瀬さん」
「う、うんっ、あ、亞那谷くん……よ、よろしくっ……」
なんとか、本当にどうにかこうにか、言葉を返すことができた。
その後始まったペアワークも、私は終始しどろもどろで、プリントの答えを言うのにも一苦労だった。けれど、亞那谷くんは決して私を急かすことはなかった。私がどもってしまっても、言葉に詰まってしまっても、うんうんと頷きながら、私の言葉が紡がれるのをゆっくりと待ってくれたのだ。
おかげで、針のむしろだと思っていたペアワークの時間を、私はなんとか無事にやり過ごすことができた。
★
チャイムが鳴り、地獄のようだった、けれど不思議と温かかった授業が終わった。
休み時間になり、亞那谷くんが自分の席に椅子を戻す前に、私の方を向いて立ち止まった。
「黒瀬さん、今日はいきなり声かけちゃってごめんね。でも、ペア組んでくれてありがとう」
そう言って、またあの太陽のような優しい笑みを向けてくれる。
「わっ、私こそ、あ、ありがとうっ……」
私も、今度こそは少しだけ顔を上げて、たどたどしいながらも感謝を伝えることができた。
すると、亞那谷くんが少しだけ言い淀むように視線を彷徨わせた後、意を決したように口を開いた。
「あのさ、もし、黒瀬さんがよかったら……また、話したいな。なんて」
(ひっ!?)
内心で変な悲鳴を上げてしまった。頭がフリーズする。
(また、話したい? 私と? こんな、どもってばかりで暗くて気持ち悪い私と!?)
これまで友達はゼロ。それも男の子と継続して話すなんて、未知の領域すぎる。何を話せばいいのか、どう振る舞えば正解なのか、全く分からない。断った方が、これ以上ボロを出して嫌われないで済むかもしれない。
でも。でも、もしかしたら。
この、のほほんとしていて優しい亞那谷くんとなら。私のペースに合わせてくれる彼となら。
——友達に、なれるかもしれない。
そんな淡い期待が、胸の奥で小さく、けれど確かに芽生えた。
私は、逃げ出しそうになる自分を奮い立たせるようにぎゅっと目を瞑り、両手を強く握りしめた。
「う、うんっ……いい、よ……」
絞り出すような、小さな声。でも、それは私にとって、とてつもなく大きな一歩だった。
その言葉を聞いた亞那谷くんは、パッと花が咲いたように嬉しそうに表情を崩した。
「ふふっ、よかった! ……でも、これ以上は無理させたくないから、今日はこれくらいにしとくね。ゆっくり慣れていこう。じゃあ、また今度っ!」
私のキャパシティが限界を迎えつつあることを察してくれたのか、亞那谷くんは軽く手を振ると、自分の席へと戻っていった。
私は、その少しクセのある茶髪の後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
あんなに、あからさまに挙動不審で、まともに会話もできない私。普通なら「なんだこいつ」と避けるか、哀れむような目で見るはずだ。なのに彼は、一切引くことも、変な目で見ることもなく、ごく普通に、優しく接してくれた。
机の引き出しにしまっていたファイルから、くしゃくしゃになったクラス名簿を引っ張り出す。
目で活字を追い、一つの名前に視線を止める。
<亞那谷 道慈>
その名前をじっと眺めつつ、脳内で何度も、何度も反芻する。
亞那谷くん。亞那谷道慈くん。
私の、高校生活で初めての、優しくて温かい光。
私は、その名前を絶対に忘れないように、深く、脳のひだに刻み込んだ。




