41. 分かりやすい振り付け
週明けの月曜日。
ダンスレッスンが終わったあとの練習室に、私たちは六人で集まっていた。
「じゃあ、臨時のメンバー会議を始めます」
鏡の前に立った麗央が、ペットボトルをマイクのように握って言った。
五人はレッスン着のまま床に座り、私はその輪の端で資料を膝に広げている。定例企画会議は月に一回。次はまだ先だけれど、今日は玲から「報告したいことがある」と言われて、麗央が十分だけ時間をもらってくれたのだ。
「定例じゃないのに、会議室じゃなくていいんすか」
「今日の議題は、ここじゃないとできないから」
優の素朴な疑問に答えたのは、麗央ではなく玲だった。
タオルを首にかけたまま、壁際から一歩前に出る。
「土曜日、振付の先生に相談してきたんだけど。次のアルバムの収録曲の、サビの振りのことで」
練習室の空気が、すっと玲の方へ集まった。
「サビの頭に、誰でも真似できる振りを入れたいって話をしたら……採用してもらえることになった。先生が少しだけ手を入れて、形も整えてくれて」
一瞬の間のあと、優が「え、マジ!?」と身を乗り出した。
「玲が考えた振りが入るってこと?」
「サビの四カウントだけ」
「いや、すごいって! 先生、そういうの絶対厳しいじゃん」
金曜日の夜、練習室で見せてもらったあの振りが、もう本物になろうとしている。
膝の上の資料を持つ指に、思わず力がこもった。
玲は私の方へ視線だけ寄越して、小さく頷いた。
「先生にも言われました。『客席が一緒にやれる振りを今から考えとくのはいいことだ』って」
「さすが先生。分かってる〜」
「で、具体的にどんな振りなの?」
凪が両膝を抱えたまま首をかしげる。
麗央がぱん、と手を叩いた。
「じゃあ一回、みんなでやってみるか」
◇
玲が鏡の前に立ち、スマートフォンでサビだけを流す。
両手を胸の前で交差させて、ぱっと開く。片手を横へ流し、最後に斜め上をすっと指差す。たった四カウントの動きなのに、玲がやると驚くほど絵になる。
「こんな感じ」
「え、めちゃ簡単じゃん」
優が真似をすると、一回目からほとんど完璧だった。麗央も、瑛も、凪も、もう音にはまっている。さすが、毎日踊っている人たちだ。
「うん、いいじゃん。これならファンの人もすぐできそう」
「いったん春さんもやってみてよ!」
優がにっこりと笑って、こちらを振り返った。
「……え?」
五人分の視線が、一斉に私へ向いた。
「ちょ、ちょっと待ってください。私は……」
「一般の人ができるかどうかが重要なんじゃん!」
「たしかに。でも春さん、ダンス得意そうですよね。なんでもできそう」
凪まで、無邪気にきらきらした目を向けてくる。
(……なんでみんな、私にやらせようとするの!?)
助けを求めるように視線をさまよわせると、鏡越しに玲と目が合った。金曜日の惨状を知っている、この部屋で唯一の人。
玲は何も言わなかった。
止めもせず、無表情のまま、ただ一人分の場所をすっと空けた。
(ええええ……)
断れる空気ではなかった。
私は資料を床に置き、メンバーたちの隣に立った。鏡の中で、レッスン着の五人と、ブラウス姿の私が並んでいる。どう見ても一人だけ浮いていた。
曲が流れる。
サビの入り。胸の前で交差させて――。
交差させる前に、両手が頭の上へ浮きかけた。
(だめ、上げない……!)
慌てて引き戻すと、今度は開くタイミングが半拍遅れる。流す手は逆。最後の指差しは、斜め上ではなく、天井の照明を曖昧に指していた。
(この前はできていたのに....緊張して、またできなくなっちゃったみたい)
「…………」
一瞬の静寂。
次の瞬間、優が床に崩れ落ちた。
「え、春さんダンス苦手なの!?」
「苦手です! 金曜日に玲さんにも言いました!」
「いや、なんでも完璧にこなすから、絶対できる人だと思ってた! えー、意外! もう一回! もう一回見たいっす!」
顔から火が出そうだった。
そのとき、壁際に座っていた瑛が、イヤホンを片方外して静かに言う。
「春さん、サビの一拍前で、手が上に行こうとしてる」
「え」
「たぶん、身体が勝手に音を取りにいってる」
「おい瑛、真面目に分析するなよ! 春さんが可哀想だろ!」
麗央がすかさず突っ込む。
(いや、そのツッコミをされてることが、一番可哀想なんですけど……)
「ぎこちない春さん、新鮮で、超かわいいです」
凪が、にこにこしながら素直に言った。
悪気も、他意も、ひとかけらもない声だった。
「凪さん……」
苦笑いしながら返したとき、視界の端で何かが動いた。
玲が、ほんの一瞬だけ、凪の方を見ていた。
表情は変わらない。眉一つ動いていない。
ただ、視線だけが一度、凪の横顔に止まって――すぐに鏡へ戻った。
その玲を、麗央が何も言わずに眺めていた。
麗央はペットボトルを握ったまま口元だけでかすかに笑い、またぱん、と手を叩いた。
「はい、じゃあこの振りは春さんでもできるように、もうちょい簡単にする方向で」
「流す手は、左右どっちでもいいことにします。指差しも、まあ角度はそこまでこだわらないってことで」
玲が淡々と付け足す。
「天井でもいいってことっすね」
「優さん……」
練習室に、笑い声が弾けた。
◇
笑いが落ち着いたところで、私は床に置いた資料を拾い上げた。
ここからが、私の仕事だ。
(元の世界でLYRENを一気に広めたのは、真似したくなるダンス動画だった)
曲は違う。時期も、数年先だった。
でも、あのとき起きたことの形は覚えている。TikTokでそのダンスが一気に広がって、気づけばLYRENを知らなかった人まで踊っていた。広がったのは曲そのものではなく、「流行ってるから、自分もやってみる」という気持ちだった。
ただし、それをそのまま言うことはできない。
未来を知っているからではなく、今ここにある材料から、筋道を立てて話す必要がある。
「あの、一つ提案してもいいですか」
麗央が「どうぞ」と手のひらを向けた。
「この振りだけを切り出した、短いダンス動画を作りませんか。サビの部分を、三十秒くらいで」
「振り付け講座みたいな?」
「はい。それを公式のTwitterに載せて、ファンの方にも踊ってもらうんです。『一緒に踊ってね』って」
五人が顔を見合わせる。
私は続けた。
「前に玲さんと優さんのダンス動画が伸びたとき、『LYRENって初めて聞いた』っていうコメントがたくさんありましたよね。見てくれる人は、もういるんです。あとは、見るだけじゃなくて参加してもらえたら。真似して踊るには、何回も曲を聴かなきゃいけないじゃないですか。気づいたら曲を覚えてて、好きになってる――そういう入り口を作りたいんです」
言いながら、私は瑛の方をうかがった。
以前、歌のサビだけを切り出した動画を提案したとき、瑛は「その三十秒が、その曲の全部になる」と言った。
「今回は、曲を宣伝する動画じゃなくて、振りを渡す動画にしたいんです。曲の一番いいところを切り取るんじゃなくて……ライブや、この先いつか開催するツアーで一緒に踊るための、練習用の動画です」
瑛は少しだけ考えるように天井を見た。
それから、短く言った。
「それなら、いいと思う」
「……!」
胸の奥が、ふわっと温かくなった。
あのときの言葉を、瑛もちゃんと覚えていた。そのうえで頷いてくれたのが、なんだか無性に嬉しかった。
「公開のタイミングとか、アカウントの運用は佐伯さんと会社に確認します。もし通ったら、次のMV撮影の後でどうでしょう」
麗央が自分のスマートフォンでスケジュールを確認して、頷いた。
「じゃあ、撮影はMVの現場で。玲、それで大丈夫?」
「はい」
玲は鏡の中の自分を一度見てから、こちらを振り返った。
「俺のアイデア、聞いてくれてありがとうございます。それに見合うよう、練習もっとがんばりますね」
淡々とした、いつもの声だった。
頼もしいはずの一言なのに、なぜか胸の奥に、小さな棘のようなものが引っかかった。
◇
会議が終わり、五人が着替えに向かったあと。
私はデスクに戻って、今日の内容を週報にまとめていた。
「湯河さん、ちょっといい?」
顔を上げると、佐伯さんがコーヒーのカップを片手に立っていた。
「あ、佐伯さん。ちょうど相談したいことがあって。玲さんの振りが採用されたので、それを使った動画の企画を――」
「うん、それもあとで聞く。その前に、ちょっとね」
佐伯さんは隣の空いている椅子を引いて、腰を下ろした。
声を少しだけ落とす。
「玲がね、最近ずーーっと練習室使ってるみたいなんだけど」
「……え?」
「受付の人に聞いたら、ここ二週間くらい、鍵を返しに来るのが毎日一番遅いんだって。自主練なのは分かってるし、もともと練習する子だから、悪いことじゃないんだけど」
キーボードの上で、指が止まった。
――もうちょっとだけやってから帰ります。
金曜日の夜の、何でもない一言がよみがえる。
あの日だけではなかった。私が知らない夜にも、玲はずっと一人で、遅くまであの練習室に残っていた。
「最近、湯河さんのおかげでグループの雰囲気もいいから、余計に頑張りたいのも分かるんだけどね」
佐伯さんは困ったように笑って、カップに口をつけた。
「玲、湯河さんの言うことなら聞くと思うから。あんまり無理しないように、言っておいてね」
「……はい」
返事をした声は、自分でも驚くほど小さかった。
佐伯さんが席を立ったあとも、私はしばらく画面を見つめていた。
週報の、玲の名前の欄。今日の記録には、「振りが採用された」「動画の企画が決まった」と、いいことばかりが並んでいる。
『かっこいいとこ、見せたかったんで』
廊下で聞いた、あの低い声がよみがえる。
あのときは、胸が痛いくらいにうれしかった。今は、同じ言葉が、少しだけ違う重さで沈んでいく。
――自意識過剰かもしれないけど。
でも、もし私がこうやって行動を起こしていることが、玲が頑張りすぎる理由の一つになっているのだとしたら。
窓の外では、八月の夕立が、音もなく降り始めていた。




