36. 順番待ち
八月に入ると、メンバーそれぞれの仕事が一気に動き出した。
この前の誕生日配信がきっかけで、優の一人配信は月に一度の定例になった。凪の演技レッスンは週二回に増え、瑛は「人に聴かせられるところまでできた」という曲を抱えている。定例企画会議も三回目を迎え、麗央の進行はすっかり板についてきた。
(全員、ちゃんと前に進んでる)
未来で八年間追いかけていた人たちが、目の前でそれぞれの「やりたいこと」に手を伸ばしている。マネージャーとしても、元ファンとしても、こんなに嬉しいことはない。
◇
「春さん、次の配信なんすけど、コメント読む係やってくれません?」
月曜日。会社のデスクで配信の資料を広げていると、隣の椅子に腰を下ろした優が声をかけてきた。
「私がですか? 出ませんよ、私は」
「声だけでいいんで! 『優くん、次のコメントです』って。アシスタント的な」
「それ、ファンの方に絶対『今の女の人誰?』って言われるやつです。女性スタッフの声は一言でも入らない方がいいんですよ」
「えー、春さんの声、聞き取りやすいし絶対いけるのに」
椅子ごと距離を詰められ肩が触れそうになる。優はいつもこうだ。誰に対しても距離が近くて、それがまったく嫌味にならない。人懐っこい大型犬みたいな人だと思う。
「俺、春さんが横にいると喋りやすいんですよね。この前もそうだったし」
「……それは、マネージャーとしてはありがたいんですけど」
「優」
名前を呼ぶ声に振り向くと、玲が通りかかったところだった。手にはペットボトルの水。レッスン着の首元に、まだ汗が残っている。
「資料、春さんが見えないでしょ」
「あ、ごめんごめん」
優が椅子を戻すと、玲はそれ以上何も言わずに、そのまま廊下の奥へ歩いていった。
振り返りもしない。いつもどおりの、淡々とした背中だった。
(……びっくりした)
実際、優の腕は進行表の半分を隠していた。玲は正しいことを言っただけだ。
私は何でもない顔を保ちながら、資料を自分のもとに引き寄せた。
◇
火曜日の夜は、凪の演技レッスンの送迎だった。
「春さん、ちょっと練習付き合ってもらえません?」
帰りの車の中、信号待ちで、助手席の凪が台本のコピーを広げた。
「いいですよ。どんなシーンですか?」
「同じ部活の先輩に、告白するシーンです」
「……ちょっと待ってください、運転中です」
「信号赤じゃないですか! 春さんは先輩役なんで、一言だけでいいです。『何?』って言うだけ」
断る理由を探しているうちに凪が台本から顔を上げた。
さっきまで「コンビニの新作アイス、絶対二個買いしたい」と熱弁していた顔が、ふっと消える。
「――ずっと、先輩のことが好きでした」
車内が一瞬、静まりかえった。
十八歳の、まっすぐな目。声もほんの少し震えていて、本当に誰かへ想いを伝えているように聞こえる。
「……な、何?」
「あっ春さん、台詞の順番的にまだ俺の番です」
「あっ」
「あと、顔めっちゃ赤い」
「赤くないです!信号変わりました!」
アクセルを踏む私の横で、凪がお腹を抱えて笑っている。
(……でも、すごかった)
オーディションに落ちてからまだ一か月ほどだ。その間に、凪は台詞を「言う」から「伝える」へ変えてきている。未来で俳優として花開く人の、最初の芽を見た気がした。
「今の、先生にもやって見せてください。絶対褒められますよ」
「やった。じゃあ春さん、これからも練習付き合ってください!」
「え、私でいいんですか? 先生とかメンバーの方が」
「春さんとやるのが一番楽しそうなんで! あと、リアクションが面白いし」
「……最後のは余計です」
◇
水曜日。レッスン後の空いた練習室で、瑛がノートパソコンを開いていた。
「これです」
差し出されたのは、片方だけのイヤホンだった。
瑛がもう片方を自分の耳に入れているので、私も受け取って右耳につける。コードの長さの分だけ自然と肩が寄った。
流れてきたのは、ピアノと、仮歌の瑛の声だった。
派手なメロディではない。けれど、サビの手前で一度音が引いて、そこから静かに広がっていく。夜道で、遠くに家の明かりが見えたときみたいな曲だった。
「……どうですか」
曲が終わると、瑛はこちらを見ずに聞いた。
「好きです。サビの前で一回音が減るところとかすごくいいです。あそこで息を止めて聴いちゃいました」
「……そこ、一番迷ったところです」
「あと、二番のAメロだけ言葉が少し詰まって聞こえました。歌詞が多いのかも」
言ってから、しまったと思った。
前に瑛とは、曲の切り取り方で衝突したことがある。作った本人に勝手な意見を言いすぎたかもしれない。
けれど瑛は、少しだけ口元を緩めた。
「あ、やっぱそうですよね。俺もなんとなく、そうかなって思ってて」
「え?」
「春さん、いいとこだけ言う人じゃないから。聞いてもらってよかったです。……二番、直します」
その言葉が、思っていたよりずっと嬉しかった。
前はぶつかってしまった相手が、今は自分から曲を聴かせてくれている。それだけで、この数か月が少し報われた気がした。
(最初は、瑛とは信頼関係を作れないんじゃないかってヒヤヒヤしてたけど……本当によかった)
◇
木曜日の定例企画会議は、いつも以上に賑やかだった。
ホワイトボードには今日のテーマが書かれている。
【テーマ:次のリリースのコンセプト】
「じゃあ、春さんから」
「はい。今のLYRENの強みは、ダンスの精度と、五人の仲の良さだと思っていて。なので、コンセプトの候補を三つ考えてきました。一つ目が――」
「洋楽っぽい曲で、オシャレなパフォーマンス路線に振り切る、ですよね」
言い終わる前に、麗央が資料の一枚目を指で叩いた。
「そうです。それで二つ目が――」
「五人の関係性を前に出す。MVもメイキングも『わちゃわちゃ』込みで見せる」
「……はい、そうです」
「で、三つ目が、二つの折衷案」
「麗央さん、私の資料、私より読み込んでません?」
「前の日に送ってくれたじゃないですか。寝る前に読みました」
さらっと言われて、思わず笑ってしまう。
資料を前日に送っておいたとはいえ、相変わらず理解が早い。話していて楽なのは、麗央が私と同い年だからだろうか。打ち合わせのテンポが合う感覚は、広告代理店で働いていた頃、気の合う先輩と企画を詰めていたときに少し似ている。
「てか、二人の会話速すぎません?」
優が頬杖をついて言った。
「夫婦漫才みたいなテンポですよね」
「優」
「褒めてるじゃん! ね、凪」
「うん、なんか熟年夫婦っぽい」
「おい、俺も春さんもまだ二十二だぞ」
凪まで乗っかって、会議室に笑いが起きる。麗央は苦笑し、瑛は興味なさそうにペンを回している。
私もつられて笑いながら、ふと視線を感じた。
玲が、机に頬杖をついたまま、何の表情も浮かべずにこちらを見ていた。
(……なんか、機嫌悪い?)
目が合うと、玲は一拍も置かずに、何事もなかったかのようにホワイトボードへ視線を戻した。そして、そのまま口を開く。
「一つ、いいですか」
笑いがすっと引いて、全員の目が玲へ向く。
「洋楽っぽい路線も分かるんですけど。俺らのファンの方って、やっぱり日本のアイドルらしさを求めてくれてると思うんですよ。だったら、オシャレな曲よりJ-POPっぽい王道の要素があった方がいい。カラオケでみんなが歌いやすいような」
「王道?」
優が意外そうに聞き返す。
「うん。ダンスはどんな振りでも精度を上げるけど、曲まで尖らせなくていいと思う」
会議室が一瞬静かになった。
(……確かに。これから先、日本ではK-POPグループがますます存在感を増していく。コロナ禍の頃には韓国式のオーディション番組だって大きな話題になる。そういうグループと並んだときに、はっきり差別化できるポイントがあった方がいい)
ダンスで目を引いて、メロディで覚えてもらう。テレビの音楽番組でもカラオケでも、まだLYRENを知らない人のところまで届かせる仕組みをつくる。
「……本当に、その通りですね」
思わず声に出すと、玲は「だから、コンセプトが変わっても、俺ららしい曲の特徴はぶらさない方がいい」とだけ言って、また椅子に背を預けた。得意げな顔ひとつしない。
(玲は、未来を知っているわけじゃないのに。こういうところ、本当に頭いいんだよなぁ。自分たちを客観的に見れているというか)
◇
会議のあと、私は会議室に残って週報をまとめていた。
佐伯さんに出すためのメンバーごとの対応記録だ。誰と何を話し、何が決まり、次に何をするのか。広告代理店にいた頃、クライアントごとに同じ記録をつけていた癖で入社してからも毎週欠かさず書いている。
麗央とは、定例会議の進行と、次のリリースのコンセプト整理。
優とは、定例配信の打ち合わせ。
瑛とは、新曲のデモ確認。
凪とは、演技レッスンの送迎と、車の中での台詞練習。
四人分を打ち終えて、次の名前のところで、キーボードの上の指が止まった。
(……玲と、今週ほとんど話せてない)
理由ははっきりしている。今週は四人の予定が重なっていた。
それに玲は、自分から仕事の悩みを相談しに来るタイプではない。困ったことがあっても、自主練の量を増やして一人で片づけてしまう。だから、手がかからない。
――と、そこまで考えて、歓迎会の夜の言葉がふと浮かんだ。
『春さんと飲みに行って、仕事の愚痴とか聞いてみたいので』
(……いや! 私が聞いてもらう側になってどうするの!)
担当マネージャーが、担当メンバーに愚痴を聞いてもらうなんて本末転倒だ。私は頭の中の玲の声を、急いで追い払った。
それに、本当のことを言えば、理由はもう一つある。
用事がないとき、私は自分から玲に話しかけていない。優や凪には雑談のついでに声をかけられるのに、玲が相手だと、話しかける前に一度「仕事の用件があるか」を確かめてしまう。元ファンとしての線引きのつもりだった。
(でも、それで一番話さなくなってたら意味がない)
玲を二十七歳で死なせないために、私はここにいる。手がかからない人ほど、何を抱えているのか見えにくい。だったら、用件なんてなくても、話す時間は作っておかなきゃいけない。
私はスマートフォンを取り出し、玲とのトーク画面を開いた。
『玲さん、今週どこかで三十分ほど時間をいただけませんか。最近ちゃんとお話しできていなかったので――』
そこまで打ったところで、扉が開く音がした。
「春さん」
顔を上げると、玲が立っていた。
黒いキャップを被り、片方の肩にだけ鞄をかけている。表情は、いつもどおり何も読めない。
「いつでも大丈夫なんで、俺に時間ください」
「……え」
「新しい振り、外から見てほしいのと。あと次のアルバムのことで。今日の話、まだ言い足りないことあるんで」
用件だけを、淡々と。スマートフォンの画面には、送信ボタンを押す前の文章がそのまま残っている。
「あの、ちょうど今、私からもお願いしようと思ってて」
画面を見せると、玲は一瞬だけそれに目を落とした。
「……じゃあ、先に言えてよかったです」
声の温度は変わらない。けれど、言われた私の方は、どこに目をやればいいのか分からなくなった。
「優さんの配信と、凪さんの送迎と、瑛さんの曲と、麗央さんとの会議の準備が重なってて……今週、玲さんとはあんまり話せてませんでしたよね」
「そうですね。月曜が優の配信の打ち合わせで、火曜が凪のレッスン。水曜は瑛の曲聴いてて、今日は麗央と夫婦漫才」
「夫婦漫才はしてないです……!」
「優が言ってた」
全部、正確だった。一度会った人の顔を忘れない玲が、私の一週間を当たり前のように覚えている。
「別に、拗ねてないですよ」
「!」
玲は表情ひとつ変えずに、続けた。
「順番待ちしてただけなんで」
(ま、待っててくれたんだ.....)
「金曜の夜、自主練のあとでお願いできれば」
玲はそれだけ確認すると、「お疲れさまです」と軽く頭を下げて、会議室を出ていった。
「…………」
扉が閉まっても、しばらく固まって動けなかった。
ダンスの確認と、次のリリースの話し合い。
ごく普通の業務だ。今週、優とも凪とも瑛とも麗央とも、二人で何時間も仕事をしてきた。そのどれとも変わらないはずなのに、さっきから心臓の音だけがやけにうるさい。
(……仕事なのに。玲にだけこうなっちゃだめなのに)
◇
エレベーターホールでは、麗央が壁にもたれてスマートフォンを見ていた。
玲が来たのに気づくと画面から顔を上げる。
「遅かったな」
「ちょっと話してた」
「誰と?」
「分かってて聞くなよ」
麗央は笑って、下行きのボタンを押した。
「玲、お前さ……」




