第3章1(上)
第3章
女性は、私の返事を急かさなかった。
雨はさっきよりも強くなっていた。傘の縁から落ちた雫が靴のつま先へ細く流れ、濡れた制服の袖が肌に張りついている。女性は黒い傘を少しだけこちらへ傾けていたけれど、私の傘と重なるほど近づいてくることはなかった。
「この雨の中で申し訳ありません。少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
すぐに言葉を重ねてこない。そのことが、かえって困った。断る理由を考えなければいけないような気がしたけれど、何を断ればいいのか分からない。雨が傘を叩く音だけが、二人の間に残っていた。
「……はい」
ようやく声に出せたのは、それだけだった。
女性は小さく頷いた。
「ありがとうございます。立ったままでは話しにくいと思いますので、近くのファミリーレストランへ移りませんか? 今すぐ、知っていることを詳しく話してほしいというわけではありません。白石さんについて、いくつかお伺いしたいことがあります。長い時間を取るつもりはありませんし、話したくないことがあれば、無理に答えていただかなくても結構です」
こちらが断れるように話していた。理由をいくつも並べて、私が自分で行くことを選べるようにしている。
警察の人間に、そういう気遣いがあるとは思っていなかった。もっとも、私が知っている警察はテレビの中の人たちだけだった。テレビの中の刑事は、相手の返事を待たずに歩き出すことも多いと思い込んでいた。実際の刑事がどうするものなのかは知らなかった。
女性は、私が歩き出すのを確認してから隣を歩き始めた。
女性は道路側を歩いていた。私より少しだけ車道に近い位置を選んでいる。
そのことに気づいても、何か言う気にはなれなかった。
この人は、私をどこかへ連れていこうとしている。そう考えると、さっきまでよりも少しだけ現実味があった。
赤と白の看板が雨の向こうに見えた。入口の屋根の下へ入ると、道路を叩いていた雨音が少し遠くなった。
女性に続いて傘を閉じた。
「足元、滑りやすくなっています。気をつけてください」
女性に言われ、私は頷いた。
自動ドアが開く。
店内は空いていた。制服姿の高校生や、一人で雑誌を読む女性がいる。厨房から食器の触れ合う音が聞こえていた。
壁際の時計は、学校が終わってからまだそれほど時間が経っていないことを示していた。いつもなら、帰宅しているか、アリスの家へ向かっている時間だった。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がまた痛くなった。
案内されたのは、窓際から少し離れた四人掛けの席だった。私は窓側に座り、女性が向かいに座る。向かい合うと、少し圧迫されたような気がした。
窓の向こうでは、駐車場に止まった車の屋根を雨が白く濡らしている。店内の照明がガラスに反射し、外の景色と重なっていた。雨に濡れた窓は、駐車場と店内の境目を曖昧にしている。こちら側の明るさと、向こう側の暗さが重なって、どこにいるのか分からなくなりそうだった。
女性はメニューを私の前へ置いた。
「何か召し上がりますか?」
「いりません」
「飲み物だけでも大丈夫です。温かいものにしませんか?」
「……紅茶で」
「分かりました」
女性は店員を呼び、紅茶を2つ注文した。
何かを飲みたいわけではなかった。ただ、何も頼まずに座っているのも落ち着かず、紅茶を選んだ。
女性は濡れたコートを脱ぎ、椅子の背へかけた。コートの袖から落ちた雨粒が、床に小さな跡をつくっている。それからバッグを開き、小さな手帳を取り出した。黒い表紙の、飾り気のない手帳だった。
「改めまして、鳴海です」
女性は手帳を開きながら言った。
「先ほど警察の者だと申し上げましたが、私は白石さんの件について、関係者から話をうかがっています。凛さんには、分かることだけお話しいただければ結構です。まだ気持ちの整理がついていないと思いますので、無理に順番立てて説明しようとしなくても大丈夫です」
アリスが死んだ。
そのことは、言葉としてきちんと聞こえていた。鳴海が何を言っているのか理解できなかったわけではない。ただ、言葉をそのまま受け取ることだけができなかった。
頭の中では、アリスの部屋が浮かんでいた。
机、本棚、ローテーブル、ベッド、テレビ。床に置かれたリュック。窓。帰るときに閉めるドア。そこにアリスがいる。そういう形で覚えていたものが、鳴海の言葉によって別の形に変わろうとしていた。
アリスの部屋は、目を閉じれば思い出せる。窓のそばにあるカーテンの色も、ベッドの脇に置かれた小さな棚も、テレビの下に並んだ録画機器も知っている。何度も見て、何度もその部屋を出た。
ただ、その部屋にアリスがいないという状態だけが、うまく想像できなかった。
紅茶が運ばれてきた。
店員がカップをテーブルに置く。白い陶器の表面から湯気が細く立ち上り、紅茶の匂いが雨と濡れたコートの匂いに混ざった。鳴海は礼を言い、店員が離れてから手帳へ視線を落とした。
「学校では、皆さん下の名前で呼んでいると聞いています。ただ、こちらでは本来、名字でお呼びするべきなのですが……」
鳴海の口から、私の名字が出た。
店内の音に紛れて聞き取れなかったわけではない。私は聞き取った。だからこそ、その言葉がテーブルの上に置かれたような気がした。
「凛って呼んでください。名字で呼ばれるの、苦手なんで」
声は、思ったより普通に出た。
「分かりました。では、凛さんと呼びます」
「はい」
「理由は聞かない方がよさそうですね?」
「聞かないでください」
鳴海は、私の返事をそのまま受け取るように頷いた。
「分かりました」
それ以上は聞かなかった。
テーブルの上で、紅茶の湯気が少しずつ薄くなっていく。私はカップに手を伸ばさなかった。鳴海もすぐに質問を始めなかった。
「お手洗いへ行かれますか?」
鳴海が、私の顔を見て言った。
自分から言おうと思っていたのに、先に言われたことで少しだけ驚いた。
「……行ってもいいですか?」
「もちろんです。入口の横を右へ曲がったところです。ゆっくりで大丈夫ですよ」
私は頷き、席を離れた。
店内を歩いているあいだ、誰もこちらを見ていなかった。厨房から料理の音が聞こえ、隣の席では誰かが笑っている。ファミリーレストランは、アリスが死んだあとでも普段通りに動いていた。
お手洗いの中は、店内より少し静かだった。
白い洗面台の上に、丸い鏡がある。鏡の中の自分は、雨に濡れた髪と制服の襟を乱して、思っていたより普通の顔をしていた。泣いているようには見えない。目の周りが赤くなっているわけでもない。
それなのに、胸の奥だけがずっと痛かった。
私は洗面台に手をつき、目を閉じた。
アリスが死んだ。
言葉にしてみても、まだ現実と思えなかった。頭では分かっている。鳴海が嘘をついていないことも、警察手帳が本物だったことも、アリスに大きな何かが起きたことも分かっている。
それでも、アリスがいないということだけが、どうしても形にならない。
頭の中に浮かぶのは、死んだアリスではなかった。こちらを見て笑う顔や、私の読んでいる本を覗き込む横顔や、帰り道に少し前を歩いて振り返る姿ばかりだった。
そのどれもが、もう動かないものと結びつかなかった。
水を出して、顔を洗った。冷たい水が頬に当たる。濡れた手で目元を押さえる。涙というのはこういうときのためにあるんだろう。声は出なかった。私の頬を伝った雫が何度か落ち、洗面台の白い陶器へ小さな跡を残した。
しばらくしてから、私は鏡の中の自分を見た。
私は目元を拭いた。鳴海を待たせたままにはできない。席へ戻ると、鳴海はそのまま待っていた。




