第1章 4
「凛、今日静かじゃない?」
横から声をかけられて、一拍遅れてアリスの方を見る。駅へ向かう道は、放課後の生徒でまだそれなりに混んでいる。前を歩く二人組のリュックが、視界の端で揺れていた。
「そう?」
「そう。さっきから私ばっかり喋ってる」
言われてみれば、返事はしていたけれど、たしかにいつもより少なかったかもしれない。アリスの話は聞いていた。ただ、聞いていることと、同じだけ返事をすることは別だ。
聞いてるよ、と返すと、「それは知ってるけど」と納得しきっていない顔をされた。歩きながら私の横顔を覗き込んでくる。肩が触れそうになった。
眠いのかと聞かれたので、ちょっと、と答える。すると、やっぱり、と最初から分かっていたみたいに頷いた。たぶん、さっきから様子を見ていたのだろう。授業中にどのくらい目が開いていたかまでは、できれば確認しないでほしい。
最後の授業が悪い、と言うと、「先生のせいにするんだ」と笑われる。
「午後一番ならまだ耐えられたと思う」
最後だから寝ていいってこと、と聞かれたので、寝てないよと否定する。けれど、アリスはまったく信用していない顔だった。
「目、半分くらい閉じてたよ」
「ちゃんと開いてた」
「その言い方、怪しいなあ」
アリスは笑っている。心配しているというより、私の言い訳を面白がっている顔だった。
別に眠かっただけで、体調が悪いわけではない。それ以上は気にしなかったらしく、歩幅を戻して前を向く。信号の手前で人の流れが詰まり、私たちは自然に足を緩めた。
「そういえば、今日の現代文で先生が言ってた本、凛読んだことある?」
「どれ?」
授業の最後に出てきたやつ、と言われても、すぐには浮かばなかった。タイトル何だっけ、と聞き返すと、アリスは嬉しそうな顔をした。
「そういうときは覚えてないんだ」
「忘れたんじゃなくて、ちゃんと聞いてなかっただけ」
「それ、忘れたより悪くない?」
「興味がなかったんだよ」
「本の話なのに?」
「本の話なら全部聞いてるわけじゃないよ」
アリスは妙に納得したように頷いた。「なんだ。ちょっと安心した」と言うので、何に、と聞くと、「凛にもそういうことあるんだなって」と返ってくる。
私だって、興味のない話は普通に抜ける。さっきの本のタイトルも、先生が脱線気味に出しただけだったから、きちんと拾えていなかった。もっとも、それをわざわざ丁寧に説明すると負けた気がするので、私は何も言わなかった。
「じゃあ本屋寄ろうよ」
そう言うと、アリスはもう行き先が決まったみたいに顔を明るくした。急だね、と言うと、「タイトル思い出したら読んでみたい」と返ってくる。
「思い出してないのに?」
「本屋行ったら思い出すかもしれない」
「ずいぶん本屋を信用してるね」
そう言うと、こちらを見て笑われた。
「凛も好きでしょ?」
そう言われると、否定できない。行き先がコンビニでもカフェでもなく本屋なら、私に断る理由はあまりない。
普通に帰るはずだった予定は、あっさり変更になった。こういうことも珍しくない。アリスと一緒に帰るようになってから、帰宅時間は以前ほど一定ではなくなった。
駅前の書店に着くころになっても、アリスは授業で出てきた本のタイトルを思い出せずにいた。それでも店が見えると足取りは軽くなる。思い出せない本を探しに来たはずなのに、目はもう入口の新刊へ向いていた。
「ここまで来たのに」
「本屋の中に入れば思い出すでしょ?」
「その予定」
「都合のいい予定だね」
自動ドアを抜けると、紙とインクの乾いた匂いがした。新刊の平台では、表紙より帯の煽り文句の方が目立っている。
アリスは新刊棚の前で足を止める。先生が言っていた本を探しているというより、まず目についたものを眺めているだけに見えた。表紙を1冊ずつ追って、気になったものの前で足を止める。その横顔は真剣なのに、目的はもう半分くらい忘れていそうだった。
私はその横を抜けて、奥の文庫コーナーへ向かう。もう目的があるのかと後ろから聞かれたので、ちょっと気になっている本がある、と答えた。するとアリスは、じゃあ先そっち見よ、と悪びれた様子もなくついてくる。
「アリスの本は?」
「思い出してない」
「でしょうね」
こういうときの切り替えは早い。忘れたことを気にするより、今目の前にあるものを楽しむ方にすぐ移れる。
文庫コーナーのミステリ棚には、平積みの本と背表紙だけの本がぎっしり並んでいる。新刊の帯には、名作だとか衝撃だとか、読者を煽る言葉が大きく刷られていた。そういう言葉を全部信用するわけではないけれど、嫌いでもない。
前から気になっていた1冊を見つけて、手に取る。表紙を確認してから裏返し、あらすじを読む。数行読んだところで、隣から金色の髪が視界に入ってきた。
それ買うの、と覗き込まれる。近い。文字を読むには邪魔だったけれど、追い払うほどでもない。
「たぶん」
「また人が死ぬやつ?」
「ミステリを何だと思ってるの」
アリスは少しも迷わず、人が死んで、凛が楽しそうに犯人を考えるやつ、と答えた。
すごく印象悪いな、と言いながら裏表紙にもう一度目を落とす。少なくとも一人は死ぬらしい。今のところ、アリスの分類は間違っていない。
「否定しきれないのが嫌だね」
アリスが笑う。私は本を戻さず、そのまま手に持っておくことにした。
「凛って、読む前に犯人考える?」
「読む前には無理でしょ」
「途中から」
「考えることもあるよ。でも当てたいっていうより、作者が何を隠してるのかなって考える方が好きかも」
私がそう言うと、眉を寄せられた。難しい話をされたというより、面倒な遊び方を見つけた人を見るような顔だった。
「面倒くさい読み方してる」
「普通だよ」
「絶対普通じゃない」
そう言い切られると、反論しづらい。私にとっては普通でも、アリスにとっては違うのだろう。
アリスにどうやって読むのかと聞くと、面白かったら読む、と迷いなく返ってきた。ずいぶん適当な答えだね、と言うと、「読書なんてそれでいいでしょ」と返される。
それはそうかもしれない。私があらすじや作者名や帯の文句を気にしている間に、アリスは面白そうかどうかだけで決めている。雑に見えて、たぶんその方が本には正しい。
私が本を持ったまま別の棚へ目を移すと、アリスも隣をついてきた。棚の前をゆっくり移動しながら、背表紙の文字を目で追っていく。
アリスは私ほど早く読まない。気になったタイトルの前で足を止め、表紙を見て、また戻す。その動きがどこか慎重で、でも楽しそうだった。
しばらくして、アリスが1冊の文庫本へ指を掛け、棚から引き出した。
「これ、有名なやつだよね」
背表紙には、『そして誰もいなくなった』と書かれていた。
「有名だね。2回は読んだ」
「面白いんだ」
「面白い。かなり」
そう答えると、アリスは本を棚から抜いて表紙を見た。私が迷わず答えたのが意外だったのか、目つきが真剣になる。
「じゃあ今度読んでみようかな」
「学校の図書館にもあると思うよ」
「なら今度借りる」
そう言って、その本を棚に戻した。
それから隣の棚へ目を移し、帯のついた別の文庫本を手に取る。表紙には知らない作家の名前があった。アリスは裏表紙のあらすじを読み、一拍置いてから、こちらへ表紙を向ける。
「これは?」
「知らない。新しいやつみたい」
「凛でも知らない本あるんだ」
「本なんて無限に近いほどあるんだから、知ってるはずないよ。毎日新しいのも出るし」
アリスは、へえ、と感心したような顔をして、もう一度あらすじを見る。今度は帯の文字まで丁寧に読んでいた。
「じゃあ、こっちにする」
「どういう決め方?」
「凛が知らないなら、二人とも初めて読めるでしょ」
その言い方が妙に得意そうだった。
私の影響で、アリスが以前より本を手に取るようになったのは分かっていた。でも、私が知らない本を探してくるとは思わなかった。そういう探し方をされると、少しだけくすぐったい。
「失敗しても知らないよ」
「そのときは二人で失敗できるね」
「前向きだなあ」
アリスは満足そうにその本を持ったままにした。
凛のは、と聞かれたので、こっちはまだ読んでない、と手に持っていた本を掲げる。アリスは「じゃあ、読み終わったら貸して」とすぐに言った。
「いいよ。アリスのも貸してくれる?」
「もちろん」
返事が早い。たぶん、そうするつもりで選んだのだろう。
「じゃあ、2冊読めるね」
「高校生のお財布に優しいね」
「大事だよ」
アリスは真面目な顔で頷いた。本当に大事だと思っているらしい。私もそれには同意だった。読みたい本を全部買っていたら、すぐに財布が軽くなる。
そのまま二人でレジへ向かう。私は1冊、アリスも1冊。会計を済ませて店を出るころには、リュックがさっきより少しだけ重くなっていた。
外に出ると、駅前のざわめきが戻ってくる。書店の中では気にならなかった車の音や、信号の音や、どこかの店から流れる音楽が一度に耳へ入ってきた。
「結局、授業で出てきた本は思い出さなかったね」
「……あ」
アリスが本気で今気づいた顔をする。入口を振り返ったところで、もう思い出す気はなさそうだった。
今気づいたのかと聞くと、アリスは「完全に忘れてた」と言った。本屋への信頼はどうしたの、と続けても、「別の本に負けた」と気にした様子もない。弱い信頼だったなあ、と返せば、「でも1冊買えたからいいの」と笑う。
「目的変わってるけどね」
こういうところは、羨ましい。目的がずれても、面白そうなものを見つけたならそれでいい。私はたぶん、最初の目的を思い出せないままだと引っかかる。
「凛、どっちが先に読み終わるかな」
駅へ向かいながら、アリスが袋の上から本の角を指で押さえる。競争するのかと聞くと、「ちょっとだけ」と楽しそうに言う。
「急いで読むの嫌なんだけど」
「じゃあ凛は普通に読んで。私が勝手に競争する」
「それ競争になってないよ」
「私が勝ったら勝ち」
「ずるいな。今度それ、私も使うから」
アリスは楽しそうだった。読む前からもう、読み終わった後の話をしている。その軽さにつられて、こちらまで少しだけ楽しくなる。
駅へ向かって歩きながら、アリスは買った本を一度リュックから出した。さっき店で見たばかりなのに、表紙をもう一度眺めている。新しい本を買ったあとにそうしたくなる気持ちは、よく分かる。
「これ、読み終わったらちゃんと貸すからね」
「アリスが覚えてたらね。ちゃんと覚えてられる?」
「そこは覚えてるよ」
「さっき本屋に来た目的忘れてた人が言ってもなあ」
アリスは本を胸の前に抱えたまま、むっとした顔をする。
それとこれとは別だと言うアリスに、都合いいね、と返す。凛が覚えてるから大丈夫でしょ、と当然みたいに言われたので、私はため息をついた。
「私頼みなんだ」
「便利だからね」
「人を便利機能みたいに言わないで」
アリスが笑う。私もつられて笑った。
結局その日も、普通に帰るはずだったのに寄り道をして、本を1冊ずつ増やした。
こういう予定外なら、悪くないと思った。




