40. 不思議な夢
受付に鍵を返して、ビルを出たところで別れた。
「じゃあ、お疲れさまでした。玲さん、ちゃんと帰ってくださいね」
「帰りますよ」
「寄り道もしないでくださいね」
「……コンビニくらいは寄らせてください」
春は一瞬むっとした顔をしてから、「コンビニまでなら許可します」と真面目に言って、駅の方へ歩いていった。
背筋の伸びた後ろ姿が、街灯の下で小さくなっていく。
まだ世間に顔を知られているわけでもない新人に送迎の車なんてつかない。会社との行き来は、いつも電車だ。
(……同じ電車に乗ろうと思えば乗れた)
けれど言葉どおりコンビニへ入った。冷蔵ケースから適当に水を一本選ぶ。雑誌の棚の前で、読むつもりもない表紙を眺める。スマートフォンで時刻を確かめ、電車を一本見送れるくらいの時間がたったところで、ようやくレジへ向かった。
夜の駅前で女性と二人で並んで帰っているところを、誰か顔を知っている人に見られたら。
自分よりも困るのは、担当マネージャーである春の方かもしれない。
――困らせるなよ。
昨日、横断歩道を渡りながら麗央に言われたことを思い出す。
言われなくても分かっている、と返したはずの言葉だった。分かっているから、こうしてコンビニで水を一本買うのに十分もかけている。
◇
金曜の夜の電車は、思っていたより混んでいた。
飲み会帰りらしい会社員たちの笑い声と、かすかなアルコールの匂い。ドアのそばに立ち、キャップを目深にかぶり直してマスクを鼻の上まで引き上げた。
もっとも、車内の誰一人としてこちらを見てはいない。
隣で吊り革につかまっている大学生らしい二人組もスマートフォンの動画に夢中だった。
(顔を隠す必要があるほど、世間に顔は知られていないけど)
それでも隠すのは、いつか必要になる日が来ると思っているからだ。――少なくとも、そう思ってくれている人が一人いる。
窓ガラスに自分の顔がぼんやり映る。
『お前、意外と面食いなんだな!』
昨日、改札の前で麗央が置いていった一言のせいで、今日は春の顔をまともに見られなかった。
顔で好きになったわけじゃない。それは何度聞かれても同じことを言える。
初めて会った日からなんとなく目が離せなかった。その理由は今でもうまく説明できない。けれど、少なくとも顔ではなかったはずだ。
なのに練習室に春が入ってきた瞬間、視線が勝手に床へ落ちた。
まっすぐ顔を見たら、麗央の言葉を認めることになる気がして。
けれど結局、普通に見てしまった。不慣れなダンスを一生懸命に踊って、それから真っ赤になって「違うんです」と必死に言い訳していた顔を。
(……かわいかったのは、本当だし)
◇
降りる駅まであと三駅。目の前の座席が空いて、そこに腰を下ろした。一日分の疲れで静かに身体が沈んでいく。規則正しい揺れに身を任せて、そのまま目を閉じる。
――ほんの数分、まどろんだだけだったと思う。
知らない場所にいる。
白い光。どこまでも続くような長い廊下。
音がない。自分の足音さえ、どこかに吸い込まれていく。
少し後ろを、誰かが歩いている。
見覚えのある気配なのに、顔が見えなくて分からない。
名前を呼ぼうと振り返る。
口を開いて――声が、出なかった。
その人は、白い光の中へ遠ざかっていく。
追いかけようとしても、足が動かない。伸ばした手は、どこにも届かない。
また、だ。
なぜかそう思った。
車内アナウンスの声で、目が覚める。
さっきまでと同じ、蛍光灯に白く照らされた車内。向かいの席では、会社員がスマートフォンを眺めている。
Tシャツの下で、背中にじっとりと汗がにじんでいた。
(……夢か)
中身は、目を開けた瞬間から砂がこぼれるように崩れていって、もうほとんど思い出せない。
白い光と、遠ざかる人影。それだけがまぶたの裏に薄く焼きついている。
それと――手が届かなかったときの、胸がつぶれるような感覚だけが。
何度見ても、目が覚めると中身は残らない。
ただ、この感覚だけが、毎回同じように胸に残る。
自分の降りる駅に着き、ホームへ降りる。夏の夜の生ぬるい風が、首筋の汗をゆっくりと冷やしていく。
気づけば、ポケットからスマートフォンを取り出していた。
一番上にピン止めしている、春とのトーク画面を開く。
『お疲れさまです。無事に帰りましたか』
なんとなくそこまで打って、指が止まる。
そしてしばらく画面を見つめてから、その文章をすべて消し、短く打ち直す。
『今日はありがとうございました。帰りました』
送信して、数秒。
既読がつき、すぐに返事が届いた。
『お疲れさまでした! ちゃんと帰ってえらいです。ゆっくり休んでくださいね』
一瞬だけど、画面の向こうで、あの人が自分のことを考えてくれている時間がある。
たったそれだけのことで、胸の奥でまだ速かった鼓動が静かに落ち着いていった。
(……えらいって、子どもだと思っているのか)
そう思いながら、スマートフォンをしまう前にもう一度だけその文字を眺めた。




