39. かっこいいところなんて
玲が手直しした振りは、たしかにさっきよりもずっと簡単になっていた。
両手を胸の前で交差させるところはそのままに、開いたあとの腕の流れが一つ減っている。最後の指差しも、前方ではなく、斜め上をすっと指し示すだけになった。
「じゃあ、もう一回」
「……はい」
二回目のサビ。
今度こそ、頭の上でペンライトを振ろうとする両手を必死に押さえ込み、胸の前で交差させる。開く。流す。指差す。
「……できた」
「できましたね」
「できました! 今の、ちゃんとできてましたよね!?」
「はい。これで、誰でもできる振りの基準はクリアです」
「基準って、私なんですか……?」
「はい。これからも、春さんが踊れるかどうかで判断していこうと思います」
玲はわずかに口の端を上げてそう言うと、「振付の先生にも明日相談してみます」と付け加えた。
(待って。このぎこちないダンスを、これからも毎回披露しなきゃいけないの!? それは恥ずかしすぎるって……)
私は小さくうなだれながら、床に座り直した。
ふとした拍子に、さっきの「かわいいですね」がよみがえる。耳の奥に残った低い声を振り払うように、すっかり氷の溶けたアイスアメリカーノをもう一口だけ飲んだ。
◇
「で、春さんは?」
隣に腰を下ろした玲が、壁に背中を預けたまま言った。
肩と肩の間は、こぶし一つ分くらい。踊ったばかりの体温が空気越しに伝わってくる気がする。
「え?何がですか」
「今週、大変だったでしょ。優の配信と、凪の送迎と、瑛の曲と、麗央との会議」
「それは仕事なので! 大変とかじゃないです」
「愚痴、聞くって言ったじゃないですか。別に今でも聞きますよ」
玲は前を向いたまま、ストローの先でカップの中の氷を軽くつついた。からん、と小さな音が鳴る。
「まだ未成年なんで今日は酒飲めないですけど」
「……ふふっ」
思わず笑ってしまう。
飲みに行けないから、アイスアメリカーノで代わりにする、ということらしい。それを大真面目な顔で言うところが十九歳らしくて、なんだか微笑ましかった。
「担当してるメンバーに愚痴を聞いてもらうマネージャーなんて、聞いたことないですよ」
「じゃあ、一つだけでいいです。何かないですか」
逃げ道をふさぐように、短く言われる。
私はしばらく迷ってから、膝の上で両手を組んだ。
「……愚痴っていうか。自分が本当にちゃんとできてるのか、たまに不安になるんです」
口に出してみると、思っていたよりずっと声が小さくなった。
「凪さんにオーディションを勧めたのも、玲さんと優さんの動画を提案したのも、定例会議を作ったのも、私です。上手くいったこともあるけど……私が決めたことで、誰かの将来が変わっちゃうかもしれないって思うと、なんというか、漠然と怖くなるときがあって」
本当に言いたいことは、その先にある。
――玲を、二十七歳で死なせない。それが私がここにいる一番の理由だ。
毎晩、今日の選択は正しかったのかと考える。今日の玲は笑っていたか。ちゃんと眠れていそうか。何かを一人で抱え込んでいないか。そのどれか一つでも見落としたら、八年後のあの朝がまた来るんじゃないかと思うと、胸の奥が冷たくなる。
でも、これからあなたが死ぬかもしれない、なんて話だけは絶対に本人には言えない。
「……だから、ちゃんと全員のことしっかりと正しく見られてるのかなって。今週も、玲さんとは全然話せてなかったし」
言い終えると、練習室がしんと静まり返った。
空調の低い唸りだけが、耳の奥まで響いてくる。
「春さん」
玲が、ゆっくりとこちらを向いた。
今日はずっと合わなかった視線が、今度は逸らされずに、まっすぐ私の目をとらえる。
「凪がオーディション受けるって決めたのは、凪ですよ」
「……え」
「俺と優が踊るって決めたのも、俺らだし。会議だって、出たくなかったら出てないです。春さんは提案しただけで、やるって決めたのは全部、俺らなんで」
淡々とした声だった。慰めようとしている気配は少しもない。ただ、本当のことを一つずつ並べているだけ、という言い方だった。だからこそ、すとんと胸に落ちてくる。
「だから、上手くいかなかったら半分は俺らのせいにしていいですよ」
「……半分、ですか」
「全部背負われても、こっちが困るんで。でも、半分くらいは持ってくれたら嬉しいです」
それから、一拍置いて付け足す。
「あと、ちゃんと皆知ってますから。芸能活動なんて正解があるものじゃないから、正しいかどうかは誰もわからないと思いますが....少なくとも、春さんが全員のこと気にかけてくれているのは皆感じてますし、感謝してます」
胸の奥で固く結ばれていた何かが、ふっとほどけた気がした。
(……玲の話を聞くつもりで来たのに)
気づけば、聞いてもらっていたのは私の方だった。
しかも、一番言えないことの、すぐ手前まで。
◇
それから玲は、もう一度鏡の前に立った。
手直しした振りを入れた状態で、サビを何度も繰り返す。私はそれを撮って、気づいたことを伝えて、玲がまた踊る。その繰り返しの中で時間は飛ぶように過ぎていった。
ふと壁の時計に目をやると、針は二十二時を回っていた。
「玲さん、今日はもう帰りましょう。もうこんな時間ですし」
「もうちょっとだけやってから帰ります」
玲はタオルで首筋を拭いながら、こともなげに言った。
「大丈夫です。春さんは先に帰っててください」
さっき、不安を口にしたからだろうか。自分の背筋が一瞬、すっと冷えたのがわかった。
何でもない一言だ。体力の有り余っている十九歳が、好きなダンスを自主的に練習したいと言っているだけ。マネージャーとしての仕事が終わったのだから、「じゃあお先に」で終わる会話だと思う。
なのに、頭の中に勝手に文字が浮かぶ。
スマートフォンの画面。白い背景。
『LYREN 玲に関するお知らせ』
元の世界で、玲がなぜいなくなってしまったのかを私は知らない。
もし、その理由が、頑張りすぎたことだったら。もし、何度も「大丈夫」と言って、そのたびに周りが安心してしまったせいだったら――。
夏のイベントで、壁へ手をついた玲の姿が重なる。あのときも玲はいつもと変わらない口調で「ちょっと立ちくらみしただけで、大したことないです」と言っていた。お昼は、おにぎりを半分しか食べていなかったのに。
「……春さん?」
「じゃあ」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「私も、週報をやってから帰ります。三十分後に、鍵、一緒に返しましょう」
玲が、一瞬だけ目を丸くした。
「……監視ですか」
「マネジメントです!」
間髪入れずに返すと、玲は小さく息を吐いてまた鏡の方へ向き直った。
鏡の中で、その口元がほんのわずかにほころんだのが見えた気がした。
◇
三十分後。私たちは練習室の電気を消して、並んで廊下を歩いていた。
夜の会社は、昼間とはまるで別の場所みたいに静かだ。非常口の緑のランプと、自動販売機の白い明かりだけが、長い廊下をぼんやりと照らしている。二人分の足音が、やけに大きく響いた。
鍵を返す受付までは、あと少し。
「春さん」
隣を歩いていた玲が、不意に足を止めた。
「さっきの、大丈夫って言ったやつ」
「……はい」
「本当に無理はしてないです。ただ」
玲はキャップのつばに指をかけて、目元をわずかに隠した。けれど、声の調子はいつもと何も変わらない。
「今日は春さんが来るって分かってたんで、いつもより頑張って練習してました」
「……え?」
「かっこいいとこ、見せたかったんで」
――え。
言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
自動販売機の低い駆動音だけが、二人の間を埋めている。
玲はそれ以上何も言わずに、また歩き出した。いつもどおりの、淡々とした背中で。
私はその場に縫い留められたように、廊下の真ん中で動けなくなった。
(……かっこいいところなんて)
八年間、ずっと見てきた。
画面越しに、何百回も。玲が知らないところで、私は何度も玲に救われてきた。
「春さん、鍵」
少し先で振り返った玲が、手のひらを差し出してくる。
「あっ、は、はい!」
慌てて駆け寄り、鍵を手渡す。
指先が、ほんの一瞬だけ触れた。
玲は何事もなかったように、受付へ向かっていく。
私は、触れたばかりの指先をそっと握りこんだ。
――仕事なのに。
今日だけで何回そう自分に言い聞かせただろう。
心臓の音は、帰りの電車に揺られている間も少しもおさまってくれなかった。




