34. 二十歳になったら
食事がひと段落したところで、麗央が壁の時計を見上げ、「そろそろ行かないと」と声をかけた。
四人のメンバーはこのあと、別のスタジオで夜のダンスレッスンを受けることになっていた。昼間に受けた会社のレッスンとは別に、希望するメンバーが申し込んだクラスで、私も佐伯さんと一緒に予定を確認していたものだ。
鞄を持ち始めた優たちを見て、私も片付けようと立ち上がったけれど、先に空いた容器を重ねていた玲から「春さんはそのままでいいです」と言われる。
「でも、これ全部一人だと大変じゃないですか?」
「準備は俺らがやったので、最後は玲の担当なんです」
代わりに答えたのは麗央だった。
店を探して注文をまとめたのが優と凪、ラウンジの利用を相談して時間を押さえたのが麗央で、皿やカップを揃えてテーブルを整えたのは、主に瑛だったらしい。
「玲も最初はレッスン行くって言ってたんですけど、今週もう十分行ってるんで。今日くらい追加で受けないで片付けして帰って休めって話になりました」
「別に、片付けは元々俺がやるって言ったでしょ」
「じゃあ、終わってからやっぱり行こうとか思わないでちゃんと帰ってね」
麗央に念を押され、玲は「分かってる」と返しながら寿司桶の蓋を重ねた。
今日も昼間は五人で練習していたし、玲が今週すでに何度も外部のレッスンへ行っていることは、私も知っている。好きで続けていることを何でも止めるつもりはないけれど、今夜もう一つ予定を増やさずに帰ることには少し安心した。
「春さんも、玲に全部任せていいですからね。今日くらいは」
「...承知です。皆さん、今日は本当にありがとうございました。レッスン気をつけて行ってきてくださいね」
そう伝えると、凪が「今日楽しかったから、またみんなで食べましょうね」と笑いながらふわふわした声で言った。
(...危ない。末っ子の可愛さにやられるとこだった)
優が忘れかけていたスマートフォンを取りに戻り、瑛が空の袋を一つまとめてから、四人は連れ立ってラウンジを出ていく。廊下を遠ざかっていく声が聞こえなくなると、さっきまでの賑やかさが急になくなり、私は手元に残ったお茶へ目を落とした。
玲はもう片付けを始めていた。
店へ返す寿司桶をまとめ、空の容器や包みを分け、使った取り皿を端へ寄せていく。動きに迷いはないけれど、六人分の食事のあとには思っていた以上に細かなものが残っていて、これを眺めながら一人で座っているのはやっぱり落ち着かなかった。
私は玲が向こうを向いた隙に、自分のカップを持って立ち上がった。ついでに近くの取り皿を重ねていると、すぐに気づかれる。
「置いといていいですよ。俺、やるので」
「でも自分の使ったものくらいは片付けさせてください。もう十分歓迎してもらいましたし...何より座って見てる方が気になっちゃうので」
玲は私の手元を一度見てから、少しだけ笑った。
「麗央に言ったら、やっぱりって言われそう」
「言わないでください。こっそり手伝うので」
そう返すと、玲はそれ以上は止めずに重ねていた皿を持ち上げやすいようにこちらへ寄せてくれた。
ラウンジの脇にある小さな流しへ運び、玲が洗ったカップを私が拭いていく。さっきまで六人で話していたのが嘘のように静かで、水の流れる音と食器を置く小さな音だけが近くに聞こえていた。
何か話した方がいいのかもしれないと思いながらも、歓迎会のお礼は何度も言ったばかりだし、さっき泣いてしまったことを改めて説明するのも違う気がする。結局、私は布巾でカップの底を拭きながら玲の横で黙って手を動かしていた。
「春さん、彼氏いるんですか?」
あまりにも前触れのない質問に、拭き終えたカップを棚へ戻そうとしていた手が止まった。
「……え?」
聞き間違いかと思って顔を向けても、玲はいつもと変わらない様子で最後の取り皿をすすいでいる。
「いるのかなと思って」
「い、いないですけど……どうして急に?」
玲は水を止め、皿についた水を切ってからこちらへ差し出した。
「春さん、仕事してる時間が長いから。レッスンの休憩中も何か書いてるし、俺らが帰るときも一緒に帰らず残ってることあるじゃないですか。家でも仕事のこと考えてそうだから、彼氏いたら、いつ会ってるんだろうと思って」
「ああ……そういうことですか」
そういうこと、と自分で返したものの、急に恋人の有無を聞かれた動揺はすぐには収まらなかった。
付き合っている人はいない。今の二十二歳の私にも、一周目で三十歳になるまで働いていた私にも。
(というか、三十路でも恋がどういうものか恥ずかしながらよく分かんなかった)
朝陽と別れたあと、仕事に慣れるので精一杯だった時期を過ぎても新しく誰かと付き合うことはなかった。友達に紹介してもらう機会がまったくなかったわけではないけれど、その頃には玲を応援する楽しさを知っていて、休みが取れればライブへ行き、帰宅すれば見逃していた動画を見ていた。
仕事も忙しかったし楽しみにしている予定もあったから、恋人がいないことをそれほど寂しいとは思っていなかった。
(……応援してた人が、今、隣でお皿洗ってるんだけど)
もちろんそんな説明はできないので私は渡された皿を拭きながら、なるべく何でもないことのように笑った。
「いないです。家でも仕事のことを考えながら、一人でお酒飲んでることが多いので気づいたら一日終わっちゃうんですよね」
口にしてから、最近はほとんど飲んでいなかったことを思い出す。
正確には広告代理店で働いていた頃の生活だ。夕飯を食べながらグラスを片手に企画の続きを考えたり、今日の打ち合わせでうまく言えなかったことを思い返したりしているうちに、いつの間にか寝る時間になっている。八年間続けてきた暮らしの方が、今でも先に「普段の自分」として出てきてしまうことがある。
(今はお酒飲むのはあんまりないけど……そうやって過ごしてたのは本当だから、嘘ではない)
「一人で飲むんですか?」
「はい。友達と行くこともありますけど、家だと誰にも気を遣わなくていいので。仕事の考え事とかしてても、そのままでいられますし」
玲は「そうなんですね」と答え、流しの周りに跳ねた水を拭き始めた。
それ以上は聞いてこなかったけれど、私の方はまだ妙に落ち着かない。彼氏がいるかどうか聞かれただけで、どうしてこんなに説明してしまったのだろうと思い、話題を変えるために昼間考えていた仕事を思い出した。
「そうだ、玲さん。優さんの誕生日配信のケーキなんですけど、何味が好きだと思います?」
「優の?」
「はい。当日の七月二十五日の配信で用意しようと思ってて。本人が喜ぶ味を買いたくって!」
玲は布巾を畳み直しながら、少し考えるように目を動かした。
「チーズケーキとか、そういうの好きそうですけどね。コンビニで甘いもの買うときも、そういうの選んでる気がする」
「チーズケーキですか。何となく、チョコとか苺のイメージでした」
「それも食べると思いますけど、迷ったらチーズの方じゃないですか」
「ありがとうございます。プレートを載せてもらえるものがあるか探してみます」
話しながら、最後のカップを棚へ戻した。
こういうことを聞けるのは、やっぱりメンバーなのだと思う。ファンだった頃に知っていた好きな食べ物だけでなく、普段何気なく選んでいるものを隣で見ている人が覚えている。
ようやくいつもの仕事の調子に戻れた気がし、使った布巾をすすごうとしたところで玲がこちらを見た。
「俺の誕生日も覚えてます?」
「十月二十八日ですよね」
考えるより先に答えが出て、玲が少しだけ目を細めた。
「早いですね」
「そ、それは担当なので。皆さんの誕生日は覚えてますよ」
実際にはマネージャーになるずっと前から、毎年予定を気にしていた日だ。けれど、そこまで知っていることに不自然さはないはずだと自分へ言い聞かせながら私は布巾を絞った。
「俺、そこで二十歳になるんで。そうしたら一緒に仕事の話しながら飲みに行きませんか。俺がご馳走します」
「……へ?」
絞り終えた布巾を握ったまま、玲を見る。
彼は何でもないことを提案したような顔で、さっきまで使っていた取り皿の枚数を確かめていた。私の返事を待つ間にも、一枚だけ向きの違っていた皿を揃えている。
「飲みに、ですか?」
「はい。二十歳になってからですけど」
「それは分かりますけど……玲さんの誕生日を迎えるのに私がご馳走になるんですか?」
「この前、体調崩したときに迷惑かけたので。春さんにも、いろいろしてもらったし」
言われて、夏のイベントで壁へ手をついた玲の姿が浮かんだ。
あのときは本当に怖かったけれど、だからといってそのお礼をしてもらいたいわけではない。今日の食事だけでも十分すぎるほどなのに、まだ気にしていたのかと思うと私は慌てて首を振った。
「そんなの、気にしなくていいんです。それは私の仕事ですし、迷惑なんて思ってません。今日だってこんなにしてもらったばかりなのに」
「……まあ、それは誘う理由をつけただけです」
あっさりと言われ、途中まで用意していた言葉が止まった。
玲は皿を棚へ戻すと、今度はきちんとこちらへ顔を向けた。表情はほとんど変わっていないのに、そのせいで、冗談なのかどうかを見分けることもできなかった。
「春さんと飲みに行って、仕事の愚痴とか聞いてみたいので」
「……私の、愚痴?」
「いつも俺らのやりたいこととか、困ってることは聞いてくれるじゃないですか。でも、春さんがどうなのかはあんまり聞いたことないから。一人で飲みながら考えてるなら、たまには話してもいいんじゃないですか」
玲の目は、私が返事をするまで待つつもりなのか、そのままこちらへ向いていた。
仕事の話なら、これまでも何度もしている。企画について意見をもらうこともあったし、どう思うかを聞きたくて私から声をかけたことだってある。
けれど、私自身が仕事で何を感じているのかを聞きたいと言われると、途端に何を答えればいいのか分からなくなった。
「でも、担当してるメンバーに愚痴を聞いてもらうのは、さすがに……」
「言えないことまで聞きたいわけじゃないです。今日は大変だったとか、そのくらいでも。春さん、そういう話もあんまりしないので」
玲はそこまで言ってから、私がまだ布巾を握っていることに気づいたらしく、流しの端を指した。
「それ、もう絞れてますよ」
「あっ……はい」
慌てて布巾を広げながら、自分が何をしていたのかようやく思い出した。
さっきまで彼氏がいない理由を適当に説明して、優のケーキの話へ逃げたつもりだった。それがどうして、玲が二十歳になったら一緒に飲みに行く話になっているのだろう。
しかも誘った本人は落ち着いたままで、私だけが必要以上に慌てている気がする。
(……仕事の話がしたいってことだよね。そう言ってるし)
そう考えようとしても、「誘う理由をつけただけ」という言葉まで思い出してしまうので、どこへ気持ちを置けばいいのか分からなかった。
「そもそも、二人で外へ行くのは会社に確認しないといけませんから。今日だって特別に許可をもらってるので」
「分かってます。だから、会社にもちゃんと相談します」
(ええっ。絶対ダメだって言われると思うけど...)
でも、そう返されるとそれ以上言うことが見つからなくなる。
今日の歓迎会でさえ会社で実施という条件付きで認めてもらったのだ。実際に二人で飲みに行くなんて絶対難しいだろうし、玲だって、そのことは分かっているはずなのに。
「……まずは、二十歳になってから考えましょう」
どうにかそう答えると、玲は小さく頷いた。
「じゃあ、そのときまた誘います」
予定が決まったわけでも、私が行くと答えたわけでもないのに、玲は少しだけ満足そうに見えた。そのままテーブルに残っていた包みをまとめ始めたので、私も隣へ戻り、畳みかけの袋を手に取る。
片付けは、もうほとんど終わっていた。
空いた容器を分け、使った椅子を元の位置へ戻すと、六人で食事をしていた場所は普段と同じラウンジになった。借りた時間にもまだ少し余裕があり、私は佐伯さんへ片付けが済んだことを連絡してから、忘れないうちにケーキの候補をスマートフォンへ書き込んだ。
【優さんの誕生日配信:チーズケーキを確認】
今日の仕事のメモとして必要なのは、それだけだった。
そして、十月のカレンダーを開いてみる。
スマホで二十八日に予定を追加するか迷って、一度何も書かずに画面を閉じた。
(いや、絶対NGになると思うし、とりあえず書かないでいよう)




