38. 顔を見れない
金曜日の夜。
私は会社近くのカフェで買ったアイスアメリカーノを二つ、両手に一つずつ持って、練習室へ向かっていた。
(今日は絶対に、前みたいにならないようにしなきゃ)
前に、玲が何のためらいもなく私のストローで飲んだことがある。あのときは心臓が止まるかと思った。
だから今日は、最初から二つ買った。一人一つ。自分の分は左手、玲の分は右手だ。
練習室の前まで来ると、扉の向こうから低く音楽が漏れていた。
そっと扉を開ける。
玲は、もう一人で踊っていた。
鏡張りの壁の前で、黒いTシャツの背中が汗で張りついている。音に合わせて腕が伸び、止まり、次の瞬間にはもう身体の向きが変わっている。どの動きも速いのに、一つ一つの形がちゃんと見える。
(……やっぱり、すごいな)
八年間、画面越しに何百回と見てきた人のダンスを、今は同じ部屋の空気の中で見ている。元ファンとしての私が、思わず両手のアイスアメリカーノを握りしめた。
――いや、違う。今日は仕事だ。
私は小さく息を吸って、マネージャーの顔に戻った。
曲が終わったところで、玲が鏡越しにこちらに気づく。
「お疲れさまです。これ、差し入れです」
「……どうも」
右手のカップを差し出すと、玲はタオルで汗を拭きながら受け取った。
――そして、受け取ったまま、すぐに視線を床へ落とした。
(……ん?)
気のせいかと思って、もう一度顔を見る。
玲はストローをくわえたまま、壁の時計を見ていた。私が横に移動すると、今度は鏡の端に貼られた振り付けのメモに目をやる。
(今日、なんか顔見てくれなくない……?)
無表情はいつもどおりだ。機嫌が悪そうにも見えない。ただ、なぜか私の顔の高さにだけ、視線が来ない。
考えても答えは出ないので、私はひとまず仕事の話を始めることにした。
「今踊ってたの、次のアルバムの収録曲の振りですよね」
「はい。この曲、タイトル曲じゃないんですけど、この先ツアーとかやるなら振りがあった方がいいんじゃないかって話になって。今日、先生にもらったやつです。一回通すんで、撮ってもらっていいですか」
玲のスマートフォンを受け取り、少し離れた位置で構える。
音楽が始まると、画面の中の玲はやっぱりすごかった。
サビに入った瞬間、空気が変わる。振りの一つ一つに無駄がなくて、指先まで音に合っている。今日もらったばかりの振りなのに、もう何年も踊ってきた曲みたいに見えた。
(すごく、綺麗だなぁ)
素直にそう思った。でも、それをそのまま言うのは、たぶん今日の私の仕事じゃない。
『春さん、いいとこだけ言う人じゃないから』
水曜日に瑛に言われた言葉を思い出す。
曲が終わり、録画を止める。私は撮った映像を最初から確認してから、玲にスマートフォンを返した。
「すごく良かったです。サビの入りとか、本当に鳥肌が立ちました。……ただ、一個だけいいですか」
「……どうぞ」
少し驚いたように目をみはって、玲が頷いた。
「最後の八カウント、玲さん、まだ自分の形を探してますよね」
玲の切れ長の目が、わずかに揺れる。
「前半はちゃんとカメラの位置を意識してるのに、最後だけ、自分の形を確かめるみたいに鏡を見てるんです。たぶん、一番難しいところだからだと思うんですけど……画面越しに見てる人からすると、最後の最後で目が合わなくなっちゃうので」
玲は黙ったまま、自分のスマートフォンで今の映像を再生した。
最後の八カウントを、もう一度。それから、もう一度。
「……本当だ。無意識だった」
ぽつりと呟いてから、玲は画面から顔を上げた。
「春さん、そういうとこまで見てるんですね」
感心したように言われて、私は少しだけ照れくさくなった。
――ただ、その言葉を言うときも、やっぱり玲の視線は私の肩のあたりで止まっていた。
(なんで今日は、顔を見てくれないんだろう……。私、なんかしちゃったっけ)
◇
ひと通り振りの確認を終えると、私たちは練習室の床に座った。
鏡の前に資料を広げ、間にアイスアメリカーノを二つ置く。どっちがどっちか分かるように、私の分は自分の膝の横にぴったり寄せておいた。
「じゃあ、会議の続き、聞かせてください」
玲はカップを置いて、少し考えるように天井を見た。
「この前、王道っぽい曲の方がいいって言ったじゃないですか。それで考えたんですけど……振りも、先生にもらった通りにやるだけじゃなくて、サビに一個、誰でも真似できる振りを入れたいなって」
「真似できる振り、ですか?」
「はい。まだ持ち曲は少ないけど……俺らの振りって、ちょっと難しいんですよ。見てる人が『踊ってみたい』って思っても、たぶん途中で諦める。だから、サビの頭だけでいいから、手だけでできるやつとか、座ったままでもできるやつを入れたくて。ライブで客席の人が一緒にやれたら、絶対楽しいと思うし」
思わず、息をのんだ。
元の世界で、数年後にLYRENを一気に広めたのは、まさに「真似したくなるダンス動画」だった。誰かが真似して、その動画をまた誰かが真似して、気づけばLYRENを知らない人まで踊っていた。
まだ誰もそんな未来を知らないはずの今、玲が同じ答えにたどり着いている。
(でも、元の世界の玲って、振り付けまでやってたっけ……?)
思い返してみても、そんな話は聞いたことがない。もしかしたら、ファンが知らないところで振りのアイデアを出していたのかもしれないけれど。
(未来を知ってるわけでも、マーケティングを勉強したわけでもないのに)
玲は、才能でそこにたどり着く人なんだ。
理屈より先に、見る人が何を楽しいと思うかを、身体で分かっている。
「……すごくいいと思います。先生に提案する前に、どんな振りか一回作ってみませんか?」
「もう、ちょっと考えてあります」
玲はそう言うと立ち上がり、スマートフォンでサビの部分だけを流した。
両手を胸の前で軽く交差させて、音に合わせてぱっと開く。そのまま片手を横へ流して、最後に指先で小さく前を指す。たった四カウントの、シンプルな動きだった。
「こんな感じ。これなら誰でもできるかなって」
「たしかに。手だけですもんね」
「じゃあ、春さんやってみてください」
「……え?」
「本当に誰でもできるか、確かめないと」
当然のように言われて、私は床から立ち上がった。
ダンスなんて、学生時代の体育以来だ。でも、手だけの振りなら何とかなるはずだ。それにこの曲なら知っている。元の世界で、それこそ何百回と聴いた曲だ。
(イントロも、サビの入りも、全部分かる。大丈夫。――ただ、今玲さんが見せてくれた振りは、元の世界にはなかった)
元の世界のこの曲には、振り付けがなかった。ライブでは、メンバーが歌いながら客席を回るだけ。ファンはサビに合わせて、ペンライトを頭の上で大きく左右に振るのがお決まりだった。
玲が曲を流す。
サビの入り。私は自信満々に、両手を胸の前で――。
「……あれ?」
交差させるはずだった両手が、なぜか頭の上で左右に揺れていた。
耳が知っているサビのリズムに、身体が勝手に、元の世界で何十回と振ってきたペンライトの動きをなぞっている。けれど今この部屋で求められているのは、まったく別の振りだ。
慌てて手を下ろすと、今度は開くタイミングが半拍遅れた。最後の指差しは、誰もいない壁の隅を指していた。
「…………」
「…………」
曲だけが、何事もなかったかのように二番へ進んでいく。
「ち、違うんです! 私、本当にダンスが苦手で! 私が壊滅的に下手なだけなので、普通の方ならすぐ踊れると思います。だから、今のは参考にしないでください」
「……ダンス、苦手なんですね」
「!」
今日一日、一度もまともに合わなかった目が、まっすぐ私の顔に向いて、少しだけ細められた。
「春さんって」
「は、はい」
「いつも何でもちゃんとしてるのに、苦手なこともあるんですね。……初めて知った」
そこで、ほんの少しだけ、玲の口元がゆるんだ。
「かわいいですね」
――え。
整った顔立ちの十九歳にさらりとそう言われて、頭の中が一瞬で真っ白になった。
さっきまで踊れなかった振りのことも、元の世界のペンライトのことも、全部どこかへ飛んでいく。
「し、仕事中にそういうこと言わないでください!」
「じゃあ、仕事として言いますけど……誰でも真似できる振りを作ったつもりだったんで、春さんでも踊れるくらい、もうちょっと簡単にします」
「それはそれで、なんか失礼じゃないですか……!? あと、私のダンスの実力は最低ラインなので、本当に参考にしないでください!」
玲はそれには答えず、少しだけ微笑んで、またスマートフォンを手に取り、曲を最初に戻した。
何事もなかったかのように鏡の前に立つ。その横顔は、いつもの無表情に戻っていた。
私は床に置いた自分のアイスアメリカーノを手に取り、ストローをくわえた。
氷がほとんど溶けて、すっかり薄くなっている。
(……かわいいとか、ファンの人にも自分から言う人だったっけ? なんにしても、心臓に悪すぎる)




