第1章 5
翌週、数学の小テストが返ってくる。
答案が配られ始めると、それまで雑談していた教室のざわめきが一段落した。たかが小テストとはいえ、点数が書かれた紙を受け取る瞬間だけは、誰でも多少気になるらしい。受け取ってすぐ裏返す人もいれば、隣の席と見せ合う人もいる。後ろの方では、思ったよりよかったのか、短い歓声が上がっていた。
私のところへ回ってきた答案には、右上に赤い字で98と書かれていた。
2問目の最後。途中式で符号を一つ間違えている。答え自体は合っていたけれど、そこだけ減点されていた。
見直していると、横の席からアリスがこちらを覗き込んでくる。
「何点だった?」
「九十八」
「やっぱり」
悔しがるでもなく、アリスは自分の答案をこちらへ向けた。92点。間違えた箇所には赤い丸と斜線がいくつか並んでいるが、それでも十分高い。
「アリスもいいじゃん」
「でも凛に6点負けた」
「勝負してたっけ?」
「今決めた」
「どれだけ後出しの勝負だよ」
アリスは自分の答案を見返しながら、間違えた問題に小さく印をつけていく。点数そのものより、どこで間違えたのかを気にするタイプなのは前から知っていた。
勉強が得意というより、ちゃんとやる人なのだと思う。授業中に分からなかったところをそのままにしないし、宿題を忘れて慌てているところもほとんど見たことがない。
その向こうで、桐谷が答案を机へ伏せた。
「お前ら、点数高すぎだろ」
そう言う声が、いかにも聞いてほしそうだった。
「桐谷は?」
私が聞くと、桐谷は一度こちらを見てから、露骨に嫌そうな顔をした。
「お前らに言いたくねえ」
「じゃあ70点くらい?」
アリスが横から言うと、桐谷の表情が固まった。
「なんで分かるんだよ」
「顔」
「そんな分かりやすいか?」
桐谷がしぶしぶ答案を見せる。71点だった。
「惜しい」
「何がだよ」
「70点くらいって当たってた」
アリスは楽しそうだった。桐谷は答案を取り返しながら何か文句を言っていたけれど、92点の人間に言われては反論もしづらいらしい。
私はもう一度、自分の答案へ目を落とす。符号を間違えたところを見れば、原因はすぐ分かる。途中で一度マイナスを書き落として、そのまま最後まで計算していた。
答案の端に正しい途中式を書き直していると、アリスがこちらへ身を寄せた。
「それ、まだ気にしてるの?」
「気にしてるっていうか、間違えた理由を見てるだけ」
「98点なのに」
「2点は2点でしょ」
「凛ってそういうところ細かいよね」
「アリスもさっき間違えたところ見てたじゃん」
「私は8点も落としてるから」
「量の問題なんだ」
そう返すと、アリスは当然みたいに頷いた。
休み時間の終わりが近づき、周囲では答案をしまう音が増えていく。桐谷はまだ71点を気にしているらしく、近くの友達と答えを見比べ始めていた。
アリスも答案をしまいかけたところで、思い出したように手を止めた。
「そういえば、前に一緒に数学やったときも、私、ここ間違えなかった?」
「ここじゃないよ。あのときは二次関数」
「え、そうだっけ?」
「夏休み前。図書室でやったやつ」
アリスは首をひねった。
「夏休み明けじゃなかった?」
「前だよ。期末の1週間くらい前」
「よく覚えてるね」
「アリスが途中で飽きて、問題集に猫を描いてたから」
「ああ……」
思い出したらしい。アリスの顔に納得が広がる。
「描いたね。すごい下手な猫」
「自覚あったんだ」
「凛が犬って言ったから覚えてる」
「犬にしか見えなかったよ」
「猫です」
そこだけは譲る気がないらしい。
先生が教室へ入ってきたので、アリスは体を前へ向ける。私も答案を机の中にしまいながら、図書室で一緒に勉強した日のことを思い出していた。
それから、別の日のことまで浮かんできた。
一緒に帰るのが当たり前になってからも、私が図書室へ寄る日はあった。
その日も、読みかけの本を持ってきていた。
授業が終わったら図書室へ寄って、数ページ続きを読んでから帰るつもりだった。急いで帰る理由もなかったし、ちょうど面白くなってきたところだったから、朝からそう決めていた。
ホームルームが終わると、アリスは先に帰り支度を始めた。
「今日、図書室行くんだよね?」
「うん。ちょっと読んでから帰る」
「そっか。じゃあ今日は先帰るね」
「うん。また明日」
アリスはいつも通り手を振って、教室を出ていった。
私は予定通り図書室へ向かった。廊下にはまだ生徒の声が残っていたけれど、図書室の扉を開けると、廊下の声が遠のいた。窓際の席に座って本を開くと、紙の匂いと、ページをめくる小さな音だけが近くにあった。
読むにはちょうどいい環境だった。
それなのに、数ページ進んだところで一度時計を見た。
まだアリスが駅に着くには早い。
もう少し読む。しばらくして、また時計を見る。針はたいして進んでいなかった。教室にいるときはすぐに過ぎる時間が、図書室では妙に長く感じる。
理由は特になかった。
ただ、今日は一人で帰るんだなと思った。
ページをめくっても、さっき読んだところをもう一度読んでいることに気づく。集中できていない。面白くなってきたはずの場面なのに、目だけが文字の上を滑っていく。
私はしおりを挟んで本を閉じた。
このまま座っていても、読み進められそうになかった。
図書室を出て、階段を下りる。廊下には部活へ向かう生徒の声が残っていて、窓の外からはグラウンドの笛の音が聞こえていた。さっきまで静かすぎたせいか、その音が妙に遠く感じられた。
校門まで来たところで、前方に見慣れた金色の髪が目に入った。
まだ間に合う。
そう思ったときには、自然と歩く速度が上がっていた。
「アリス」
呼ぶと、アリスが振り返る。
「凛? 本は?」
「今日はやめた」
「なんで?」
「なんとなく」
それ以上は説明しなかった。説明できないほど複雑な理由ではないけれど、口に出すには少しだけ形がなかった。
アリスも深く聞かなかった。ただ、少し嬉しそうに目を細めて、「じゃあ一緒に帰れるね」と笑った。
その日は、一人で本を読むことより、アリスと二人で帰ることを優先した。
放課後になると、私はリュックへ最後の教科書を入れる。
顔を上げると、アリスがこちらを見ていた。
「帰ろ」
「うん」
今では、それだけで済む。




