6. アイドルのダンスレッスンを間近で見学する日がくるなんて
(…………まあ、そもそもタイムリープしてる時点でおかしいもんね)
真剣に考えていること自体が、急に馬鹿らしくなってきた。
目が覚めたら八年前の自分に戻っていて、就職先が変わっていて、よりによって亡くなった推しのマネージャーになっている。ここまで都合よく条件が揃っているのなら、最初からそういう設定になっているのかもしれない。
あるいは、自分に都合よく作られた、ただの夢という可能性だってまだある。明日の朝になったら三十歳に戻っていて、「すごい夢だったな」と思いながら、いつものように会社へ向かう。そちらの方が、よほど現実的だ。
(……それは嫌だな)
自分で考えておいて、すぐに否定した。
たとえ夢でも、まだ覚めたくない。二度と増えることがないと思っていた玲の言葉が増えて、十九歳の玲が笑って、踊って、明日の予定を確認できる。そんな世界から、わざわざ元の現実へ戻りたいとは思えなかった。
夢でもタイムリープでも、神様が用意した都合のいい設定でも何でもいい。少なくとも今の私には、この世界が現実にしか感じられない。それなら答えの出ないことを考え続けるより、まずは目の前の仕事を覚える方がいい。
そう無理矢理に結論づけて、私はベッドに入った。
(明日も、二〇一八年でありますように……)
◇
翌朝九時半。
「おはようございます!」
昨日より少しだけ自然に挨拶をしながら、私はダンススタジオの扉を開けた。すでに五人は揃っている。
「おはようございます」
最初に気づいたのは麗央だった。今日はレッスンということもあって、五人とも随分ラフな格好をしている。
麗央は黒いスウェットパンツに白いTシャツというシンプルな服装で、明るい髪を適当にかき上げていた。私と同じ二十二歳なのに、五人の中にいると一番年上らしく見える。私が入ってきたことに真っ先に気づいて挨拶をしたり、床に置きっぱなしになっていた誰かの鞄を端へ寄せたり、そういう何気ない気遣いに最年長らしさが出るのかもしれない。
「春さん、おはよー」
その隣から顔を出した優は、昨日と同じように人懐っこい笑顔で手を振ってくる。少し垂れた大きな目のせいで笑うと一気に幼く見えるのに、立ち上がると意外に背が高く、細身のレッスン着がよく似合っていた。
(緊張してたから、名前呼んでくれるの安心する。ありがたい……)
窓際では瑛がイヤホンを片耳だけつけて、スマートフォンを見ていた。長めの前髪から覗く横顔にはまだ十九歳らしいあどけなさが残っているのに、誰とも話さず音楽を聴いている姿だけを見ると妙に大人びて見える。
凪は床に座って靴紐を結んでいた。柔らかそうな栗色の髪が、寝癖なのか少し跳ねている。最近高校を卒業したばかりで、五人の中では一番あどけなかった。
「凪、それ朝ご飯?」
麗央の声に視線を向けると、凪の横にコンビニの袋が置いてあった。
「はい」
麗央が中身を覗き込む。
「全部納豆巻き……」
「今日はちゃんと三個買いました」
「三個? もしかして、俺らにもくれんの?」
「そしたら五個買いますけど……」
「え、同じ種類を三個食べるのか、お前……」
思わず笑ってしまう。画面越しに何度も見てきた五人なのに、こうして同じ空間で話しているところを見ると、まだ妙な感じがする。
そして、鏡の前には玲がいた。
黒いパーカーに黒いスウェットパンツ。まだセットされていない黒髪が額に少しかかっていて、昨日よりずっと年相応に見える。
十九歳。
分かっているのに、改めて見ると不思議な感じがした。すっきりとした輪郭に、まっすぐ通った鼻筋。少し切れ長の目は、笑っていないと年齢より大人びて見える。昨日も綺麗な顔だと思ったけれど、仕事用に整えられていない今の方が、かえって十九歳らしさがあった。
未来の玲は、どの角度からカメラを向けられても隙がなかった。でも今は、前髪の一部が少し変な方向に跳ねている。
(……若いなあ)
十九歳なのだから当たり前だ。それでも、私が最後に見た玲は二十七歳だったから、どうしてもその差に目がいく。
見すぎたのか、鏡越しに目が合った。
「おはようございます」
「あ、おはよう」
玲は軽く頭を下げると、また鏡へ視線を戻した。それだけのやり取りなのに、私は少しだけほっとした。昨日、「前に仕事したことありますっけ?」なんて聞かれたせいで、勝手に意識してしまっているだけだろう。
「湯河さん、おはよう」
後ろから佐伯さんに声をかけられ、慌てて頭を下げる。
「おはようございます!」
「慣れたらメンバーを車で迎えに行ってもらうこともあると思うけど、それまでは基本、私について見て覚えてくれれば大丈夫だから。午前中はレッスンで、午後は取材、そのあと動画撮影ね。ダンスレッスンは練習室の予約と振付師のスケジュール確保、メンバー分の水分の用意ができていれば、マネージャーはほとんどやることないし。今日は練習動画の撮影もないし、後ろにある机でパソコン仕事してても大丈夫だから」
「はい!」
返事をして、後ろの机へ移動する。
正直に言えば、少し楽しみだった。LYRENのダンスレッスンなんて、ファンだった頃の私がお金を払ってでも見たかったものだ。
とはいえ、今は仕事中だ。
(私はマネージャー。これは仕事)
そう自分に言い聞かせているうちに、音楽が流れ始めた。その瞬間、さっきまでふざけていた五人の空気が変わった。
「…………」
思わず息を呑む。
知っている曲だった。デビューした年に発売されたLYRENの初期の楽曲で、ファンになったあとに過去の映像を見た私は、この振付も何度も見ている。
それなのに、目の前で見るとまるで別物だった。
床を踏み込む靴の音も、ターンするたびにTシャツが空気を切る音も、少しずつ乱れていく呼吸も、映像では聞こえない。五人が一斉に前へ出てくるだけで思わず身体に力が入るくらいの迫力があって、まだ小さな会場を中心に活動している新人グループだということを、一瞬忘れそうになる。
何より、五人とも格好いい。
麗央は動きが大きく、視線の使い方が上手い。センターにいなくても自然と目に入るし、踊っている最中にも周りを見て、メンバーとの距離がずれるとさりげなく自分が調整している。二十二歳の若さでリーダーを任されている理由が、ありありと分かる。
優は、さっきまでの人懐っこい雰囲気が嘘みたいに消えていた。笑うと幼く見える大きな目が、音楽が始まると急に鋭くなる。動きには勢いがあるのに身体の線は綺麗で、誰より楽しそうに踊るから、見ているこちらまで気分が上がる。未来でもダンス動画がよく話題になっていたけれど、その片鱗はもう十分にあった。
瑛は他の四人に比べると、まだ少し身体が硬い。それでも音を取るのが綺麗で、自分の歌のパートに入った瞬間に存在感が増す。普段は前髪の奥で静かにスマートフォンを見ていた人が、音楽の中ではこんな顔をするんだと思うと、同じ人なのに印象がまるで違った。
凪はまだ十八歳らしい危うさがある。勢い余って立ち位置を少し越えたり、振付を間違えて一瞬だけ「あ」という顔をしたりする。それでも表情がころころ変わるから不思議と目を引くし、長い手足を持て余すように踊る姿には、数年後に一気に垢抜ける前の少年っぽさが残っていた。
そして、玲。
気づけば、やっぱり目で追ってしまっていた。
(…………やっぱりすごいな)
私は、この人のダンスが好きだった。
十九歳の玲は、未来ほど完成されてはいない。身体も今より少し細く、まだ少年っぽい線が残っているし、細かな癖もある。それでも目を奪われる。
無駄な動きが少ない。力を入れているように見えないのに、音が鳴った瞬間には身体がそこにある。長い手足が大きく動いても雑に見えず、艶のある黒髪がなびくタイミングまで音楽の一部みたいだった。
玲はダンスが上手い。そんなことは、八年間ファンをしていた私なら誰より知っている。
(この頃から、こんなに上手かったんだ)
映像で何度も見たはずなのに、初めて知ったような気持ちになる。
推しの過去映像を見るのと、十九歳の本人が数メートル先で踊っているのでは、当たり前だけれど全然違った。しかも今の私はファンとして客席にいるわけではなく、この人たちを支える側としてここにいる。そう考えると、急に現実味がなくなる。
「一回止めますね」
振付師の声で音が止まった。
「優、ここ少し早い。瑛は次のターン、もうちょい重心下げて。玲、最後の手だけ振りちょっと変えようか」
「はい」
三人が返事をする。
少し水分を取ってから、すぐに同じ箇所を繰り返す。優はさっきより半拍待ち、瑛のターンは安定し、玲の手の振りも変わっていた。
(……たった一回で修正した)
未来のインタビューで、「玲は覚えるのが早い」とメンバーが話していたことを思い出す。知識としては知っていた。でも、こういうことだったのか。
玲は鏡越しに自分の動きを確認しながら、一度言われたことをその場で修正していく。振付師が他のメンバーを見ている間も同じ部分を二、三度繰り返して、納得するとすぐにやめた。
真面目というより、効率がいい。必要なことを理解して、最短で直す。その集中力に感心していたのだけれど。
「はい、十五分休憩」
振付師の声がした途端、全員がぐったりとその場に座り込んだ。
「「「疲れたーーーー!!!」」」
思わず笑ってしまう。さっきまであまりにも格好よく踊っていたから、一気に年相応の男の子たちに戻ったように見えた。
「玲、さっきの最後だけ合わせていい?」
座り込んで水分を取っていた麗央が玲に声をかける。
「え、今?」
「今」
「休憩だけど」
「十五分あるじゃん」
「十五分しかないじゃん。貴重な休憩なのに」
玲は数秒考えたあと、ものすごく面倒そうに立ち上がった。
「一回だけね」
「サンキュ!」
そのやり取りを見ながら、とうとう口元が緩んだ。
(……こんな感じだったんだ)
私の知っている二十七歳の玲は、いつだって隙がなかった。インタビューでは質問の意図をすぐに理解して答え、ライブでは最後まで集中を切らさず、メンバーがふざけていれば一歩引いて笑っていることが多かった。必要なところでは自然にフォローへ入るから、ファンからも「冷静」「何でもできる」「完璧主義」と言われていた。
だから、汗で前髪を額に張りつかせながら、「休憩なのに」とぶつぶつ文句を言っている十九歳の玲を見るのは、妙に新鮮だった。
麗央に連れていかれた玲が、鏡の前でもう一度振付を確認する。面倒そうにしていたくせに、音が鳴った瞬間にはきちんと踊る。
その途中で、不意に鏡越しに目が合った。
玲は踊りながら、ほんの少しだけ眉を上げる。
私は反射的に視線を逸らした。
(いや、仕事だから。別に悪いことはしてない!)
むしろマネージャーなのだから、ちゃんと見ておくべきだ。そう思って数秒後にもう一度鏡を見ると、玲はもうこちらを見ていなかった。
それだけなのに、なぜか少しだけ心臓が速い。
(……十九歳に何やってるんだろ、私。中身は今の玲よりずっと年上なのに、不甲斐ない……)
◇
レッスンがひと通り終わる頃には、最初より随分と五人の動きが揃っていた。
振付師が次回までの課題を伝えている間、私は佐伯さんから渡された資料に今日気づいたことを書き込んでいた。五人それぞれの得意なところ、注意されていたところ、レッスン中の様子。今まで広告の企画会議で取っていたメモとはまるで内容が違うけれど、こうして情報を整理する作業自体は嫌いではない。
「春さん、字綺麗ですね〜」
突然横から声がして、顔を上げる。
優だった。
「えっ、そうですか? ありがとうございます」
「うん。なんか春さんって、ちゃんとしてますよね。社会人になりたてとは思えないくらい落ち着いてるというか。前に一瞬いたマネージャーは、いつもあたふたしてたから。まあ、きつくて一か月で辞めちゃったけど」
「そうだったんですね……。ちゃんとしてるかは自信ないですけど、体力はある方だと思うので、長く働けるように頑張りますね」
「ははっ、真面目ですね。僕らとしてもスタッフさんがコロコロ変わるのはあんまりいいことじゃないので、期待してます」
そう笑ってから、優は何を思ったのか、今度はまじまじと私の顔を見る。
「そういえば、昨日から思ってたんですけど」
「何?」
「春さんって、見た目いいのに、何で裏方なんですか?」
「…………はい?」
思わず聞き返した。
(芸能人に、見た目のことを褒められる日が来るとは……)
「いや、普通に。身長も百六十五ないくらい? 女の人の中では高い方じゃないですか。顔も小さいし、目も大きいし。せっかく芸能事務所に入るなら、表に出る方とか考えなかったのかなって」
(……すごい。前の職場で上司がこんなこと言ったら、コンプラ違反で問題になるくらいヒヤヒヤする発言……!いや、二〇一八年はまだセーフなのか? どうだったっけ。)
二〇二六年は容姿に対する感想なんて職場ではまず言わないし、「髪切った?」ですら相手との関係性によっては気を遣う時代だった。コンプライアンスが厳しくなって息苦しくなった前職場のおじさんたちに一瞬だけ思いを馳せてから、私は答える。
「考えたことないです……」
「一回も?」
「一回も」
本当に一度もない。人前に出る仕事に憧れたこともなければ、自分が芸能人になれると思ったこともない。
「できるかどうかは置いといて、人から注目されることが苦手で……。あっでも、何かを作ったり、考えたりして、その成果が褒められることは好きだったので、裏方はすごく合っているかと……」
「へえ、可愛いから、前出てみても俺は全然いいと思いますけどね!」
優は何でもないことのように言う。
自分よりずっと年下の男の子に可愛いと言われると、さすがに少し反応に困る。
「……ありがとうございます」
困っている私に気づいたのか、麗央が横から口を挟んだ。
「マネージャーを口説かないでください」
「口説いてねーよ!」
優が笑う。
「褒めただけじゃん。麗央もそう思うでしょ?」
「俺を巻き込むなよ」
「否定しないじゃん」
「そういうことを担当マネージャーに言うなって話。仕事なんだから」
「ほら、否定しない」
「お前、ほんと面倒くさいな!」
二人のやり取りがおかしくて、私も笑った。
そのとき、少し離れたところにいた玲と目が合った。
ペットボトルを片手に持ったまま、こちらを見ている。
ほんの一瞬だった。私が気づくと、玲は何事もなかったように視線を外して、自分の荷物をまとめ始めた。
(……また目があった?)
でも、同じ担当になったばかりなのだから、玲だって新しいマネージャーが気になるだけかもしれない。
私だって今日一日、玲のことばかり見てしまっていた。
(いけない、いけない。目標は変わらないけど……一人だけを意識するのはやめよう。私は五人のマネージャーになったんだから)




