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黒蝶  作者: Paracoccidioidomicosisproctitiss


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4/4

トレード

          四


 次の日の朝。約束した七時半の少し前、私は待ち合わせの交差点へと向かっていた。

 歩き方は相変わらず極端な猫背で、コンプレックスの胸を隠すようにブレザーの前をぎゅっと握りしめ、うつむき加減で地面のタイルを数えるようにとぼとぼと歩いている。客観的に見れば、いつもと同じように学校へ行くのを嫌がる暗い陰キャの姿そのものだろう。

 だが、今日の私の心の中は、昨日までとは全く違っていた。

(あと少しで、亞那谷くんに会える……!)

 朝一番に彼に会って、一緒に登校する約束をしている。その事実だけで、鉛のように重かった足取りが、ふわりと宙に浮くような軽さを帯びている。不安と緊張で胃がキュッと締め付けられるけれど、それ以上に、どうしようもない嬉しさとドキドキが胸の奥で弾けていた。

 交差点に近づき、そっと顔を上げると、信号機の下に見慣れた人影があった。

 少しだけ癖のある柔らかい髪を朝風に揺らしながら、スマホをいじるでもなく、のんびりと空を見上げている彼の姿。亞那谷くんだ。

(い、いたっ! 深呼吸、深呼吸……昨日の夜、決めたでしょ! まずはちゃんと、自分から挨拶するんだっ!)

 私は胸の前でぎゅっと両手を握りしめ、覚悟を決めて彼に歩み寄った。

「お、おはよう、亞那谷くん……!」

 声が震えて裏返りそうになるのを必死に抑え込み、なんとか言葉を絞り出す。

 不意に名前を呼ばれた彼は、ゆっくりとこちらを振り向き、私を視界に捉えるなり、パァッと花が咲いたようなふんわりとした笑顔を見せた。

「あっ、おはよう、黒瀬さん。早いね」

「う、うんっ……。ま、待たせちゃった、かな……?」

「ううん、僕も今来たところだから全然。今日はいい天気でよかったねー。それじゃ、行こっか」

 彼は自然な動作で歩き出し、私も慌ててその少し斜め後ろに並ぶようにして歩幅を合わせた。

「そういえばさ、昨日の夜やってたバラエティ番組見た? 芸人さんがドッキリにかけられるやつなんだけど、すっごく面白くてさ」

「み、見てない……ごめん、なさい……」

「そっかー。じゃあ今度、面白い動画あったら教えるね。あ、そうだ。最近なんか急にジメジメしてきたと思わない? もうすぐ梅雨の時期になるね。僕、雨の日は靴が濡れちゃうからあんまり好きじゃないんだよね。黒瀬さんはどう?」

「わ、私も……くせっ毛だから、髪が、うねうねしちゃって……あんまり、好きじゃ、ない……かな……」

「あはは、確かに湿気すごいもんね。でも、黒瀬さんの髪、いつも綺麗にまとまってて僕は好きだな」

「ひゃうっ……!?」

 突然のナチュラルな褒め言葉に、変な声が漏れてしまう。彼は私がどもりながら返す言葉にも、急かすことなくゆっくりと相槌を打ってくれた。

 そんな他愛もない話を振ってくれる彼と並んで歩きながら、私の心の中では歓喜のファンファーレが鳴り響いていた。

(一緒に登校……! 朝から他愛もない話をして、一緒に学校に向かってる……! これって、友達……だよね!? 私、亞那谷くんと、もう友達って名乗ってもいいんだよねっ!?)

 奇跡のような現状に、頬が緩んでしまいそうになるのを必死に堪える。


        ★


 やがて、私たちは学校に到着した。

 並んで正門の校門を抜け、昇降口を潜り、下駄箱でそれぞれの上履きに履き替える。そして、そのままの自然な流れで、二人並んで教室までの廊下を歩き始めた。

 しかし、校内に足を踏み入れた途端、私は自分を取り巻く空気が変わったことに気付いた。

 すれ違う生徒や、廊下でたむろしているグループから、露骨な視線を感じるのだ。

「ねえ、あれって……」

「うん、亞那谷くんと、二組の……名前なんだっけ」

「なんか最近よく一緒にいるよね。付き合ってんのかな?」

 ヒソヒソという微かな囁き声が、耳に突き刺さる。

(ひぃっ! み、見られてる……! めちゃくちゃ注目されてるっ!)

 当然だ。高校生が、それも男女が朝から待ち合わせて並んで登校するなんて、周りから見れば完全にカップルのそれだ。私だって、他の男女がそんなことをしていたら「あの二人付き合ってるんだ」と思うだろう。

 私はビクビクと小動物のように震え上がり、亞那谷くんから少し距離を取ろうとした。

(亞那谷くん、ごめんなさいっ! 私みたいなゴミが隣を歩いてるせいで、変な勘違いさせちゃって本当にごめんっ……! 彼に変な噂が立ったらどうしようっ!)

 申し訳なさで押し潰されそうになる。今すぐ駆け出して逃げたい衝動に駆られる。

 ──しかし。

(でも……彼と一緒にいられるのは、すごく……嬉しい……)

 そんな独占欲にも似た、ドロドロとした感情が心の奥底で渦巻いているのも事実だった。勘違いされたっていい。ほんの少しでも長く、この心地よい距離にいたいと思ってしまう。

 そんな葛藤を抱えながら、ついに教室の前に辿り着いた。亞那谷くんがガラッと引き戸を開け、私たちは教室の中へ足を踏み入れた。

 瞬間、またしてもクラス中の視線が私たちに一斉に向けられた。

「あっ、亞那谷くんおはよー! 今日も黒瀬さんと一緒なんだね!」

「おはよう! ねえねえ、二人とも朝から仲良いねー」

「黒瀬さんも、おはようっ!」

 クラスの女子たちが、ニヤニヤとしながらも温かい声をかけてくる。

(あばばばばっ……!)

 もちろん、クラスメイトのみんなが私を悪く言ったり、いじめようとしているのではないことは分かっている。単なる冷やかしと、好奇心だ。

 だが、長年日陰でひっそりと生きてきた陰キャの私にとって、この<クラス中からの悪意のない注目>というものは、あまりにも刺激が強すぎて堪えるものがあるのだ。致死量レベルの注目に、私は完全にフリーズしてしまった。

 そこに、追い打ちをかけるように、教室の後ろの方から声が飛んできた。

「おっ、亞那谷おはよ! って、また黒瀬さんと一緒じゃん!」

 いつも彼と一緒にいる、彼の友達の男子たちだった。彼らがニヤニヤしながら、こちらに近づいてくる。

「最近お前ら、なんかめっちゃ仲良いよなっ! どういう関係? もしかして付き合ってるとか!?」

「ひっ……!」

 その言葉に、私は悲鳴にも似た小さな声を上げ、無意識のうちに亞那谷くんの背中の後ろにサッと隠れてしまった。

 ガクガクと震えながら、彼の服の裾をギュッと掴んでしまう。もうダメだ、死んでしまいたい。

 すると、亞那谷くんは驚くでもなく、ふんわりと笑いながら彼らの前に立ちはだかってくれた。

「こらこら。黒瀬さん、ちょっと人見知りなんだから。あんまり大声でからかっちゃダメだよ。怖がってるでしょ」

 その声は決して怒っているわけではないけれど、ピシャリとした優しさと威厳が含まれていた。

 それを聞いた男子たちは、ハッとして少し慌てた様子を見せた。

「あっ、わりぃ! そういうつもりじゃなかったんだけど……ご、ごめんね黒瀬さんっ! 怖がらせるつもりはなかったんだ!」

「ほんとごめんっ! 俺ら声でかいからさっ!」

 彼らは亞那谷くんの背中に隠れる私に向かって、平謝りしてくれた。

「だ、大丈夫っ!」

 私は彼らの顔も見れずに小声で早口でそう叫ぶと、亞那谷くんの背中から飛び出し、たたたっ! と脱兎の如く自分の席へと走って逃げた。

 そのまま椅子に座るや否や、勢いよく机に突っ伏し、腕で頭を完全にガードする防御姿勢をとる。

 心臓が破裂しそうなくらいバクバク言っている。

(し、死ぬかと思った……! 陽キャの人たちと会話が発生するなんて、完全にキャパオーバーだよぉ……!)

 私が机で震えていると、遠くの方から、彼らのヒソヒソ話が耳に飛び込んできた。

「なぁ、ってかさ……黒瀬さんって、なんかいつも下向いてて暗いから気付かなかったけど、さっき近くで見たら、すげー可愛くない……?」

「あ、お前も思った? なんか小動物みたいで、ちょっと放っておけないっていうか……しかも、なんか胸もでか……」

「バカ、声でかいって! 亞那谷に睨まれるぞっ!」

「ひゃうぅぅぅっ!?」

 その信じられない言葉に、私はさらに激しくビクッと体を跳ねさせ、顔から火が出そうになった。

(か、可愛い!? 私みたいなゴミが!? しかも胸のことまで……! いやいやいや、気の迷いっ! 完全に目の錯覚だよっ! からかわれてるだけだっ!)

 自己否定の嵐が吹き荒れる中、私はさらに深く机に顔を押し付け、周りの音を全てシャットアウトするように、朝のホームルームが始まるまでずっと突っ伏したまま震え続けていた。


 昼休み。

 私たちはまた、いつもの旧校舎の物置部屋にやってきていた。

 ギィィ……と軋む音を立てて錆びた扉を閉めると、そこは完全に外界から遮断された二人だけの密室になる。少し残るホコリっぽい匂いも、薄暗い空間も、今ではなんだか秘密基地のように感じられて、私にとって学校で唯一息ができる大切な場所になりつつあった。

 いつもの古い体操マットを敷いて、二人で並んで座る。膝の上にお弁当箱を広げ、「いただきます」と手を合わせてから、静かに食べ始めた。

 本当に、夢みたいな光景だ。あの太陽みたいな亞那谷くんが、こんな薄暗い物置小屋で、私みたいな日陰者のゴミ陰キャと一緒にお昼休みを過ごしてくれている。

 相変わらず密室で男子と二人きりというシチュエーションには、心臓が口から飛び出そうなくらい緊張しているけれど、それでも、昨日の今日で逃げ出さずに隣に座れている自分を少しだけ褒めてあげたい。

 もそもそと白米を口に運んでいると、隣からふわりとした声が降ってきた。

「黒瀬さんって、いつも自分でお弁当作ってるんだよね。本当にすごいなぁ」

「えっ……」

 不意の褒め言葉に、私はお箸を止めて彼の方を見た。亞那谷くんは、私のタッパーに詰められた彩りの少ない質素なお弁当を見つめながら、感心したように目を細めている。

 誰かから手作りのお弁当を褒められるなんて初めての経験で、胸の奥がきゅっと温かくなった。それが嬉しくて、私は慌てて首を横に振った。

「う、ううんっ……! ぜ、全然、すごくない、よ……。ただ、昨日の晩ご飯の残りとか、詰めてるだけで……冷食ばっかりだし……」

 か細い声で、しどろもどろになりながら弁解する。事実、彩りなんて気にする余裕もない、茶色ばかりの恥ずかしいお弁当だ。

「そんなことないよ。自分で朝起きて準備するだけでも尊敬するなぁ。僕なんて、いつも母親に甘えっぱなしだからさ」

 彼はそう言って、へへっ、と柔らかく笑った。

 その笑顔を横目で見つめながら、私は密かに深い安堵を覚えていた。

(亞那谷くんは……本当に、私の<目>を見て話してくれる……)

 中学の頃から、男子と話す時は決まって視線への恐怖がつきまとった。私の無駄に育ってしまった忌々しい胸元に、いやらしい視線を向けてくる男子が多かったからだ。それが気持ち悪くて、怖くて、私はいつも極端な猫背になって自分を守ってきた。

 でも、彼は違う。一切の不純物がない、澄み切った瞳。私の身体なんて全く気にしていないかのように、ただ真っ直ぐに、私の目や顔だけを見て、一人の人間として話しかけてくれる。

 それが、どうしようもなく嬉しかった。彼に対する絶対的な安心感が、私の心の防壁を少しずつ溶かしていくのを感じる。

(亞那谷くんとなら……大丈夫、かも……)

 無意識のうちに。本当に、自分でも気付かないくらい自然に。私はマットの上で、もじもじと少しだけ……ほんの数センチだけ、彼の隣へと距離を詰めてしまっていた。

 動いてから、ハッと我に返る。

(や、やばいっ! 今の絶対キモかったよねっ!? なんで私、自分から擦り寄っていってんのっ!? 気持ち悪いって思われたらどうしようっ、馴れ馴れしいって引かれたら……!)

 自分の無意識の行動にパニックに陥り、心臓が早鐘のように打ち始める。私は真っ赤になった顔を隠すようにうつむき、お弁当の赤いタコさんウインナーを箸でつつきながら、彼の反応をビクビクと伺った。

 しかし、亞那谷くんは嫌な顔をひとつするどころか、少しだけ距離が近くなった私を見て、嬉しそうに優しく微笑んでくれているだけだった。

 ほっ……と、強張っていた肩から力が抜ける。

(なんだか……彼と一緒にいると、すごく、落ち着く……)

 緊張はする。ドキドキもする。でも、それ以上に、春の陽だまりの中にいるような絶対的な安心感がここにはあった。

 私は自分のウインナーをかじりながら、隣で美味しそうにお弁当を食べる彼を、横目でじーっと眺めてしまっていた。

 彼のお弁当箱には、卵焼きやプチトマトと一緒に、大きな唐揚げがゴロゴロと入っている。きつね色に揚がった衣が、見るからにサクサクしていて美味しそうだ。

 あまりにも見つめすぎたのだろう。不意に彼が顔を上げ、私とバッチリ目が合ってしまった。

「ん? どうしたの、黒瀬さん?」

 小首を傾げて尋ねてくる亞那谷くん。

 びくり! と肩が跳ねる。

「あっ、いや、その……!」

 誤魔化そうとしたけれど、コミュ障の脳みそでは気の利いた言い訳など瞬時に浮かんでくるはずもない。私は観念して、視線を泳がせながら正直に白状した。

「あ、亞那谷くんの、唐揚げ……お、美味しそうだなって……思って……」

 蚊の鳴くような声で呟くと、彼はぽかんと目を丸くした後、えへへ、と少しだけ照れくさそうに頬をかいた。

「あ、これ? ……実はさ、この唐揚げ、昨日僕が自分で作ってみたんだよね。料理動画見ながらやってみたら、結構上手く出来たと思うんだ」

「えっ……亞那谷くんが、手作り……?」

 私は驚いて、彼のお弁当箱の中の唐揚げをまじまじと見つめ直した。お店で売っているお弁当に入っていてもおかしくないくらい、とても綺麗な出来栄えだ。

「うん。よかったら、黒瀬さん……一つ、あげようか?」

 彼が、箸を持ったままそんな提案をしてきた。

 ぎょっ! と目玉が飛び出そうになる。

(お、男の子の手作り唐揚げ!? しかも、それを私にお裾分け!? いやいやいや、ダメだ、私なんかの汚い口が、亞那谷くんの神聖な手作り料理をいただくなんて、恐れ多すぎるっ! 罰が当たるっ!)

 内心で全力の拒否反応を示すアラートがガンガン鳴り響いているのに。

「ほ、欲しい、なっ……」

 ぽろりと、口が勝手に本音をこぼしてしまっていた。

(ばかばかばかばか! 黒瀬セセリのばかっ! 図々しいにも程があるでしょ! 乞食か私は!)

 発言した直後に激しい自己嫌悪に陥り、頭を抱えたくなる。しかし、亞那谷くんは「ほんと? はい、どうぞ」と嬉しそうに自分のお弁当箱を私の方へと差し出してくれた。

 こうなってしまっては、もう後には引けない。

 私はブルブルと震える右手で自分のお箸を持ち、彼のお弁当箱へと伸ばした。

(せ、せめてもの遠慮……! 一番小さいやつを……!)

 私は申し訳なさから、数ある唐揚げの中でひときわ小ぶりな、端っこの方の唐揚げを一つだけつまみ上げた。

「いただきます……」

 小声で呟き、恐る恐るその唐揚げを口に運ぶ。

 サクッ、と衣が心地よい音を立て、中からじゅわっと肉汁が溢れ出した。醤油とニンニクの香ばしい風味が口いっぱいに広がる。

(……っ! おいし……!)

 ほんのり温かくて、お肉は柔らかくてパサパサしていない。完全にプロの味だ。あまりの美味しさに、私は極度の緊張状態にあることも忘れ、思わずだらしなく頬を緩ませ、ふにゃりとした笑みを浮かべてしまっていた。

 美味しいものを食べると、人間はどうしても幸せな顔になってしまうらしい。

 しかし、次の瞬間。

 横から視線を感じてハッと顔を向けると、亞那谷くんが至近距離で私の顔を覗き込んできていたのだ。

(やばいっ!! 油断したっ! 絶対キモイ顔見られたっ! 『ウヒョー!唐揚げウマー!』みたいな豚みたいな顔してた絶対!)

 私はサッと顔を青ざめさせ、慌てて口元を手で覆い隠した。嫌われる、ドン引きされる。そう覚悟して身を縮こまらせた私に向かって、彼は。

「ふふっ。黒瀬さんって、笑うとすごくかわいいんだね」

 純度百パーセントの、心底嬉しそうな笑顔でそう言ったのだ。

 ——ぼんっ!!

 頭の中で、何かが爆発する音がした。

 顔面が一瞬にして沸騰し、耳の先から首筋まで真っ赤に染め上がっていくのが自分でもわかる。

(か、かわ、かわいいっ!? 今、かわいいって言った!? 私に向かって!?)

 心拍数が限界を突破し、バクバクと暴れ狂う。

 しかも、彼のその言葉には、からかっているような悪気も、気を引こうとする下心も一切ないことが、その澄んだ瞳を見れば分かってしまうのだ。ただ純粋に、思ったことをそのまま口に出しただけ。だからこそ、タチが悪い。破壊力が尋常じゃない。

「わ、わわわ、私なんて……、全っ然、かわいく、ないからっ……! か、からかわないで……!」

 両手で真っ赤な顔を覆い隠し、私は首をちぎれんばかりに横に振って必死に否定した。

 すると、亞那谷くんは困ったように優しく笑いながら、思いがけない反撃に出てきた。

「ごめんごめん、からかったつもりはないんだけどな。……あ、じゃあさ。唐揚げのお返しに、僕も黒瀬さんのおかず、何か貰っていい?」

「んぐっ!?」

 さっきの『かわいい』発言からの見事なコンボ攻撃に、私はみっともなく喉を鳴らし、危うく白目を剥いて痙攣しそうになった。

(む、無理無理無理! 私なんかが適当に作った残り物のおかずなんて、亞那谷くんの神唐揚げとの等価交換にもならないよっ! ゴミと宝石を交換するようなもんだよ!)

 全力で断りたかったが、唐揚げをいただいてしまった手前、ダメだと言う権利は私にはない。

 私は観念し、ガタガタと震える手で、自分の貧相なお弁当箱を彼の方へスッと押し出した。

「な、なんでも……好きなの、とって、いいよ……」

 声が震えすぎて、もはや泣き出しそうだった。

 亞那谷くんは「やった、ありがとう!」と嬉しそうにお箸を伸ばし、迷うことなく私のタッパーの隅に鎮座していた黄色い塊——卵焼きをつまみ上げた。

「いただきまーす」

 彼が大きな口を開け、私の作った卵焼きをぱくっと口に放り込む。

 もぐもぐ、と彼の顎が動く。

 私の心臓は、ギロチンにかけられた死刑囚のように冷え切っていた。

(だ、大丈夫かな……! 私の作る卵焼き、お母さんの影響で結構お砂糖多めの甘い味付けなんだけど……! 男の子って甘い卵焼き嫌いな人多いって言うし、そもそも焦げてる部分もあるし、不味いって思われちゃってないかな……!)

 息を止めて彼の反応を待つ。永遠にも感じられる数秒間。

 やがて、もぐもぐと咀嚼を終えた彼は、パァッと顔を輝かせた。

「ん! これ、すっごく美味しいよ、黒瀬さん!」

「えっ……」

「僕、甘めの卵焼き大好きなんだ! ふんわりしてて、味付けも最高! お店で売れるよ、これ!」

 大袈裟なくらいの手放しの絶賛。彼の言葉には嘘偽りがなく、本当に美味しそうに目を細めてくれている。

 不安と恐怖で押し潰されそうだった私の心に、ぱぁぁっと温かい光が差し込んだ。

「ほ、ほんと……?」

「うん、ほんとほんと! 毎日でも食べたいくらいだよ」

 その言葉が、私の心の柔らかい部分にじんわりと染み込んでいく。

 嬉しくて、安堵して。私は両手で顔を覆っていた手を少しだけ下ろし、自分でも信じられないくらい自然に、思わず彼と一緒にふわりと笑顔になっていた。

「よかった……」

 薄暗い物置小屋のマットの上。

 相変わらず私は挙動不審で、会話だってキャッチボールというより暴投気味でギリギリ成立しているような状態だ。それでも、彼と向かい合って、お弁当のおかずを交換して、一緒に笑い合っている。

 こんなの、間違いなく夢みたいな時間だ。

(もしかして……これが、世に言う『リア充』というやつなのだろうか……?)

 今まで憎悪と羨望の対象でしかなかったその単語が、ふと頭をよぎる。

 だが、次の瞬間。

(いやいやいやいや! 何勘違いしてんの私っ! 自分みたいなホコリカス以下の存在がリア充だなんて、調子乗るな黒瀬セセリっ! 神の慈悲にすがるだけの身分をわきまえろっ!)

 私はブンブンと激しく首を振り、危うく天狗になりかけた自分を全力で戒めた。

 それでも、胸の奥でポカポカと鳴り続けるこの温かい鼓動だけは、どうやっても止めることができなかった。

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