第1章 10
翌日の木曜日。朝のアリスは少し眠そうだった。眠いと言っても机に伏せているほどではなく、1限目が始まれば普通にノートを取り、先生に当てられれば答える。休み時間には私とも話した。昨日より悪くなっていると言い切れるほどのものは何もない。
ただ、昼休みになって机を寄せたとき、昨日より分かりやすい変化があった。アリスの弁当が減らない。私は自分の弁当を半分以上食べているのに、アリスはまだ最初のおかずをつついている。
「食べないの?」
「食べてるよ」
「それで?」
弁当箱を見ると、アリスもつられて視線を落とした。
「……今日はあんまり入らないかも」
「体調悪い?」
「そこまでじゃないよ。ちょっと疲れてるだけ」
「昨日も疲れてるって言ってたよね」
「そうだっけ」
「言ってた」
アリスは一拍置いて笑う。
「じゃあ本当に疲れてるのかも」
「自分のことなのに」
「凛の方が詳しいから」
「私を診断に使わないで」
いつものように返してはくる。けれど、もう1口食べたあとに箸が止まった。
月曜日には全部食べた。火曜日もそうだった。昨日は時間がかかったけれど、それでも最後まで食べた。今日は半分近く残っている。
教室の向こうでは、桐谷が友達と昼を食べながら話していた。昨日、廊下で震えていたアリスの指先を思い出す。
「ちょっと行ってくる」
立ち上がると、アリスが顔を上げた。
「どこ?」
「桐谷のとこ」
その名前を出すと、アリスが眉を寄せた。
「凛?」
「すぐ戻るよ」
桐谷のところまで行き、机を指先で軽く叩く。
「桐谷、ちょっといい?」
「ん?」
「廊下来て」
「何だよ。怖えな」
そう言いながらも桐谷は席を立つ。教室の外へ出て、昼休みの人通りから外れたところで足を止めた。
「俺、なんかした?」
「アリスに相談するの、もうやめてくれない?」
桐谷の顔から軽い調子が消えた。
「……白石がそう言ったのか?」
「言ってない」
「じゃあ、なんで凛が」
「見てれば分かるから」
私は昨日見たことを順に話す。相談している間、アリスの手が震えていたこと。本人は嫌だとは言わないけれど疲れていること。今日の昼も弁当を半分近く残していたこと。
桐谷は途中で口を挟まずに聞いていた。
「マジかよ。俺、全然気づいてなかった」
「アリスは普通に話すからね」
「……迷惑だったのかな」
「少なくとも、今は負担になってるよ」
桐谷は黙る。廊下を何人かの生徒が通り過ぎてから、私の顔をじっと見た。
「凛、ずっと見てたんだな」
「何が?」
「俺と白石が話してるとこ」
一瞬、返事に詰まった。
「目に入るから」
「昨日も?」
「昨日も」
「一昨日も?」
「……何、その確認」
桐谷が口元を緩める。なんとなく、その顔が気に入らない。
「とにかく、もうやめてくれる?」
「ああ。分かった。もう白石には相談しねえよ」
答えはあっさりしていた。
「悪かった」
「私に謝ることじゃないよ」
「まあ、それもそうだな」
桐谷はもう一度私を見たけれど、今度は何も言わずに教室へ戻っていく。
思っていたより簡単だった。桐谷はいいやつだ。言えば分かるし、アリスを困らせたかったわけでもない。これで一つ減った。
教室へ戻ると、アリスはまだほとんど減っていない弁当箱を前にして、私を待っていた。
「桐谷くんと何話してたの?」
「アリスのこと」
「私?」
「最近相談されてるでしょ。もうやめてもらった」
アリスの表情が止まる。
「……やめてもらったの?」
「うん」
「どうして?」
「嫌だったでしょ」
「嫌っていうか……」
アリスは言葉を探すように一度視線を落とした。
「別に桐谷くんが嫌なわけじゃないよ」
「それは分かってる。でも疲れてるじゃん。昨日だって手、震えてたよ」
アリスが自分の手を見る。今は何も起きていない。
「見てたんだ」
「見えるんだよ」
そう答えると、アリスはしばらく黙った。
私は、アリスがもっと安心すると思っていた。桐谷との相談が負担なら、それがなくなる。単純な話だと思っていたからだ。
「余計だった?」
聞くと、アリスは首を横に振る。
「ううん。ありがとう」
笑った。でも月曜日に卵焼きを褒めたときの笑い方とは違う。
「アリス?」
「なに?」
「怒った?」
「怒ってないよ」
「ならいいけど」
机の上の弁当箱を見る。まだ半分残っている。
「午後大丈夫?」
「大丈夫」
「今日は真っ直ぐ帰る?」
アリスは一拍置いて首を横に振った。
「今日は私の家がいい。勉強したいし」
「いいよ。でも勉強は無理しなくていいからね」
アリスが困ったように笑う。
「凛、今日そればっかり」
「だってお弁当残してるし」
「ちゃんと見てるね」
「目の前で食べてるからね」
「……そっか」
アリスは残った弁当に蓋をして、袋へ戻した。
昼休みが終わる。午後の授業でも、アリスはいつも通りノートを取っている。先生の問いにも答えるし、教科書のページを間違えることもない。ただ、休み時間になると少しぼんやりしているようには見えた。
「眠い?」
「ちょっと」
「今日は勉強やめとく?」
「また言ってる」
「アリスが元気なら言わないよ」
「元気だよ」
「お弁当半分残した人が?」
「そこに戻るんだ」
アリスが笑う。
話しかければいつも通り返ってくる。だから私も、やっぱり少し疲れているだけなんだと思う。桐谷のことはもう終わった。放課後になったらアリスの家へ行く。勉強するかどうかは、そのときの様子を見て決めればいい。
最後の授業が終わるチャイムが鳴り、アリスが机の上の教科書を閉じた。
放課後、私たちはいつものようにアリスの家に向かう。もう目をつむっていてもアリスの家までたどり着けるかもしれない。
家に着いて、玄関を開ける。
「ただいまー」
「凛の家じゃないでしょ。でも、いらっしゃいって感じはしなくなっちゃったな……。うん、ただいまでいいよ。ただいまがいい」
アリスは私のちょっとした冗談に、思ったより嬉しそうに笑った。笑ってくれたことには安心したけれど、昼休みに半分近く残していた弁当のことがまだ引っかかっている。
顔色が悪いわけでも、足取りがおぼつかないわけでもない。ただ、ここ何日かのアリスは、いつもより元気を使い切るのが早いように見えた。
アリスの部屋につくなり、私は言った。
「今日は勉強するのやめとく?」
「どうして?」
「アリスが疲れてるんじゃないかなって思って」
「どうしてそんなこと言うの?」
アリスの質問連打だ。私の心配がうっとうしかったかな。
「いや、桐谷のこととかあったじゃん。お弁当も残してたし。元気ないのかなあって」
「それは……うん。たしかに元気がないのかも。凛のほうが私に詳しいみたい」
わずかに笑顔を見せてくれたことで、私は一安心した。
「それならきっとアリスは、私のことを私以上によく分かってるよ」
「本当にそうだったら、どれだけ良いのにね……」
さっきまでの笑顔が薄くなる。冗談として返すには、声が静かすぎた。何か返そうとしているうちに、アリスのほうが先に口を開く。
「私と桐谷くんが話しているのを見て、どう思った?」
「アリス大丈夫かなー、って思った」
「ふぅん……。もしね。もしもだよ。桐谷くんが凛に告白してきたらどうする?」
「断るよ」
即答。悩む余地が一切なかった。良いやつだけどね。良いやつなだけ。
アリスはすぐには何も言わなかった。膝の上に置いた手の指先が、ほんの少し動く。
「……どうして?」
「好みじゃないからかな」
「誰かと付き合いたかったりしないの?」
「今は別に」
「じゃあ私が誰かと付き合ったら?」
私の中で時が止まった。
アリスが誰かと付き合う。考えたこともなかった。頭の中にそれらしい光景を作ろうとしてみる。でも、相手の顔すら浮かばないうちから嫌だった。
「……嫌かな」
「……嫌なの?」
アリスが私を見る。さっきより身体がこちらを向いている。
「一緒にいる時間が減るから」
私は私なりに率直に気持ちを伝えたつもりだ。だけどアリスには満足な答えではなかったようだ。
「それだけ?」
「それだけって?」
「それは……」
「言ってみなよ。言ってくれないと分からないよ」
「……」
アリスは視線を落とした。膝の上で重ねていた手が、いつの間にか強く組まれている。
私は待った。
長い間うつむいていたアリスが、ようやく口を開く。
「言えるわけないよ……」
そしてアリスは、そのきれいで大きな目を見開いて私の顔を正面から捉えた。
「言えるわけなんてない!」
アリスはこんなに大きな声が出せるんだ。初めて知った。
「ちょっと落ち着きなよ」
「……私は落ち着いてるよ」
そう言うアリスの声は、さっきよりずっと小さい。私は何を言えばいいのか言葉を探したけれど、いい言葉は出てこなかった。
「分かった。だったらちょっとコンビニ行ってきてもいい? 炭酸飲みたくなっちゃった」
「……うん。分かった。待ってるね」
本当はそこまで炭酸が飲みたいわけじゃないけど、空気が重たすぎてリセットしたくなった。
コンビニに行きたかったのは本当。いつものやつを買って仲直りしなきゃ。
玄関を出ると、冷たい空気が思ったより気持ちよかった。さっきまで息苦しかったのに、外へ出ただけで呼吸がしやすくなった。
コンビニでエナジードリンクと一番高いプリンを二つ買った私は、しばらく公園のベンチで時間を潰すことにした。
仲直りにプリンというのも単純な気がするけれど、アリスならたぶん喜ぶ。
何も考えないつもりで来たのに、結局考えるのはアリスのことだった。
「アリスが言ってほしいことなんて分かってるのになあ」
言えるわけがないのはこっちもだった。
でも……言わないといけないのは私なのかもしれない。
「いっちょ頑張ってみますか」
いつの間にか気持ちが軽くなった分、すぐにベンチから腰を上げられた。




