26. 推しはじめたきっかけ
季節は少しずつ春から夏へ変わっていった。
入社したばかりの頃は、その日のスケジュールを確認するだけでも妙に緊張していたけれど、さすがに三か月も経てば、仕事の流れも少しずつ分かるようになってきた。
現場へ持っていくものを前日のうちに準備して、移動時間を逆算しながら集合時間を連絡する。取材があれば質問内容を事前に確認し、撮影があれば衣装やヘアメイクの時間を見ながら進行を調整する。自分一人では判断できないことを佐伯さんや会社へ相談する、という当たり前のことも、最初の頃よりずっとスムーズにこなせるようになった。
そして、凪が初めて受けたドラマのオーディションの結果も届いた。
残念ながら結果は不合格で、本人がかなり落ち込むのではないかと心配していたけれど、凪は一度「そっかあ」と肩を落としたあと、
「でも、もっと演技上手くならないと受からないってことですよね。次頑張ります」
と、思っていたよりあっさり前を向いた。
もちろん、本当に悔しくないわけではないのだろう。それでも、私はそこまで心配していなかった。
(うう……未来を知ってるから、凪に「全然大丈夫だよ」って教えてあげたい……)
私が知っている百田凪が、俳優として世間に広く知られるようになるのは、まだずっと先のことだ。
未来から見れば、ある日突然ドラマへ出演して、そこから一気に仕事が増えていったように見える。でも実際には、その前に誰にも知られないところで受けていた演技レッスンがあって、落ちてしまったオーディションがあって、「もっと頑張らなきゃ」と意気込んだ時間が何度も積み重なっている。
(こういう積み重ねが、未来のスターをつくっていくんだな……)
未来で完成した姿だけを見ていた私には、その途中にあったものを何も知らない。
もちろん、それは凪だけではなかった。
◇
七月に入ったある日、LYRENは都内で行われる若手アーティストの合同イベントへ出演することになっていた。
屋外ステージでの出演時間自体は二十分程度しかないものの、朝からリハーサルがあり、そのあとヘアメイクをして、本番後にはWEB媒体用の簡単なコメント撮影も入っているため、現場にいる時間はそれなりに長い。
しかも、その日は朝から雲一つない快晴だった。
会場へ到着した時点ですでに気温はかなり高く、ステージ上には屋根があるとはいえ、客席側から入り込んでくる熱気までは防ぎきれない。裏手に設置された簡易控室にも一応冷房は入っていたけれど、人の出入りが多いせいかほとんど効いている気がせず、私は到着してから何度もメンバーへ水分を取るよう声をかけていた。
「玲さんもこれどうぞ。ちゃんと飲んでくださいね。今日、本当に暑いので」
「……はい」
私が半ば押しつけるように渡したスポーツドリンクを、玲は表情をほとんど変えないまま受け取り、キャップを開けてその場で何口か飲んだ。
玲から外部レッスンの予定を定期的に送ってもらうようになってから、どれくらいの頻度で玲が踊っているのかは、毎回きちんと確認するようにしている。
かなり長い時間をダンスに費やしていても、仕事へ支障が出ていない以上、それ自体を止めることはしていない。本人が好きでやっていることまで管理したいわけではないし、佐伯さんとも相談して、明らかにスケジュールが詰まりすぎているときだけ、無理をしないように声をかける程度にしていた。
そんな中、玲は自分の隣に置いてあった冷却シートを一枚取り、少し離れたところに座っている凪へ投げた。
「凪、それ使えば?」
「え、玲使わないの?」
「もう一個あるから」
凪が嬉しそうに受け取り、首の後ろへシートを当てる。
メンバーたちはよく「玲は本当に周りを見ている」と話しているけれど、三か月一緒にいて、それがどういう意味なのかも少しずつ分かるようになってきた。
優がイヤモニをどこへ置いたか分からなくなれば、何も言われる前に置き場所を教えるし、麗央がスタッフと話している間に集合がかかれば、代わりに声をかけに行く。誰かの飲み物がなくなっていることにもよく気づくし、今日だって凪が暑そうにしていたことには、私より先に気づいていた。
(……でも、この三か月で一つ分かったことがある)
メンバーのことはあれだけよく見ているのに、自分のことになると少し適当なのだ。
◇
いざ本番が始まれば、さっきまでそんなことを考えていたのを一瞬忘れるくらい、玲はいつも通りだった。
まだLYRENを目当てに来た人ばかりではない客席の前へ五人が飛び出し、一曲目が始まる。
強い日差しの下でも、特に玲の動きにはほとんど迷いがない。
スタジオのように照明やカメラで作り込まれた場所ではなくても、身体の角度一つ、視線一つまで綺麗で、同じ振付を五人で踊っているはずなのに自然と目がいく。
(……やっぱりすごいな)
今は、あのダンスがただ生まれ持ったものだけではないことを知っている。
誰もいない練習室で、私には違いも分からないような数秒の振付を何度も繰り返していたことを知っているからこそ、以前なら何となく「ダンスが上手い」で終わっていた一つ一つの動きまで、少し違って見えた。
二十分ほどの出演を終え、五人が肩で息をしながらステージ袖へ戻ってくる。
優が第一声で「暑っ」と叫び、凪も笑いながらタオルを首へかけている。麗央はスタッフへ挨拶をしながら、そのまま控室へ向かっていた。
玲も、最初はいつもと変わらないように見えた。
けれど、裏手の通路へ入ったところで、ほんの少しだけ歩く速度が落ちた。
「玲さん?」
「……はい」
返事は普通だった。
だから気のせいかと思った、その直後、玲が壁へ手をついた。
玲は一度目を閉じてから、「ちょっと立ちくらみしただけで、大したことないです」と言ったけれど、普段と変わらない口調でそう言われたところで、目の前で壁へ手をついた人の「大丈夫」を、そのまま信じる気にはなれなかった。
ましてや、私にとって玲は、八年後に二十七歳で亡くなる人だ。
佐伯さんが他のメンバーを冷房の効いた楽屋へ誘導する間に、私は玲を近くにあった椅子へ座らせ、扇風機を向けながらスタッフの方へ声をかけて、冷たいタオルと飲み物を持ってきてもらった。
(お願いだから、本当に大したことないやつであって……)
本人は本当に大したことではないと思っているらしく、「気持ち悪くもないし、頭も痛くないです」と繰り返していたけれど、昼食について聞いてみれば、おにぎりを半分程度しか食べていないことが分かった。
「朝からあれだけ動いて、お昼がおにぎり半分って少なすぎません?」
「…………」
玲が黙ったので、私はもう何も言わず、目の前のスポーツドリンクを渡した。
玲は少し気まずそうな顔をしながら、今度は素直に飲み始める。
しばらくその場で休み、現場のスタッフにも状態を見てもらったところ、幸い深刻なものではなく、暑さと水分不足や睡眠不足が重なって軽い立ちくらみを起こしたのだろうという話だった。
顔色が少しずつ戻ってくるのを見て、ようやく私も息をつく。
そんな私の横で、玲は冷たいタオルを首へ当てたまま、
「すみません、春さん。……でも、本番終わってからでよかったです」
と、何でもないことのように言った。
「…………」
「途中だったら、みんなにも迷惑かけてたんで」
玲が言いたいことは分かる。
自分が体調を崩したことを軽く考えているというより、本番へ穴を開けずに済んだことに安心しているだけなのだろう。それでも、その言葉が少しだけ引っかかった。
(こういうところが、何か関係してたんだろうか)
一瞬だけ、そんな考えが浮かぶ。
けれど、すぐに打ち消した。
(……いや。今の一回だけで、何でも八年後の死に結びつけるのは違う)
玲が亡くなった理由は分からない。
病気かもしれないし、事故かもしれない。もし自分で命を絶ったのだとしても、それが十九歳の頃から続いていた何か一つだけで説明できるとは限らない。
(……とにかく今は、目の前の玲をちゃんと回復させないと)
◇
二十分ほど休んだ頃には、玲の顔色もかなり戻っていた。
本番後に予定していたWEB媒体用のコメント撮影について、私は一度玲だけ別日にできないか相談したけれど、スタッフの方からは本当に短い撮影だと聞き、本人も「もう大丈夫です」と言う。
少し前までなら、その言葉をそのまま信じていたのかもしれない。でも、ついさっき壁へ手をついていた本人の「大丈夫」だけで判断するのは怖かったので、現場の医療スタッフにも状態を確認してもらい、数分程度なら問題ないだろうということで、少しでも気分が悪くなったらすぐ中断することだけ約束して、撮影へ参加することになった。
(……まだちょっと怖いけど。でも、このインタビューは....私としても出てもらいたいんだよね。これはファンだった私のエゴでしかないかもだけれど....)
イベントのロゴがあしらわれたパネルを背に、五人がカメラと照明の前へ一列に並ぶ。
なるべく玲へ負担をかけないよう、誰が答えてもいい質問には他の四人が積極的に答えてくれていた。
麗央はこの夏にやりたいことを聞かれ、優は最近ハマっているものについて話す。瑛はよく聴いている曲について答え、凪はこれから挑戦してみたい仕事を聞かれると、
「連続ドラマに出たいです!」
と答えた。つい少し前にオーディションへ落ちたばかりなのに、その声にはほとんど迷いがなかった。
(うん。絶対出れるからね)
未来を知っているからではなく、今こうして前を向いている凪を見て、少しだけそう思った。
そして、最後にインタビュアーの視線が玲へ向く。
「桜島さん、今日のダンスもキレキレでしたね。ダンスの一番好きなところって何ですか?」
そう聞かれた玲は、すぐには答えず、少しだけ視線を上へ向けた。
何か格好いい答えを探しているというより、本当に質問の意味を考えながら、自分の中にある言葉を探しているように見えた。
「……何だろう」
小さく呟いたあと、玲が口を開く。
「ダンスって、一人でもできるし、場所さえあればいつでも練習できるじゃないですか。だから、どこまでも際限なく上手くなれる気がするというか……自分の存在ひとつで、できることがどんどん増えていく感じがすごく好きで。もっともっと上手くなりたいと思っています」
(そう、この動画)
その瞬間、周囲の音が一瞬だけ遠くなったような気がした。
目の前にいる十九歳の玲と、もうずっと昔のことになったはずの記憶が重なる。
――二〇一八年の夏。
本来このときの私は、広告代理店へ入社して三か月ほど経ったばかりだった。




