第1章 9
週が明けた月曜日、教室に入るとアリスはもう席にいる。
「おはよう、凛」
「おはよう。ちゃんと起きられたんだ」
「どういう意味?」
「昨日あんなに寝てたから」
私が帰る前から眠そうだったくせに、私が帰ったあとも昼寝をしたらしい。アリスは「休日だからいいの」と言いながら教科書を出す。土曜日から日曜日にかけてずっと一緒にいたのに、月曜日になればまた普通に学校で顔を合わせる。そのことを妙に感じたけれど、嫌ではなかった。むしろ、週末が終わってしまった感じがあまりしない。
1限目が始まる前、桐谷が教室に入ってきた。自分の席へ向かう途中で私の机に手をつき、「凛、英語の宿題やった?」と聞いてくる。
「やったよ」
「3番だけ見せてくれよ」
「やだ」
「まだ何も言ってねえだろ」
「3番だけ見せてって言ったじゃん」
「細けえなあ」
隣で教科書を開いていたアリスが笑う。「桐谷くん、せめて分からないところを聞いた方がいいんじゃない?」と助け舟を出すと、桐谷は「白石は優しいな。それに比べて凛は――」とわざとらしく言葉を切った。
「聞こえてるよ」
「何も言ってねえって」
桐谷は笑いながら自分の席へ戻っていく。アリスがその背中を見送ってから私を見る。
「仲いいよね」
「誰と誰が?」
「凛と桐谷くん」
「今のを見てそう思うなら、アリスは人を見る目を鍛えた方がいいね」
アリスはまた笑った。
昼休みもいつも通り、机を寄せて二人で弁当を食べる。アリスの弁当には卵焼きとウインナー、野菜、それから見覚えのある冷凍食品がきれいに詰めてある。料理が趣味というわけではないけれど、簡単なものなら普通に作れるし、弁当も自分で用意することが多いらしい。
「今日の卵焼ききれいだね」
「でしょ。朝から頑張りました」
「他は?」
「私が自分の手で冷凍庫から出しました」
「そこ威張るところ?」
「電子レンジのボタンも押したよ」
「偉い偉い」
「雑」
口では文句を言いながら、アリスは楽しそうだ。前に、見た目だけなら料理なんて全部誰かに作ってもらっていそうだと言ったら、「どういう偏見?」と怒られたことがある。
「凛、卵焼きいる?」
「いる」
「返事早いね」
「さっき褒めたからね」
「褒めたら1個もらえる制度なの?」
「今日から」
差し出された卵焼きをもらう。少し甘い。「どう?」と聞かれて「おいしい」と答えると、アリスは満足そうに頷き、そのまま自分の弁当もきれいに食べ終えた。
放課後は二人で駅前のレンタルショップへ寄る。週末に借りた映画を返すためだ。返却ボックスへケースを入れたあとも、アリスは恋愛映画の主人公についてまだ文句を言っている。
「絶対もっと早く言えたと思うんだよね」
「まだ言ってるの?」
「だって高校卒業しても待たせるんだよ?」
「返しに来てまで言う?」
「まだ納得してないもん」
「じゃあ次はアリスが脚本を書けば」
そう言うと、アリスは「書こうかな」と笑った。
「たぶん、その脚本の主人公は1時間くらいで告白する」
「それでいいの」
「映画終わっちゃうじゃん」
「でも分かりやすいでしょ」
店を出てもそんな話をしながら一緒に帰る。週末に映画を観て、泊まって、月曜日になったら学校へ来て、また一緒に帰る。アリスはよく笑っているし、私も昨日の続きみたいな1日を気に入っていた。
翌日の火曜日も、昼までは同じような流れだった。アリスは授業中に指名されれば普通に答え、昼休みになれば弁当を食べる。昨日よりひと回り大きな弁当箱だったけれど、それもきれいに空になった。
変わったのは放課後だった。帰る準備をしていると、桐谷がアリスの机の前で立ち止まる。
「白石、ちょっと話せる?」
アリスが顔を上げる。
「私?」
「ああ。ちょっと聞きたいことがあるんだ」
桐谷はそう言って廊下の方を見る。教室の中で済ませる話ではないらしい。アリスはその視線を追ったあと、一度だけ私を見た。
「……待っててくれる?」
「いいよ」
アリスは鞄を机に残したまま、桐谷と教室を出ていく。二人は廊下の窓際で立ち止まった。教室から姿は見えるけれど、話の内容までは聞こえない。通りかかる生徒もいるから完全に二人きりではないけれど、わざわざ場所を移したのだから、人に聞かれたくない話なのだろう。
私は読みかけの本を開いた。何行か読んでは廊下を見て、また同じ行へ戻る。
桐谷は私にはくだらないことばかりなのに、アリスとはずいぶん話すことがあるらしい。思い切って帰ってしまおうか。けれど、アリスは待っていてと言ったし、私も一緒に帰るつもりだった。帰る理由はない。それでも、二人が長く話しているのはなんとなく面白くなかった。
結局、本はほとんど進まなかった。しばらくして桐谷だけが先に廊下を歩いていき、やがてアリスが教室へ戻ってくる。私は本を開いたままにしていた。
アリスは自分のリュックを取ると、すぐには背負わず、机の横に立ったまま私を見る。
「……何話してたか、気になる?」
そこで本から顔を上げた。
「少しはね」
「相談されたの」
「相談?」
アリスは頷いた。それ以上は続けない。相談の内容を本人の許可なく話さないのは普通だし、私も聞こうとは思わなかった。わざわざ聞かなくても、何について相談されたのかはおおよそ分かっている。
私は本を閉じてリュックへしまう。
「帰ろっか」
「うん」
立ち上がったところで、アリスが私の顔を覗き込んだ。
「凛、機嫌悪い?」
「悪くないよ」
「今の言い方、機嫌悪い人だよ」
「桐谷が長いんだよ」
思ったことをそのまま言うと、アリスの目が丸くなる。
「私じゃなくて桐谷くんに怒るんだ」
「怒ってないって」
アリスは小さく笑った。それを見たら、さっきまで面白くないと思っていたことまでどうでもよくなった。
教室を出て、一緒に帰る。学校を出たところでアリスが今日の授業の話をして、私が返す。帰り道で見つけた犬をアリスが目で追い、飼うなら何がいいかなんて話もする。いつもと同じはずなのに、途中からアリスが黙る時間が長くなった。
「疲れた?」
聞くと、アリスは一瞬だけ考えてから首を振る。
「ううん。大丈夫」
「ならいいけど」
「凛、心配性だね」
「そうかな」
「私に対しては」
その言い方が引っかかったけれど、アリスはすぐ別の話を始めた。家の近くまで来るころには、いつもの笑顔に戻っていた。
水曜日の昼休み。私が弁当を食べ終わっても、アリスはまだ箸を動かしていた。昨日までなら同じくらいに食べ終わっている。
「今日遅いね」
声をかけると、アリスは自分の弁当箱を見た。
「そう?」
「私もう食べ終わったよ」
「凛が早かったんじゃない?」
「いつもと一緒だよ」
「じゃあ、今日の私が遅いんだ」
それでも食べるのをやめるわけではない。いつもより時間をかけながら、最後には残っていたおかずも口へ運んだ。
「ごちそうさま」
「ちゃんと食べたね」
「凛、いつから私のお母さんになったの?」
「嫌だよ。高校生の娘とか」
「そこ?」
アリスが笑う。食べるのが遅かっただけで、朝から元気がなかったわけでもないし、授業中も普段通りだった。だから私は、その程度なら気にしなくていいと思った。
放課後、帰り支度を始めたところで、また桐谷がやってくる。
「白石、昨日の話なんだけど」
その一言だけで、アリスは何のことか分かったらしい。
「……うん」
昨日より返事が遅い。二人が廊下へ出ると、昨日と同じ面白くなさが戻ってきた。
だが今日は、別のものにも気づいた。アリスはリュックの肩紐を両手で握り、緩め、また握っている。桐谷が話す間、右手の指先がわずかに震えていた。
そこで本の内容は完全に頭から消えた。
桐谷は気づいていない。たぶんアリスも、気づかせないようにしている。話しかけられれば普通に返して、相手が笑えば自分も笑う。アリスはそういうことができる。それができるから、分かりにくい。
しばらくして二人の話が終わった。戻ってきたアリスは昨日と同じように私の机の横へ来る。私は本をしまいながら、もう一度アリスの手を見た。今は震えていない。
「また相談?」
「うん」
アリスはリュックを肩へ掛ける。
「長かったね」
「ごめん」
「アリスが謝ることじゃないでしょ」
思ったより強い言い方になった。アリスがこちらを見る。
「凛、やっぱり桐谷くんのこと気になる?」
「何それ」
「昨日から、ずっと気にしてるから」
「待たされてるからだよ」
答えて立ち上がる。
「帰ろ」
「うん」
外へ出ると、夕方の空気は昨日より冷たい。しばらくは来週提出の課題や今日の授業で先生が間違えたところ、次のテストがどうだとか、いつも通りの話をした。アリスの返事も変わらない。
でも信号で立ち止まったとき、小さく息を吐いた。
「やっぱり疲れてる?」
「え?」
「今日。昼も食べるの遅かったし」
アリスは一拍置いて、「ちょっと疲れてるのかも」と認めた。
「桐谷の相談?」
今度はすぐに返事がない。赤信号の向こうを見たまま、アリスはしばらく黙っている。
「……それもあるのかな」
「嫌なら断ればいいじゃん」
「嫌っていうわけじゃないよ。桐谷くんはいい人だし、ちゃんと相談してくれてるのも分かるから」
「でも疲れるんでしょ」
「それは……うん」
信号が青になり、二人で歩き出す。桐谷は悪くない。むしろ気の利くいいやつだ。だからこそ、アリスが普通に笑って話を聞いていれば、嫌がっているとは思わないだろう。でも私は、さっきの指先を見ている。アリスは頼まれると断りにくい。アリスが自分で言えないなら、私から言えばいい。
「明日も相談されるの?」
「分かんない」
「ふぅん」
それ以上は聞かなかった。アリスの家が近くなったころには、会話もまたいつもの調子に戻っている。
「今日、数学の宿題やる?」
「やるよ。昨日もちゃんとやったし」
「分かんなかったら連絡して」
「凛先生お願いします」
「1問100円」
「高い」
「じゃあ自分で頑張って」
「プリン1個で全部」
「値切り方が雑だなあ」
アリスが笑う。その笑い方はいつも通りに見えた。
「じゃあまた明日」
「うん。また明日」
アリスは駅で電車を降りる。ホームに立つ姿を見送ってから、私はそのまま電車に揺られた。少しくらい疲れることは誰にでもある。桐谷のことも、明日話せば済む。そう考えれば、今日のところはそれでいい。




