5. 二〇一八年の母と私
「ただいま」
恐る恐る鍵を差し込み、玄関の扉を開ける。
「おかえりー」
家の奥から聞こえてきた声に、思わず息を止めた。聞き間違えるはずがない。
「春? 今日初日だったんでしょ。どうだった?」
リビングから母が顔を出す。記憶にあるより少し若い。髪も今より長いし、顔の皺も心なしか少ない気がする。それでも、間違いなく私の母だった。
「…………お母さん」
「何?」
「いや……」
じっと顔を見ていると、母が怪訝そうに眉を寄せる。
「どうしたの。ぼーっと突っ立って」
「……ただいま」
「あれ、さっきそれ言ったじゃん。私もおかえりって言わなかったっけ?」
呆れたように笑う。その顔を見た瞬間、全身から力が抜けた。
(よかった……)
私の大好きなお母さんだ。
私が知っている二〇一八年と、この世界の二〇一八年は違う。少なくとも就職先は変わっているのだから、他にも何かが変わっている可能性は当然あると思っていた。
母が別人になっているかもしれない。最悪の場合、存在そのものがなくなっているかもしれない。そんなことを考えるのが怖くて、家に帰るまで確認することすら避けていた。
「ご飯食べる?」
「食べる」
「じゃあ早く着替えてきて〜」
「うん」
階段を上がりかけて、もう一度振り返る。母はお気に入りのK-POPグループの日本語バージョンの歌を口ずさみながら、キッチンへ戻っていった。
何も変わっていない。
それだけのことが、今はたまらなく嬉しかった。
◇
「それで、初日はどうだった?」
夕食を食べながら、母が聞いてくる。
「……覚えることが多かった」
「お疲れさま! で、アイドルの子たちは? どうだった!? 女の子? 男の子?」
「男の子の五人組だったよ。LYRENっていうんだけど……」
「知らないグループだ……」
「お母さん、K-POPしか知らないじゃん。売れてたとしても知らないでしょ」
「ごめん、確かにそうかも。かっこよかった? あんた、そういうの興味ないと思ってたけど……」
そうだ。この頃の私は、まだアイドルにハマっていなかった。母も当然、私がこのあとLYRENを八年間追い続けることになるなんて知らない。
「……みんな、かっこよかったよ。十代だから若いけど」
「えー! ならよかったじゃない。イケメンの子たちと仕事できるなんて! 羨ましいわ〜。お母さんも若かったらK-POP事務所で働きたい〜」
やっぱり、私の知っている母だ。
母子家庭だったから、私はもっと「安定した会社に入りなさい」と言われるものだと思っていた。でも実際には、大学を選ぶときも就職活動のときも、「自分で食べていけるなら好きなことをしなさい」と言われた。まあ、芸能事務所への就職に抵抗がなかったのは、自分がK-POP好きだからというのも多少ありそうだけれど。
父と離婚したときに分けた財産を元手に投資をしながら生計を立てているような人なので、世間体や見栄には昔からあまり興味がない。
私は箸を止めた。
「ねえ、お母さん」
「ん?」
「私が今の会社に入るって言ったとき、どう思った?」
「何、急に」
「いや……今日、入社理由聞かれて」
とっさにそれらしい理由を作る。
「どうって……びっくりしたわよ」
「やっぱり?」
「そりゃそうでしょ。あんなに広告代理店行きたいって言ってたんだから」
その答えを聞いて、やっぱりそうかと思う。
「……私、ずっと広告行きたいって言ってた?」
「言ってたじゃない。大学入った頃から」
「だよね」
「何なの?」
「じゃあ、やっぱり芸能事務所に行くって言ったときはどう思った?」
「ずっと行きたかった広告代理店に受かったのにいいの? って思ったよ。せっかく第一志望に受かったんだし」
「お母さんは反対したっけ?」
「もったいなくない?とは言ったよ。去年の話だよ?覚えてないの?」
母が首を傾げるが、構わずに話を続ける。
「……何で芸能事務所で働きたいって言ってたか、覚えてる?」
母はしばらく考えたあと、ぽんと手を叩いた。
「お母さんの推しのヒョンスのサインをもらってくるためって言ってなかった?」
「それならK-POPの事務所に行く方が早いでしょ」
「ふふっ、確かにね」
母は楽しそうに笑ったあと、急に真面目な顔になる。
「まあ、お母さんは広告の仕事の方が春に向いてるんじゃないかと思ってたけどね。なんで芸能事務所なのかは私も深く聞かなかったけどさ、やりたいと思ったんでしょ?自分がやりたいことを仕事にするのが一番だと思うよ」
「…………」
母が続ける。
「あんな難しいところにちゃんと受かって、その上で別の道を選んだんだから、お母さんは春のこと、すごいと思ってるよ」
「……急に真面目に褒めるじゃん」
「褒めたら駄目なの?」
照れくさくなって、私は黙って白米を口に入れた。
◇
夕食を終えると、自分の部屋に籠もってノートを一冊取り出した。頭の中だけで考えていても仕方がない。こういうときは、分かっていることと分かっていないことを整理して、事実を一つずつ並べる。
広告の仕事でも同じだった。企画を考えるとき、いきなり答えを出そうとはしない。まず現状を把握して、どこに課題があるのかを探す。
ノートの一番上に【変わっていないもの】と書く。
まず、家族。母は同じ。うちは母子家庭で、昔から母と二人で暮らしていた。それも変わっていない。
次に、スマートフォンと部屋に残っていたものを使って、自分の過去を遡っていく。小学校、中学校、高校、大学。すべて同じだった。大学の学部もゼミも変わっていない。
写真フォルダには、大学時代の友達やサークル、ゼミ、旅行、成人式の写真が残っている。どれも覚えているものばかりで、自分の人生なのだから当たり前なのに、記憶と一致するたびに少し安心した。
さらに遡っていくと、高校時代の写真が出てくる。文化祭、修学旅行、制服姿の私。そして、その中に一人の男の子と並んでいる写真を見つけた。
「あ」
元彼だ。
高校一年生から大学四年生まで、六年以上付き合っていた。向こうから告白されて、身長が高くてかっこよくて、優しくて、友達も多い人気者だった。何より一緒にいて楽だったから、私は告白を受けた。
今考えると、我ながらずいぶん軽い理由だと思う。でも、当時は恋愛なんてそんなものだと思っていた。
好きかと聞かれれば、好きだった。手も繋いだし、デートもした。誕生日もクリスマスも一緒に過ごしたし、大学が別になってからも関係は続いた。友達から「羨ましい」と言われれば、ちょっと誇らしい気持ちにもなった。
ただ、恋愛における「好き」という感情が、最後までよく分からなかった。
会えないからといって耐えられないほど寂しくなることもなかったし、四六時中相手のことを考えることもなかった。彼が男女混合のグループで卒業旅行に行ったときでさえ、驚くほど何の感情も湧かなかった。
大学四年の頃、一度だけ聞かれたことがある。
『春って、俺のこと本当に好き?』
私は「好きだよ」と答えた。嘘をついたつもりはなかった。ただ、向こうが欲しかった「好き」と、私の「好き」は、もしかしたら少し違っていたのかもしれない。
就職を前に、お互い忙しくなる。このまま付き合い続ける未来もあまり想像できない。そんな話をして、六年以上続いた関係は驚くほど穏やかに終わった。
私は泣かなかった。向こうも、少なくとも私の前では泣かなかった。
「……六年も付き合わせて、時間を無駄にさせちゃったかも」
今になって少し申し訳なくなる。
彼は卒業後、テレビ局に就職したはずだ。今頃は私と同じように、新人として働き始めた頃だろう。別れてからはほとんど連絡を取っていないので、その後のことはあまり知らない。
気を取り直して、ノートに書き足す。
【家族 ○】
【学校 ○】
【友達 ○】
【元彼 ○】
「……ほとんど一緒じゃん」
だったら、どこから変わった?
さらに大学時代を遡る。学生コンペ、インターン、就職活動。これも全部、私の記憶と一致している。
私は大学生の頃から広告業界を目指していた。中でも入りたかったのは、大手広告代理店のクリエイティブ職。コピーライターやプランナーとして、広告の企画を作る仕事だ。
当然、簡単に入れるような職種ではない。だから大学時代からインターンに参加して、コンペにも応募して、課題を作って、ポートフォリオも用意した。
そして、第一志望だった会社から内定をもらった。
「……そこも同じだよね?」
スマートフォンのメールを検索して会社名を入力すると、何件ものメールが表示された。その中に『選考結果のご連絡』という件名を見つけて開く。
最終選考通過。
内定。
ここまでは、私の記憶と同じだった。
「じゃあ、どこで……」
メールをさらに遡って、指が止まる。
「……え?」
『内定辞退のご連絡』
送信者は、私。メールを開くと、第一志望だった会社へ内定を辞退する旨が、丁寧な文章で書かれていた。
「やっぱり私、断ってる……」
あれだけ入りたかった会社を。大学時代から準備して、何度も選考を受けて、ようやく手に入れた内定を、この世界線の私は自分から手放している。
私の記憶では、もちろん違う。そのまま大手広告代理店に入社して、新人研修を受け、念願だったクリエイティブの部署に配属された。最初に出した企画書を先輩に真っ赤にされて、今みたいに生成AIが発達していない時代に「コピーを千本書け」と言われ、本当に千本自分で書いたりもした。
そこから八年間、広告の仕事を続けた。でも、この二〇一八年では、その直前で道が分かれている。
【家族 ○】
【学校 ○】
【友達 ○】
【元彼 ○】
【大学 ○】
【就職活動 ○】
【広告代理店内定 ○】
その下に一本、線を引く。
【内定辞退】
【芸能事務所へ入社】
【LYREN担当】
「…………ここだけだ」
私の人生が全部変わったわけじゃない。むしろ、ほとんど変わっていない。
変わったのは、就職活動の最後。たった一つの選択だけだ。
私は大手広告代理店の内定を蹴って、LYRENが所属する芸能事務所へ入った。そして入社初日に、LYRENの担当になった。
「……出来すぎてない?」
そう呟いた瞬間、ぽん、とスマートフォンの通知音が鳴った。
今日入れてもらったばかりのグループチャット。
【スケジュール連絡】
画面には、五人の名前が並んでいる。
「…………」
何度見ても心臓に悪い。八年間ファンをしていた身としては、推しと同じグループチャットに入っているという事実だけで落ち着かない。
未読を開くと、明日の集合時間について佐伯さんから連絡が入っていた。確認したメンバーは一言返信するように、と書かれている。
麗央『確認しました!』
凪『了解です!』
優『はーい!』
瑛『確認しました』
玲『了解です』
「…………」
たった四文字。ただの業務連絡だ。
それでも、二〇二六年ではどれだけ検索しても二度と増えることのなかった人の言葉が、今は当たり前のように増えていく。
送信時刻は、二十二時十三分。
ほんの数分前だ。玲が生きている時間は、今も進んでいる。
私はしばらく画面を見つめたあと、スマートフォンを伏せて、もう一度ノートを開いた。
あと八年。玲が亡くなった理由は、まだ分からない。私が近くにいれば救えるなんて保証もないし、そもそも八年間ファンだっただけの私が、玲という人間の何を知っていたのかと聞かれれば、ほとんど何も知らない。
だから、まずは知ることから始めよう。
私はノートの最後に、一行だけ書き足した。
【目標:玲の二十七歳の運命を変える】
書いた文字を眺めてから、ノートを閉じる。ただ、一つだけ引っかかることがある。
この頃の私は、アイドルになんて興味がなかったはずだ。
それなのに、どうして。
あれだけ入りたかった会社の内定を蹴って、LYRENのマネージャーになっているんだろう。




