第1章 3
翌日の昼休み。
私は自分の席で本を読んでいる。
昼食を終えた教室は、午前中の授業中とは違う種類の騒がしさで満ちていた。机を寄せたまま話している子もいれば、購買で買ったパンの袋を丸めている子もいる。窓際では男子たちが昨日のテレビの話をしていて、笑い声がときどきこちらまで飛んでくる。
アリスは友達に呼ばれて、教室の向こうの席で話していた。楽しそうに相槌を打っているけれど、こちらから見る限り、話の中心にいるというよりは、輪の端で笑っている感じだった。
戻ってくるまで、数ページ続きを読もう。
そう思ってページを開いたところで、頭の上から声が降ってきた。
「凛、また本読んでんの?」
声だけで誰か分かった。顔を上げると、桐谷直人が机の横に立っている。用があって来たというより、近くを通ったついでに引っかかってきた顔だ。
見れば分かるでしょ、と返すと、桐谷は「いや、よく読むなと思って」と悪びれずに言う。何しに来たのかと聞けば、話しかけただけだと言った。
「本読んでる人に?」
「そう」
「邪魔してる自覚ある?」
「ちょっとは」
あるなら帰ればいいのに。
私がしおりを挟もうとすると、桐谷は悪びれた様子もなく本の表紙を覗き込んできた。距離の詰め方が雑だけど、嫌な感じがするほどではない。そのへんが、たぶん桐谷の得なところなのだと思う。
「本を読んでる凛ってかっこいいよな」
女子に向かってかっこいいはないでしょ、と返すと、桐谷は「悪かったって。凛は美人だもんな。次からはそう言うわ」と笑った。
「次なんてなくていいから」
片手でしっしっと追い払うと、桐谷は「犬じゃねえんだから」と言う。じゃあ自分で帰って、と返すと、「扱いひどくない?」と不満そうな顔をした。
それでも帰る気はないらしい。
そう思っていると、向こうの席の輪がほどけた。アリスが戻ってきて、私の横の自分の席に座る。私と桐谷の顔を順番に見て、それだけで何か察したらしく、口元を緩めた。
「また桐谷くん凛にアピールしてるね。成果はあったのかな?」
「全然ないね。1ミリもないって、こういうときに使う言葉だね」
本人の前で言うのかとアリスが笑う。聞かれたから、と返すと、桐谷が「俺には聞かれてねえだろ」と割り込んだ。
アリスは笑って、自分の机に片手を置く。さっきまで友達の輪の中にいたときより、声が近く聞こえた。
「彼氏はいらない? 桐谷くんいい人だよ? かっこいい……? と思うし」
「疑問形なんだ。やっぱり1ミリもないね」
白石までひどくないか、と桐谷が言うと、アリスは「ごめんごめん。桐谷くんはいい人だと思ってるよ」と笑った。
「『は』ってなんだよ」
「そこ気にするんだ」
アリスがまた笑う。桐谷は何か言い返そうとしたけれど、昼休み終了前の予鈴が鳴った。
「ほら、戻った方がいいよ」
凛が追い払いたいだけだろ、と桐谷は言う。私は「それもある」と答えた。
「否定しろよ」
桐谷は呆れたように言いながら、自分の席へ戻っていった。
私はしおりを抜く。
「ほんとに1ミリもないの?」
アリスが小声で聞いた。
「ないよ」
「即答」
「だってないし」
桐谷くん、結構人気あるのに、とアリスは不思議そうに言う。私はページに視線を戻しかけながら、「じゃあ好きな人が付き合えばいいんじゃない?」と答えた。
「正論」
「アリスは?」
「私?」
「さっきいい人だって言ってたじゃん」
アリスは一拍置いて、「いい人と付き合いたい人は別でしょ」と言った。
「それも正論だね」
「でしょ?」
アリスは満足そうに頷いた。予鈴が鳴っているのに、まだ体をこちらへ向けたままだ。
授業始まるよ、と言うと、アリスは「分かってる」と答えながらも前を向かない。
「なら前向きなよ」
「あと1分ある」
「そういうところだけ時間に正確だね」
「凛ほどじゃないよ」
そう言って、アリスはようやく体を前に向けた。
私は本にしおりを挟んで、机の中にしまう。
桐谷が人気があるかどうかは、本当にどうでもよかった。いい人なのも、たぶん本当だと思う。でも、それと付き合いたいかどうかは別だ。
そこまでは分かる。
分かるのに、アリスが同じことを言ったのが、妙に頭に残った。
アリスは誰かを思い浮かべて、ああ言ったのだろうか。
私は考えるのをやめ、現代文の教科書を机に出して、先生が教室に入ってくるのを待った。
午後の授業が終わるころには、昼休みに読んでいた本の内容より、眠気の方が勝っている。
最後のホームルームが終わると、教室の空気が一気に緩む。部活へ向かう人、友達と話し続ける人、さっさと帰る人。それぞれが好き勝手に動き始める中、私は教科書をリュックへ入れた。
「凛、帰れる?」
横から声をかけられる。顔を上げると、アリスはもう帰り支度を終えていた。
帰れるよ、と答えると、今日どこか寄るかと聞かれる。昨日プリンを食べたばっかりだけど、と返すと、アリスは「別に毎日甘いもの食べようって言ってないよ」と不満そうに言った。
「アリスなら言いかねないから」
「私をなんだと思ってるの」
「甘いものが好きな人」
「普通だった」
アリスは残念そうな顔をする。
「じゃあ今日は普通に帰ろっか」
「そうしよう」
二人で教室を出る。
最近は、どちらから「一緒に帰ろう」と言うこともほとんどなくなった。放課後になれば、帰れる方が相手を待つ。どちらかに用事があればその場で言う。それだけで十分だった。
いつからそうなったのか、はっきり覚えているわけではない。けれど、最初のきっかけなら覚えている。
入学してからしばらくのことだった。
その日も授業が終わると、私は一人で帰るつもりで教室を出た。
校門を抜けて駅の方へ歩いていると、前方に金色の髪が見えた。アリスだった。
声をかけるほどのことでもないかと思ったけれど、歩いているうちに距離が縮まった。同じ信号で止まったところで、向こうが先に私に気づいた。
「あ、凛」
アリスもこっちなんだ、と聞くと、「うん。駅までだけど」と返ってくる。私も、と答えると、アリスは少しだけ笑った。
「じゃあ一緒に帰る?」
「いいよ」
それが最初だった。
話してみると、駅までの道だけで終わらなかった。使う路線も途中まで同じで、降りる駅こそ違うものの、思っていたより長く一緒にいられた。
アリスは、凛ってずっとこの学校なんだよね、と聞いた。中学からね、と答えると、「じゃあ帰り道も詳しい?」と言う。
「学校じゃなくて道の話なんだ」
「信号に引っかからない道とか」
知らないよ、そこまで攻略してない、と答えると、アリスは不満そうに「思ったより役に立たない先輩だ」と言った。
「同級生でしょ」
「内部進学の先輩」
「勝手に制度作らないで」
そんな話をしているうちに、アリスが降りる駅に着いた。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
次の日も帰る時間が重なった。
その次の日も。
毎日一緒だったわけではない。私が先に帰る日もあったし、アリスに用事がある日もあった。それでも、放課後に教室を出る前に相手の様子を見ることが少しずつ増えていった。
最初は「今日帰れる?」「帰れる」くらいだった。
そのうち、「帰ろ」「うん」に変わった。
毎日一緒に帰ろうなんて約束はしてないけど、一緒に帰るのが当たり前。そんな関係になっていた。




