第1章 6
十一月に入ってから、朝の空気が急に冷たくなった。
校舎の窓から見える木々も、いつの間にか色が変わり始めている。昼休みまでは日差しがあればまだ暖かいのに、放課後になると一気に気温が落ちる。アリスは最近、教室を出る前に一度リュックを開けて、薄手のマフラーを取り出すようになった。
その日も同じだった。
「凛、寒くない?」
「少し」
「少しなんだ」
「アリスが寒がりすぎるんじゃない?」
私はブレザーの下にカーディガンを着ているだけだった。アリスはそれに加えてマフラーまで巻いている。
寒いものは寒いよ、とアリスは当然のように言う。冬本番はどうするのかと聞くと、「そのとき考える」と言って、マフラーを巻き直した。
髪を巻き込んでしまったらしく、手間取っている。私は横から手を伸ばして、挟まっていた髪を外した。
「ほら」
「あ、ありがと」
毎回やってないかと聞くと、アリスは「毎回ではないよ。たまに」と言う。結構見るけど、と返すと、「凛が見すぎなんじゃない?」と言われた。
そう言われると反論しにくい。
見ているわけじゃない。ただ、一緒にいる時間が長いから、自然と目に入ることが増える。髪を巻き込む癖も、疲れてくると返事が少し遅くなることも、甘いものを選ぶときだけ妙に迷うことも、気づけば知っていた。
教室を出ると、廊下の窓から夕方の光が差し込んでいた。部活へ向かう生徒が多く、廊下はまだ騒がしい。
アリスはマフラーに口元を埋めたまま、こちらを見た。何かを言おうとして、一度やめて、それから何でもないことみたいに口を開く。
「明日どうする?」
「何が?」
「文化の日」
明日は十一月三日。祝日で学校は休みだった。
予定は特にないと答えると、アリスは「じゃあ出かけない?」と言った。いいよ、と返すと、あまりに普通だったせいか、アリスが一瞬こちらを見る。
「即答だね」
「予定ないって言ったでしょ」
「そうだけど」
「どこ行くの?」
「まだ決めてない」
誘ってから決めるのかと聞くと、アリスは「凛が来るか分かってから考えた方が効率いいかなって」と言った。
「それは確かに」
校舎を出る。
冷たい空気に触れたアリスが、すぐにマフラーへ口元を埋める。そのまま数歩進んでから、「甘いもの食べたい」と言った。
またかと思ったけれど、アリスの中では明日が休日であることが十分な理由になるらしい。休日はカロリーも休みなんだよ、と真面目な顔で言われたので、私は働いてると思うよ、と返した。
「凛ってそういうところ現実的だよね」
「身体の仕組みに夢持たれても困る」
アリスは不満そうな顔をしたあと、すぐに笑った。寒い寒いと言っていたくせに、甘いものの話になると声が弾む。
「じゃあスイーツビュッフェとかどう?」
「結局食べるんだ」
「食べるよ」
「まあいいけど」
私がそう答えると、アリスの顔が分かりやすく明るくなった。そこまで喜ばれると、まあいいかと思ってしまう。
翌日の休日は、昼前からアリスと出かけた。
待ち合わせ場所に着くと、アリスはすでに来ていた。制服ではなく、明るい色のニットに細身のパンツ。学校で見るより大人っぽく見える。
早いね、と言うと、凛が遅いんだよ、と返された。5分前だけど、と言い返しても、アリスは得意そうに「私は15分前」と言う。
「それはアリスが早すぎる」
「待ち合わせって、遅れるより早い方がいいでしょ」
「限度はあるよ」
アリスと学校外で会うとき、いつも最初の数分だけ違和感がある。毎日顔を見ているはずなのに、制服ではないだけで知らない一面を見ているような気がする。でも、その違和感も歩き始めればすぐ消える。
スイーツビュッフェはアリスが見つけた店だった。
店に入ると、ケーキやプリン、焼き菓子が並んでいる。席へ荷物を置くより先に、アリスの目はもうそちらへ向いていた。
「すごい」
「目が本気だね」
アリスはすでに皿を持っていて、視線だけが忙しく動いている。プリンの前で止まったと思ったら、次にはチョコケーキの方へ目を移していた。
「凛も見てよ。プリンある」
「ほんとだ」
「あとチョコケーキ」
アリスの皿には、もうプリンとケーキが並んでいる。
「最初から飛ばすね」
「まだ一皿目だよ」
「一皿目って言った」
「食べ放題だからね」
何を取るのかと聞かれたので、まだ決めてないと答えると、アリスは「遅いなあ」と楽しそうに皿を持って歩いていく。私はその後ろを追った。
こういう場所へ一人で来ることはたぶんない。甘いものは嫌いではないけれど、わざわざ休日に時間を使って食べ放題へ行こうとは思わない。
でもアリスが行きたいと言えば、来てもいいと思う。
その理由をわざわざ考えたことはなかった。
休みが明けた翌日、教室へ入ると、アリスは自分の席で机に突っ伏していた。
「おはよう」
「……おはよ」
眠そうだね、と言うと、アリスは「昨日食べすぎた」と机に頬をつけたまま答えた。胸焼けかと聞けば、「そんな気がする」と返ってくる。
私は自分の席へ荷物を置いてから、アリスの方を見る。
昨日、一番最後に取っていたケーキが余計だったんじゃないかと言うと、アリスは不服そうな顔をした。確実に取りすぎだったのに。
「私は選んだやつの半分だけ」
「残り半分は、私に押しつけたでしょ」
「凛は優しいね」
「都合のいいときだけ言わないで」
アリスは顔を上げると、笑った。
昨日は学校が休みだったのに、今日もこうして同じ教室にいる。
特別な予定があったわけでもない。ただ甘いものを食べて、店を出たあと散歩して、途中で本屋にも寄った。それだけだった。
でも、休日を1日一緒に過ごした翌日にまた学校で会うと、ほんの少し得をしたような気がした。
アリスも同じように思っているかは分からない。ただ、昨日の話をしながら笑っているなら、たぶん悪くはなかったのだと思う。
放課後は、昨日の甘いものがまだ尾を引いているらしく、アリスは珍しくコンビニにも寄らなかった。
駅までの道を歩きながら、私は何度か隣を見る。元気がないわけではない。授業中も普通だったし、昼の弁当もきれいに食べていた。ただ、いつもなら帰り道の途中で「あれ食べたい」「ここ寄りたい」と言い出すアリスが、今日はまっすぐ歩いている。それだけで妙に静かに感じた。
今日はこのまま帰るんだ、と言うと、昨日あれだけ食べたからね、と返ってくる。さすがに反省しているらしい。私が意外そうな顔をすると、アリスは不満そうに眉を寄せた。
「私を何だと思ってるの」
「休日はカロリーも休みって言う人」
「それは昨日の私。今日は平日の私だから」
都合のいい区別だと思ったけれど、言っている本人が妙に真面目な顔をしているので笑ってしまった。
駅が近づくにつれて、学校帰りの生徒だけでなく仕事帰りらしい人も増えてくる。人の流れに合わせて歩いていると、アリスがふと腕時計を見た。
「今日、私こっち」
「何かあるの?」
「病院」
それだけ聞けば十分だった。
アリスが定期的に病院へ通っていることは、前から知っている。最初に聞いたときも、寝つきが悪いとか、そのくらいの話だった。
本人が歯医者に行くくらいのテンションだったから、私も必要以上に聞かなかった。
間に合うかと聞くと、アリスは「うん。だから今日はちゃんと真っすぐ帰ってきたの」と答えた。
「なるほど。反省じゃなかったんだ」
「反省もしてる」
「ほんとかな」
「ほんとです」
改札を抜けると、アリスは反対側に向かう。
「じゃあまた明日」
「うん。また明日」
数歩進んだところで、アリスが振り返った。
「凛」
「なに?」
「昨日楽しかった」
唐突だったので、一瞬返事が遅れた。
「私も楽しかったよ」
「そっか」
それだけ確認すると、アリスは満足したように手を振って行ってしまった。
私はしばらくその後ろ姿を見ていた。
昨日楽しかったかどうかなんて、今日ずっと話していた内容を聞けば分かりそうなものなのに、わざわざ最後に確認するところがアリスらしい。
電車に乗ってから、私はリュックの中の本を取り出した。
いつもなら座れなくてもそのまま読むところだったけれど、その日はページを開く前に窓へ目を向けた。
明日になれば、また学校で会う。
そう思ってから、私は本を開いた。




