↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/25

第2章 2

 金曜日は、朝から雨だった。

 窓を叩く音で目が覚めた。布団の中にいても、外が暗いのが分かる。雨の日は、それだけで学校へ行くのが少し面倒になる。傘を差さないといけないし、靴も濡れるし、教室に着くころには制服の裾が冷たくなる。

 それでも、行かない理由にはならない。

 私はいつも通り制服に着替え、リュックを背負って家を出た。

 駅までの道は、傘を差していても足元が濡れた。車が通るたびに、車輪が水を跳ね上げる音がする。空はまだ朝なのに夕方みたいに暗く、校門をくぐるころには、傘の表面を叩く雨音にも少し飽きていた。

 教室に入ると、アリスの席は空いていた。

 それ自体は、もう珍しくなかった。

 けれど、その日の教室は少しだけ違っていた。誰かが大きな声で笑うと、すぐに別の誰かが声を落とす。廊下で先生たちが話している声も、いつもより小さい気がした。

 担任はホームルームの少し前に教室へ入ってきた。いつもなら教卓に出席簿を置いて、すぐに何か言う。けれど今日は、教卓の前で一度だけ教室を見回した。

 アリスの席にも、目が向いた。

 それから、担任は何も言わずに出席簿を開いた。

 ホームルームは、いつもより短かった。

 連絡事項をいくつか言って、担任は出席簿を閉じた。

 白石さん、という名前は出なかった。

 1時間目が始まる。

 雨の日の教室は、いつもより暗い。窓際の席は少し寒そうで、黒板の文字もどこか湿って見える。先生の声は普通に聞こえるのに、頭にはあまり入ってこなかった。

 隣の席は空いている。

 今日も、アリスはいない。

 そのことだけが、授業よりずっとはっきりしていた。

 昼休みになって、私はアリスから借りた本を開いた。

 栞の位置は、昨日からほとんど動いていない。

 ページをめくる。

 雨の音がする。

 誰かが椅子を引く音がする。

 教室のどこかで、白石さん、と小さく言う声がした。

 私は顔を上げなかった。

 文字は読める。意味も分かる。でも、読んだ端からこぼれていく。

 読みかけの本を開いていると、アリスとまだつながっていられる気がした。

「白石のこと、何か聞いた?」

 桐谷が前の席に座った。

「聞いてない」

「先生、なんか変じゃないか」

「そうかもね」

「そうかもって、お前な」

「私に言われても困る」

 桐谷は困ったように髪をかいた。

 いつもの桐谷なら、そこで何か余計なことを言う。冗談なのか本気なのか分からない言葉を足して、私に一言返されて、それで終わる。

 でも今日は、何も言わなかった。

「……白石、大丈夫なのかな」

「先生に聞きなよ」

「そうだな」

 桐谷は小さく息を吐いた。

 その顔を見ていると、少しだけ落ち着かなかった。桐谷は悪くない。悪くないのに、アリスの名前を口にされるたび、隣の席がまた空っぽになる。

 もう空いているのに。

 それでも、もう一度空くような気がする。

 午後の授業も、あまり頭に入らなかった。

 窓の外では雨が降り続いている。朝より弱くなったように見えて、またすぐ強くなる。黒い雲がずっと校舎の上にあって、今日はこのまま晴れないのだろうと思った。

 帰りのホームルームで、担任は最後に窓の外を見た。

「雨が強いから、帰りは気をつけるように」

 それだけ言って、教室を出ていった。

 放課後になっても、雨は止んでいなかった。

 私はリュックに教科書をしまい、アリスから借りた本も入れた。いつものように、アリスの家へ向かうことはしない。昨日と同じだ。

 アリスのお母さんは、もう帰ってきているはずだった。

 だから今日は、そのまま帰る。

 そう思って教室を出たのに、足は駅とは別の方へ向いた。

 本屋へ寄ろうと思った。

 一人で本屋へ行くのは、別に珍しいことではない。アリスと知り合う前は、むしろ一人で行く方が普通だった。誰かに気を遣う必要もない。好きな棚を好きなだけ見て、気になった本を手に取ればいい。

 そのはずだった。

 けれど、棚の前に立っても、何を選べばいいのかよく分からなかった。

 アリスなら、知らない本を選んだかもしれない。私が読んだことのない本を見つけて、これ読んだことある? と聞いたかもしれない。ない、と答えたら、じゃあこれにしようかな、と笑ったかもしれない。

 そう考えて、私は何も買わずに店を出た。

 外に出ると、雨はさらに強くなっていた。

 傘を開いた瞬間、風に持っていかれそうになる。慌てて柄を握り直すと、冷たい雨が手の甲に当たった。道路には水たまりがいくつもできていて、車が通るたびに白い水しぶきが上がる。

 早く家に帰りたい。

 その気持ちでいっぱいだった。

「少しお時間よろしいですか」

 かっちりした若い女性に声をかけられた。

 どちらかと言えば美人で、それが余計に真面目そうな印象を強くしていた。雨の中でも姿勢が崩れていない。スーツも傘も黒っぽくて、全体的に冗談が通じなさそうだった。

「えっと、嫌です。知らない人に声をかけられたら逃げろって教わったので。逃げていいですか?」

 女性は困った顔をしなかった。

 スーツの内側から、黒いものを取り出す。

 ドラマでよく見る警察手帳に似ていた。冗談みたいだ。本当に本物かどうか、私には分からない。

「警察の者です」

 自称警察のようだ。

 そこに美人も足していい。

 雨の勢いが急に強くなった。ざあざあとした音に、女性の声が半分ほどかき消される。

「――凛さん、ですよね」

 聞こえたのは、下の名前だけだった。

 それでも、自分のことだと分かった。

 どうやら、私はこの美人自称警察から逃げられなさそうだった。

「昨日、白石アリスさんがご自宅で亡くなっているのが見つかりました」

 この女が何を言っているのか理解できない。

 頭が理解を拒絶するような気持ちだ。

 どうやらもう、冗談を言ってる場合じゃないようだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。