第2章 1
第2章
翌朝、私が教室に入ると、アリスの姿は見当たらなかった。
アリスの方が早いことが多いから、隣の席が空いているだけで、教室は少し違って見えた。アリスが学校を休むことは、時たまある。だから、それ自体は騒ぎになるようなことではなかった。
自分の席へ向かって、いつも通りリュックを下ろす。教科書を出す。筆箱を置く。椅子を引いて座る。手順は同じなのに、隣だけが足りない。
そしてホームルームが始まるまで、アリスの席は空いていた。
ホームルームが始まっても、担任はアリスのことを何も言わなかった。出席簿に目を落としたとき、ほんの少しだけ手が止まる。けれど、教室に向かって何かを言うことはない。
授業が始まる。隣の机の上には何もない。教科書も、筆箱も、リュックもない。
1時間目が終わっても、2時間目になっても、アリスは来ない。
隣の席が空いていると、教室はいつもより広く見えた。人が一人いないだけで、そんなに変わるはずがない。それでも、視界の端に空いた机があるたび、そこだけ穴が開いているみたいだった。
昼休みになって、私はリュックから本を取り出した。
数日前にアリスから借りた本だった。
読み終わった、と言って、私の机に置いていった本。感想は言わない、と言っていた本。
ページを開く。文字は読める。意味も分かる。けれど、いつもよりずっと進みが遅い。読み返すほど難しい文章でもないのに、同じ行を何度も目で追ってしまう。
本を読む時間は増えた。
でも、得をした感じは少しもしなかった。
「白石、今日来てないんだな」
桐谷が前の席に腰を下ろした。
「そうだね」
「連絡あった?」
「ないよ」
「さみしいだろ」
「うん」
桐谷はそれ以上、深く聞かなかった。
たまたま体調が悪いのかもしれないし、家の用事かもしれない。そういう理由なら、いくらでも思いつく。
けれど、どれもアリスの席を埋めてはくれなかった。
放課後になると、私は教科書をリュックにしまった。
いつもより早く準備が終わる。いつもと違い、アリスを待つ必要がないからだ。
帰ろ、と言う相手がいない。帰れる、と聞かれることもない。ただリュックを背負って、教室を出ればいい。それだけのことなのに、放課後の手順をいくつも間違えているような気がした。
私は一人で学校を出て、アリスの家へ向かった。
学校にはアリスがいない。
でも、放課後になれば、アリスのところへ行ける。
そう思うだけで、教室にいたときより少し息がしやすかった。
アリスの部屋にいると、隣の席が空いていることを見なくて済む。
それだけでよかった。
アリスの家に着くと、アリスは案の定横になっていたようだ。
アリスの顔を見ると落ち着いた。
学校の空いた席を見るより、ずっといい。
私は読書。テレビはつけたまま。たとえ何かを一緒にするわけではなくても、同じ空間にいる。それだけでよかった。
土曜日で、学校は休みだ。今週もアリスの家に泊まりに行くことになっている。
空っぽの隣の席を見ずに済む。誰かがアリスの名前を口にするのを聞かなくて済む。放課後まで待たなくても、アリスのところへ行ける。
それだけで、昨日より少し楽だった。
私は途中でレンタル店に寄った。
前に来たときは、私がサスペンスを選んで、アリスが恋愛映画を選んだ。どちらから観るかで少しだけ揉めて、結局私の方から観ることになった。
アリスは恋愛映画の主人公に文句を言っていた。鈍感すぎるとか、そこは言わなくても分かってほしいとか、分かっていないのに分かったような顔をするなとか。
あれだけ文句を言っていたくせに、最後までちゃんと観ていた。
私は恋愛映画の棚の前に立って、1本を手に取った。
アリスが選ぶかどうかは分からない。そもそも私には、恋愛映画の良し悪しはよく分からない。
でも、私が選んだものなら、アリスは何か言ったと思う。
それでいいことにした。
アリスの家に着くと、そのままアリスの部屋に入った。
そういえば、アリスの部屋以外で私が入ったことがあるのは、リビングとお風呂、トイレくらいだ。キッチンを借りられれば、私も料理できるかもしれない。
アリスの部屋で映画を流しながら、横目でアリスの方を見る。
アリスは興奮すると、お菓子を食べる速度が上がる。だから私は、横目でポッキーの箱を確認した。
どうやら今日は、私の分も残りそうだった。
2本目はサスペンスにした。
原作は読んだことがある。映画も前に一度観ていた。だから画面をずっと観ていなくても、話は追える。
私はアリスの本棚から1冊抜いた。
前に、気になるなら読んでいいよ、と言われたことがある。だから勝手に読んでも、たぶん怒られない。
画面の中では、誰かが泣いたり怒ったりしている。
前なら、アリスが何か言ったところだと思う。
ここで怒るのは違うとか、この人はたぶん最後まで分からないとか、そういうことを言ったと思う。
私はページをめくる。
学校でアリスから借りた本を読むときよりも、少しだけ文字が入ってきた。ここにはアリスのものが多い。本棚も、机も、低いテーブルも、前に一緒に観たテレビも。
学校で、空いた隣の席を見ながら一人でいるより、ずっとましだ。
夜になって、私は前に泊まったときと同じように布団を敷いた。
電気を消すと、部屋は一気に静かになる。
この前は、映画の話をしていた。次に何を観るか、私が恋愛映画を選ぶかどうか、そんな話をしていた。
いつもならもう少し話している時間だったけれど、その日は早めに電気を消すことにした。
いつも通りアリスがベッドで、私が布団。寝る前に話をするとき、お互いに段差があると不便だね、なんて言ったりしている。
翌日は早く目が覚めた。アリスはまだ眠っているようだ。部屋は静かなままだった。
明日も隣の席は空いている。そう思うと、またあの教室を思い出す。
あれは、ただ席が空いているだけではない気がした。
明日からの学校のことを思うと憂鬱になる。
布団を片付けると、しばらく昨日の本の続きを読んだ。
読み進めるが、アリスが起きる気配がない。私はアリスを揺すった。
アリスは目覚めが悪くないのに。
昨日泊まったせいで、朝からアリスの部屋にいるのは少し変な感じだった。けれど、帰った方がいいとは思えなかった。
それでも、朝食を食べ、昼前にはアリスの家を出た。途中でレンタル店に寄り、DVDを返した。
家に帰ると宿題をし、数学の勉強を少しだけやった。
夕方が近づくと、明日のことを考えた。
明日は学校がある。
学校へ行けば、また空いた隣の席を見ることになる。
そう思うと、気が重くなった。
月曜日になって、やはりアリスの席は空いていた。
金曜日の欠席は、まだ1日だけだった。けれど、週末を挟んでも空いたままだと、その席だけ時間が進んでいないみたいに見えた。
担任が朝のホームルームを終えたあと、私の席の近くへ来た。
「少しいいかな?」
「はい」
「白石さんのこと、何か知ってる?」
「なにかってなんですか」
「金曜日もそうだったんだけど、学校に連絡がなくてね。凛さんなら何か知っているかと思って」
「なるほど。家にいると思いますよ」
担任は少しだけ眉を寄せた。
「体調が悪いのかな」
「そうかもしれません」
私はそれ以上のことを言わなかった。
担任も、それ以上はその場で聞かなかった。教室の中だったからかもしれない。私の答えで十分だと思ったのかもしれない。
昼休み、桐谷がまた来た。
「白石、今日も来てないんだな」
「そうだね」
「大丈夫なのか?」
「どうだろう」
「見舞いとか行ってるの?」
「家には行ってるよ」
「そっか」
桐谷は何か言いたそうにしていたけれど、結局それ以上は聞かなかった。
私はアリスから借りた本を開く。
まだ読み終わらない。
読む時間はある。昼休みも、放課後前の空き時間も、アリスがいない分だけ増えたはずだった。
なのに、全然進まない。
アリスがいない学校で本を読んでも、集中できない。休んでいるアリスの影がちらつくからだ。
放課後になれば、アリスのところへ行ける。
6時間目の終わりを待ちながら、私はそればかり考えていた。
祝日で学校は休みだった。
それだけで、朝から少し息がしやすかった。
隣の席が空いているのを見なくて済む。いつ帰れるかを考えながら授業を受けなくて済む。
私はアリスの家へ行った。
アリスの部屋で、また本棚から本を抜く。
どれを読んでもいいよ、と言われたことがある。なら、今日もいいはずだ。いちいち確認はとらなかった。
ページをめくる音だけが部屋に残る。
ずっと喋っていなくてもいい相手というのは楽だ。
たぶん、私は前にも同じことを考えた。
話したいことがあれば話せばいい。話したくないときは、無理に話さなくてもいい。同じ部屋にいるなら、それで十分なこともある。
学校では、そうはいかない。
アリスがいない学校が、思っていたよりずっとつまらないことに気づかされてばかりだ。
水曜日になっても、アリスの席は空いている。
もう、遅刻だと思う人はいなかった。
担任の声は、月曜日より少し硬かった。ホームルームのあと、また私が呼ばれる。
「白石さんの家には行っているの?」
「はい」
「白石さんは家にいるの?」
「病院に行っていなければ、家にいると思います」
担任はすぐには返事をしなかった。
「白石さんのお母さんとは話した?」
「仕事で海外に行っているって聞いています」
「今も?」
「明日帰ってくるそうです」
担任は少し考えるように黙った。
その沈黙の間、廊下を誰かが走る音がした。注意する先生の声が遠くで聞こえる。教室の中では、誰かが椅子を引いた。
「……それなら、明日もう一度確認してみるね」
「はい」
担任との話はそこで終わった。
放課後、私はアリスの家へ向かった。
明日になれば、アリスのお母さんが帰ってくる。そうしたら、今日みたいに気安く毎日のようには行けなくなるかもしれない。
そう思うと、歩く速度がいつもより少し速くなった。
アリスの部屋で過ごす時間が、いつもより短く感じた。
本を読んでも、あまり進まない。映画も流さなかった。ただ同じ部屋にいて、ときどき時計を見る。
帰るころには、外はすっかり暗くなっていた。
十一月の夜は、思っていたより冷える。
私は振り返らずに歩いた。
振り返ると、帰れなくなる気がした。
木曜日も、アリスの席は空いていた。
もう驚く人は少なかった。
驚く代わりに、みんな少しずつ声を小さくしていた。白石さん、まだ休みなんだ。長くない? 誰か連絡取れてるのかな。そういう声が、教室のあちこちで小さく落ちる。
私はアリスから借りた本を開いた。そんなに分厚くもない文庫本だ。集中すれば1日で読み切ってしまえるはずだ。
読み終わるには、もう十分すぎる時間があった。それなのに、まだ最後まで進んでいない。
昼休みは長かった。
一人でいることは、嫌いではなかったはずだ。むしろ、得意な方だったと思う。誰かと話さなくても平気だし、本があれば時間は潰せる。
でも、アリスがいない学校は違った。
アリスがいれば、ちょっとした時間が楽しくなる。
ちょっとしたことで笑い合える。
それだけのことが、今はなかった。
放課後になって、私はリュックを背負った。
いつものようにアリスの家へ向かうことはしなかった。
今日は、アリスのお母さんが出張から帰ってくる日だった。
さすがに親子水入らずを邪魔する気にはなれない。
そのまま、一人家に帰った。




