第1章 7
数日後の昼休み、アリスは私の机に1冊の本を置いた。
「読み終わった」
見覚えのある表紙だった。先日、書店でアリスが買った本だ。
「早かったね」
「面白かったから」
私は本を手に取り、表紙をもう一度見る。アリスは約束を忘れていなかったらしい。
「どうだった?」
「言わない」
「感想も?」
「凛、変なところから犯人考えそうだから」
「感想から犯人当てたりしないよ」
「信用できない」
そう言いながら、アリスは私の机の横に立ったまま動かなかった。どうやら私がその場で読み始めるか確認したいらしい。
「今は読まないよ」
なんで、と聞かれたので、昼休みが終わるからと答える。アリスは「あと10分ある」と不満そうに言った。
「10分で何ページ読ませる気?」
「凛なら結構いけそう」
私は本をリュックへしまった。
「今日から読むよ」
「ちゃんと返してね」
「アリスも私のまだ返してないでしょ」
そう言うと、アリスは一瞬だけ目を逸らした。
「読んではいるよ」
「忘れてた?」
「読んではいるよ」
「2回言ったね」
アリスは気まずそうに笑った。
貸し借りを始めてから、二人の間で本の話が増えた。好きなジャンルが完全に同じではないので、普段なら自分で選ばない本が回ってくる。それは意外と悪くなかった。
自分一人なら手に取らなかったものを読む。行かなかった店へ行く。食べなかったものを食べる。アリスと一緒にいるようになってから、そういうことが少しずつ増えていた。
大きく何かが変わったわけではない。私は今まで通り本が好きだし、一人でいることも嫌いではない。
ただ、一人でいる以外の選択肢が増えた。
それだけのことだと思っていた。
十一月も2週目に入ると、放課後の教室は窓際から先に暗くなるようになった。
ホームルームが終わっても、アリスはすぐには立ち上がらなかった。リュックの中を探ってから、顔を上げる。
「今日は家寄る?」
「いいよ」
「ほんと?」
「何かあるの?」
ちょっと部屋を片づけたから、とアリスは言う。見せたいのかと聞くと、「違うよ。たまたま」と返ってきた。
そう言う割に、少し嬉しそうだった。
アリスの家へ行くのは、もう珍しくない。駅を降り、見慣れた静かな住宅街へ入る。
「この辺、ほんと静かだね」
「そう?」
「学校の近くと比べたら」
「慣れると普通だよ」
そう言われれば、アリスにとってはこちらが普通なのだろう。
次の角まで来たところで、アリスがふと思い出したように空を見上げた。
「今日は晴れててよかったよね。この前は雨だったし」
「この前って水曜? 晴れてたよ」
「え、そうだっけ?」
「うん。その日は晴れてた」
アリスは足を止めないまま、納得していない顔をした。
「でも、傘さして歩いた気がする」
「歩いたよ。その前のときに」
「前のとき……月曜日かな」
「たぶん。アリスが傘持ってきてなくて、駅まで私の傘に入った日」
「ああ……」
記憶がつながったらしく、アリスは目を細める。
「凛の傘、小さかった日?」
「普通の傘だったよ。天気予報で雨だっていうから持っていったの。アリスが忘れてたからびっくりした」
「寄ってたよ」
「肩、結構濡れてたけど」
「それは凛が傘を私に寄せてくれないから」
「寄せてたよ。私は半分くらい出てた」
「じゃあ二人とも下手だったんだね」
「まとめた」
アリスは笑ってから、もう一度空を見た。今日は雲はあるけれど、雨が降りそうな暗さではない。
「でも、この家に来た日じゃなかった?」
「違う。この家に来たのは水曜。その日は晴れてた。アリスが、傘持ってこなくてよかったって言ってた」
「……そんな気がする」
「そうだよ」
「凛、そういうのよく覚えてるよね」
「アリスが覚えてなさすぎるんじゃない?」
「そこまでじゃないよ」
「雨の日を別の日にしてたけど」
「2日くらいなら誤差だよ」
「天気の2日は結構違うと思う」
アリスはそれ以上反論せず、不服そうに前を向いた。
雨だったか晴れていたかなんて、間違えて困るようなことでもない。アリスも少し考えれば思い出す。それで十分だった。
ずいぶんすれ違う人も少なくなってきたところで、見慣れた家が見えてきた。
アリスが鍵を開ける。
「ただいま」
「私の家だよ。そんなに自分の家が嫌?」
「それもあるけど、アリスの家のほうが帰ってきたなって思えるから」
靴を脱ぎ、2階のアリスの部屋へ向かう。
10畳ほどある部屋は、金髪と名前から想像したものよりずっと簡素だ。勉強机、本棚、低いテーブル、ベッドとテレビ。ぬいぐるみは枕元に一体だけ。初めて来たとき、私はきちんと驚いた。
「ほんとに片づいてる」
「でしょ?」
「普段そんなに散らかってないけどね」
「今日はもっと片づいてるの」
アリスはなぜか得意そうに言いながら、リュックを床へ置いた。
私もいつもの場所に座ろうとして、机の上に置かれた1冊のノートに気づいた。表紙に小さく日付が書かれている。
「日記出てるよ」
部屋を片づけたと言っていたわりに、そういうものは出したままなのかと、おかしくなる。
「あ、出したままだ」
アリスは、いつになく素早い動きで日記を手に取った。
「勝手に見ないでね」
「分かった分かった」
アリスは日記を机の引き出しにしまった。鍵をかけるわけではない。
私はそれ以上、特に気にしなかった。
「飲み物持ってくる」
手伝うかと聞くと、「いいよ。凛は適当に座ってて」と返ってきた。
アリスが部屋を出ていく。
私はローテーブルの前に座り、リュックから借りた本を取り出した。
階下から冷蔵庫を開ける音がして、続いて食器の触れ合う音が聞こえる。
いつものアリスの家だった。
アリスが戻ってきたのは、それから数分後だった。
トレーの上にはグラスが二つと、小袋に入った焼き菓子が乗っている。アリスはグラスと焼き菓子をローテーブルへ置き、いつもの斜め向かいに座った。
「それ、もう読み始めたの?」
「まだ数ページ」
「早くない?」
「アリスが遅かったんだよ」
「ちゃんと飲み物用意してたんだから仕方ないでしょ」
渡されたグラスを受け取る。中身はアイスティーだった。外はだいぶ冷えてきたのに、アリスの家では季節に関係なくこれが出てくることが多い。
しばらく私は本を読み、アリスは机に向かって宿題をしていた。
同じ部屋にいるからといって、ずっと話しているわけではない。お互い好きなことをして、思いついたときだけ口を開く。沈黙が気まずくならない相手というのは、思っていたより楽だった。
ページをめくっていると、後ろからシャープペンシルの音が止まった。
「凛」
アリスの声には、妙な真剣さがあった。
「なに?」
「土曜日、暇?」
本から顔を上げる。
「今週の?」
「うん」
「たぶん空いてる。何かするの?」
「映画観たいなって」
「映画館?」
「違う違う。家で観るの。借りてきて。そのまま泊まっていけば?」
聞き方は軽かった。以前にも泊まったことがあるので、私も特に構えない。
「いいよ」
「ほんと?」
「うん。私の家の方は大丈夫だから」
アリスは嬉しそうに笑ってから、すぐ机へ向き直った。さっきまで止まっていたシャープペンシルがまた動き出す。
その横顔を一度見てから、私は本へ戻った。
土曜日の予定が一つ増えた。
それだけで、その週が少し短くなったような気がした。




