第3章1(下)
「少し落ち着きましたか?」
「はい」
「無理に平気なふりをしなくても大丈夫です。今日は、話せることだけで構いません」
私は向かいの席へ戻った。
鳴海が、私のカップへ視線を落とす。
「紅茶、少し飲めそうですか?」
「大丈夫です」
「分かりました」
鳴海は、私が座ってもすぐには質問を始めなかった。
その沈黙は、学校やアリスの家にあったものとは違っていた。
アリスは、しばらく黙っていると、すぐに何かを話し始めた。私はそのたびに返事をした。静かに休める相手ではなかったけれど、一緒にいることは楽しかった。
「白石さんとは、いつごろから親しくなったんですか?」
「入学して、わりとすぐです」
「担任の先生からも、入学してからお二人が一緒にいることが増えたと聞いています。最初に親しくなったきっかけについて、何か覚えていることはありますか? 特別な出来事でなくても構いません」
鳴海は、答えを急がせるような顔をしていなかった。
「最初はたぶん、第二理科室に案内したときだと思います」
「白石さんは、場所が分からなくなっていたんですね」
「はい」
鳴海は、それ以上詳しく聞かなかった。
第二理科室へ向かう廊下のことを、私は覚えている。教室の場所を尋ねるアリスの声や、廊下の窓から入ってきた春の光も覚えている。名前を呼ばれたとき、自分の名前がいつもと違う音に聞こえたことも覚えていた。
けれど、それを話す気にはなれなかった。
思い出を言葉にすると、そこにいたアリスまで鳴海の手帳へ書き写されてしまうような気がした。
鳴海はしばらく手帳を見ていたが、やがて視線を上げた。
「そのあと、学校の外でも一緒に過ごすようになったんですか?」
「帰り道が一緒になりました。帰る方向と時間が同じで、何日かたまたま続きました」
「たまたま続いたことが、そのまま日常になっていったんですね?」
「はい」
鳴海は、そこで無理に話を続けなかった。
「白石さんの家に泊まることもあったと、お母様から聞いています。初めて泊まったのは、いつごろですか?」
「六月くらいです」
「白石さんの家では、どんな時間を過ごしていたんですか?」
「映画を見たり、本を読んだり。何もせず、ぼーっとしていることもありました」
「一緒にいても、いつも何かをしていたわけではなかったんですね」
「はい」
鳴海は短く書き留めた。
映画を見るときは、アリスが画面の内容を先に予想した。私が否定すると、少し不満そうな顔をして、それでも最後まで見た。私が本を読んでいると、アリスは隣でテレビを見ていた。ときどき、面白い場面があったのか、画面を見たまま笑った。
何もしていない時間もあった。
アリスがベッドに座り、私は床に置いたクッションへ寄りかかっている。会話をしていなくても、帰る時間が近づくまでは、それぞれがそこにいた。
その時間を、私は特別だと思っていなかった。
特別ではないから、続くのだと思っていた。
「白石さんのお母様は、白石さんが凛さんの話をよくしていたと言っていました。本を読むようになったことも、凛さんの影響があったのだと思うと話していました。凛さんが家に泊まっていることも知っていて、凛さんを信頼していたようです」
私は、湯気の消えかけた紅茶へ視線を落とした。
紅茶の表面には、店内の照明がぼんやり映っていた。カップの中身はまだ温かいはずなのに、最初に運ばれてきたときほど湯気は立っていない。時間だけが、私の知らないところで進んでいる。
「そう思ってもらえていたなら、よかったです」
鳴海は、すぐに次の質問をしなかった。
アリスの母親が、私のことを信頼していた。
その言葉を聞くのは初めてではなかった。家へ泊まりに行ったとき、母親はいつも自然に私を迎えてくれた。帰りが遅くなった日には、夕食を食べていくかと聞いてくれた。アリスが母親に私の話をしていたことも知っている。
それでも、鳴海の口から聞くと、別の意味に変わった。
信頼されていた人間として、いま私はここに座っている。
「凛さんにとっても、白石さんは大切な友達でしたか?」
「はい」
返事をしたあと、鳴海は少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
それ以上、関係の名前を確かめようとはしなかった。
友達。
その言葉は間違っていない。少なくとも、学校で説明するなら、それ以外の言葉は必要なかった。
けれど、私たちの間にあった時間を、その一言だけで説明できるとも思っていなかった。
店内の奥で、食器を片づける音がした。皿と皿が触れ合い、短い音が何度か続く。ドリンクバーの機械が低く動き、隣の席の高校生が新しいグラスを置いた。
誰も、アリスの死について話していない。
そのことが、不自然に思えた。
私の向かいにいる鳴海だけが、その事実を知っている。店員も、窓際の高校生も、雑誌を読んでいる女性も知らない。知らないまま、料理を食べたり、飲み物を取りに行ったり、帰る時間を考えたりしている。
その普通の中に、私だけが置き去りにされているようだった。
「白石さんが、何かに困っていたり、負担を感じているように見えたことはありますか?」
「ありました」
鳴海のペン先が止まった。
「よければ、どんな場面だったか教えていただけますか?」
「桐谷くんが、アリスに相談しているのを見かけました」
「桐谷くんというのは、同じクラスの生徒ですか?」
「はい」
「相談の内容までは、聞いていないんですね?」
「聞いていません」
鳴海は、そこですぐには書かなかった。私の答えを確認するように、静かにこちらを見ている。
「桐谷くんが白石さんに相談していることを、凛さんは知っていた」
「はい」
「そのとき、白石さんは困っているように見えましたか?」
「そう見えました」
「分かりました」
鳴海は、それ以上を聞かなかった。
桐谷は、アリスに相談していた。
私に関することを。
その相談をアリスがどう受け止めていたのか、私は知っていた。困っていたことも知っている。けれど、鳴海にそれを説明するつもりはなかった。
鳴海は、手帳から顔を上げた。
「少し休みますか?」
「大丈夫です。聞かれたことには、できるだけ答えたいです」
口に出してから、その言葉が自分のものではないように感じた。
できるだけ答えたい。
それは、鳴海に協力したいという意味にも聞こえる。アリスのために、知っていることを話したいという意味にも聞こえる。
どちらも、完全には間違っていなかった。
「分かりました。ただ、今日は白石さんが亡くなったことを聞いたばかりです。すべてを思い出そうとしなくて結構ですし、言葉にできないことがあっても不思議ではありません」
「はい」
鳴海は、テーブルの上の紅茶へ視線を落とした。
私のカップは、ほとんど減っていない。鳴海のカップも同じだった。鳴海は自分の分を注文したのに、口をつける気配がなかった。
雨は、少しも弱くならなかった。窓ガラスを流れる水滴が、隣の水滴と重なりながら形を変えていく。
「先週、最後に学校へ来ていたころの白石さんについて、凛さんが普段と違うと感じたことはありましたか? 小さなことで構いません」
「少し、疲れているように見えました」
「学校でも、学校の外でもですか?」
「両方です」
ペン先が紙の上を動く。書く音は小さく、食器の音や雨の音にすぐ紛れた。それでも、その音だけは妙にはっきり聞こえた。
疲れているように見えた。
それは本当だった。
いつからそう見えていたのかを考えようとすると、記憶はいくつもの場面に分かれた。教室の窓際で眠そうに目をこするアリス。帰り道に少し遅れて歩くアリス。家でいつもより長く黙っていたアリス。
どの場面にも、アリスがいた。
だからこそ、どれか一つを取り出して鳴海に渡すことができなかった。
「分かりました。今すぐ思い出せる範囲で十分です」
「今日はここまでにしましょう。後日、またお話をうかがうことになるかもしれません。そのときも、凛さんが話せることだけで結構です。今日の話を、全部きちんと整理しておかなければいけないと思わなくても大丈夫ですよ」
「はい」
鳴海はそう言って、手帳を閉じた。
私は、もう帰れるのだと思った。
帰ったあと、どこへ行けばいいのかは分からなかった。家に帰るしかない。母親が何か聞くかもしれない。学校から連絡が来るかもしれない。
アリスの家へ向かうことは、もうできない。
その考えが浮かぶと、胸の奥が強く締めつけられた。
「最後に、一つだけ確認させてください」
鳴海が、もう一度手帳を開いた。
さっきまでの質問と比べれば、短い言葉だった。けれど、手帳を閉じたあとにもう一度開いたことが、妙に印象に残った。
「白石さんと最後に会ったのは、いつですか?」
雨の音が少しだけ大きくなった。
ファミリーレストランの窓を叩く音が、店内の話し声や食器の音を覆っていく。
最後に会った日を、考える必要はなかった。
日付はすぐに浮かんだ。けれど、それが鳴海の求めている答えなのかは分からなかった。
「……十八日です」
私は鳴海に、そうはっきりと答えた。




