20. 鋭い目が見ているもの
振り返ると、玲が扉のすぐ横に立っていた。黒いパーカーのポケットに片手を入れ、もう片方の手をだらりと下ろしている。前髪の隙間から覗く切れ長の目はまっすぐ私へ向けられていて、何となく逃げ道を塞がれたような気持ちになる。
「すみません大きな声出して。てっきり、みんなと一緒に行ったかと思ってました!」
「....忘れ物取りに戻ってきました」
玲が机の端に置かれていたスマートフォンを持ち上げる。
「あ、本当だ。忘れ物するんですね。なんか意外」
「……忘れ物くらいしますよ。人間なんで」
「あ、いや。なんとなく玲さん、しっかりしてるイメージだったので……」
そう言いながら資料を鞄へ入れようとして、ふと気づく。
スマートフォンを取ったのに、玲は動かなかった。
「……何かありました?」
「さっき」
玲が少しだけ眉を寄せる。
何かを考えたり、確かめたりするときにする顔だと、この数日で何となく分かるようになってきた。
「何かあったでしょ」
「え?」
「グループ名の由来の話してたとき」
心臓が少しだけ跳ねる。
「……何もないですよ。ちょっとぼーっとしただけです」
「嘘」
間髪入れずに返ってくる。
「というか、前からちょっと気になってることもあって」
(え、何々。怖い)
仕事中はちゃんと推しを封印して、担当アーティストとして接しているつもりだった。少なくとも、入社初日に比べればかなり普通に話せるようになってきたはずだ。
「春さんって、俺のこと見るとき、やっぱりたまに変な顔しますよね?……なんか、すごく悲しそうな顔っていうか」
玲はそこで一度言葉を切り、私の顔をじっと見る。
「俺見ながら、泣き出しそうな顔するときある」
息が止まった。
「え……」
「俺、何かしましたっけ?」
「してないです!」
思わず強く否定した。
「玲さんは何もしてないです。絶対」
「でも俺、最初に会ったときも『前に仕事したことありますっけ』って聞きましたよね」
「聞かれましたけど……」
「やっぱり、どうしてもどっかで会ったことある気がするんですよね。なのに、何も思い出せなくて。俺記憶力いい方ではあるんだけど....」
玲は記憶の中を探るように、わずかに目を細める。
「もし本当に会ってたなら、そのとき俺、何か失礼なことしました?」
「いやいやいや! 会ったことないです!」
慌てて両手をぶんぶん振る。
その動きを止めるように、玲の手が伸びた。
「!」
片方の手首を軽く掴まれる。手首を包む指先の温度が、やけにはっきり分かる。
十九歳にしては整いすぎている顔が、思っていたよりずっと近い。少し切れ長の目が、逃げることを許さないみたいに真っ直ぐこちらを見ている。
(ひええええええ、ちょっと待って。無理無理無理。推しとこの距離は無理!)
「ちょ、ちょっと待ってください! 本当に人違いです!」
「じゃあ、何で俺見るときだけ時々そんな顔するんですか」
問い詰めるような強さはない静かな声だった。むしろ本人も本当に理由が分からなくて、それを知りたがっているように聞こえる。
(...あなたが死んだから)
そんなこと、言えるはずがない。
二十七歳の玲がいなくなった朝のことを、私はまだ鮮明に覚えている。ニュースサイトに並んだ写真も、SNSに溢れた言葉も、その後四人になったLYRENも。
それを知っている私が十九歳の玲を見れば、知らないうちにそんな顔をしてしまうことがあるのかもしれない。
「……すみません! 本当に。そういう顔してる自覚なくて……!」
玲は何も言わなかった。私の手首を掴んだまま、しばらくこちらを見ている。
それから、何かを諦めたように小さく息を吐いた。
「そういう顔されるの、嫌っていうより……」
言葉を探すように少しだけ視線を逸らし、ようやく私の手を離す。
離れたところだけ、急に空気が冷たくなった気がした。
「なんか、気になるんですよね」
胸が、また大きく鳴った。
「…………気になる?」
「いや、俺自身もなんかよく分かんないですけど」
「ああ、いや、私のせいですよね。すみません!以後気をつけます」
別の意味に受け取りかけた自分が恥ずかしくて、私は慌てて視線を逸らした。
「……俺のこと、嫌いですか?」
「ひえっ!?」
今度は、自分でも分かるくらい声が裏返った。
「何でそうなるんですか!?」
「だって、俺と話すときだけ何となく態度違うし、たまに悲しそうな顔するし」
「嫌いなわけないじゃないですか! 好きですよ!!」
反射的に答えてから、はっとする。
玲も一瞬、目を丸くした。
「…………」
「…………」
会議室に、妙な沈黙が落ちた。
(待って。いや、大丈夫。大丈夫なはず)
マネージャーとしてなら、「好きですよ」は別におかしくない。担当アーティストなのだから当然だ。
なのに、なぜか顔が熱い。
「……あの、まだ新人ですけど、もちろん担当してるみなさんのことは全員、大事に思ってて――」
「分かってます」
玲が途中で遮った。切れ長の目がゆっくり細まり、その口元が少しずつ緩んでいく。
「すみません。なんか言わせちゃいましたね」
「…………玲さん、揶揄ってます?」
「別に」
そう言いながら、玲が笑う。
その笑い声が、誰もいなくなった会議室に妙に近く響いた。
私は顔が熱くなったまま、机の上の資料を勢いよく鞄へ押し込む。
「やっぱり、人違いじゃない気がするんですけどね」
「ちょっと、まだ言うんですか!?」
「ずっと引っかかってたんで」
玲は手の中のスマートフォンへちらりと視線を落とし、それからまた私を見る。
「まあ、嫌われてないならよかったです。スマホ忘れてきた甲斐がありました」
「えっ」
玲はそれ以上説明するつもりはないらしく、スマートフォンをパーカーのポケットへ入れた。
「今日、みんなで飯行くんです。待たせてるんで、もう行きますね」
「あ、はい……お疲れさまでした」
言いたいことだけ言って、玲はさっと会議室を出ていった。
「…………」
扉が閉まる。 その音がしてからもしばらく、私は動けなかった。
さっき掴まれていた手首が、まだ少しだけ熱い気がする。
(……推しが生きてるだけでいいって思ってたのに)
それなのに、こんなふうに私だけを見て、距離を詰めて、笑われると、心臓がうるさくなる。
これは元ファンだからだ。八年間推しだった人だから。
今まで画面の向こうにいた人が、突然こんな近くにいるから。
(いきなり距離が近くなったせいで、身体が勘違いしているだけ。中身は三十歳なこと忘れちゃだめだ自分!)




