第4章3
アリスは、私が助けられなかったから死んでしまった。それだけのことだった。
私がコンビニなんかに行かなければよかった。アリスの部屋へ戻ったあと、身体が動かなくならなければ、アリスは死ななかったはずだ。
時計を時刻として理解できるようになった頃には、私は二時間近く床にいた。
私が動けなかったのは、強直性不動と呼ばれる反応が一因らしい。そこに解離と混乱も重なっていた可能性が高い。簡単に言えば、極度のストレスによって、身体も思考も長時間まともに働かなくなっていたのだ。
そして、身体と思考がある程度戻った私は、行動を再開する。
アリスを失った。
それも私のせいで。
もし私がコンビニに行こうとしなければ。
もし私がもっと早く戻っていれば。
もし私がアリスの部屋の扉を開けたときに、身体が動かなくならなければ。
もし私がアリスの家に行かなければ。
もし私が……。
頭では分かっている。こんな「もしも」を考え続けるのは意味がないと。アリスは自殺した。自ら死を選んだ。それが事実で、現実だ。
だけど心では違う。アリスの死を理解しようとするのを拒む。自分が最善の行動を取っていれば回避できたのではないだろうか、そう繰り返し考えてしまう。
そもそも私がアリスとここまで仲良くならなかったら今でもアリスは健在だったのかもしれない。
私のせいでアリスは死んだ。私がアリスを殺した。とにかく罪悪感が私の心と身体を闇で包もうとする。まだ思考力は完全に戻ってきていない。だからなのか、私の心はめちゃくちゃだ。
私は自分が直接見たものや起こった出来事を忘れない。つまりアリスの死の場面を一生忘れることができない。それは幾度も私を苛むだろう。まるで長い長い楔のように。
当たり前のことだが、私にとってアリスは大切だ。関係が冷え切った家族より遥かに大切で、世界で一番大切な人だと思っている。たとえそれがどういう感情だとしてもだ。
今日私はアリスと喧嘩した。いつもなら喧嘩することがあっても10分も経てば、仲直りしていた。だが今日は違った。あんなふうにアリスが大きな声を私に向けたのは初めてだった。
仕切り直して仲直りしよう。それが失敗だった。私はアリスの行動を予見できなかった。
少し時間を空けて、プリンでも買って帰れば仲直りできるだろうと思っていた。それだけじゃない。私はアリスが自分に向ける感情の種類を理解していたし、アリスがなぜ怒ったのかも分かっていた。
だから一生懸命アリスに向ける言葉と気持ちを考えた。それ自体は間違っていないと思う。だがそれでもやはり間違えていた。私が外に出ている間に薬を取り出し、大量に飲んだ。想定できなかった。アリスが私がいない数十分の間に服薬自殺を図ろうとするなんて予想不可能だ。それでも私はアリスを殺した。その気持ちは一向に晴れない。どうして動けなかったのか。何度も何度も悔やんでしまう。扉のそばに落ちているプリンの袋は答えてくれない。当たり前だ。
大切な人を失った時、人は涙を流すのだろう。多くの人は、涙を流した分だけ少しずつ心を整理し、やがて前を向いていくのかもしれない。では、涙を流せなかった人はどうなるのだろう。私はアリスが死んだのに、泣くことも、叫ぶことも、自暴自棄になって暴れることもない。ただ悲嘆に暮れ、後悔を重ねるだけだ。
アリスの死を確信したあとも、なぜ私は救急車を呼ばなかったのか。自分でも納得のいく答えを出せない。
おそらくもう少しアリスと一緒にいたかったからだと思う。
せめて私が落ち着きを取り戻せるまで。
アリスが死んだその事実を現実として受け止められるまで。
思考力が十分に戻ってきたようだ。
私はもう一度アリスの顔を見た。
さっきまでは落ち着いて見ることを忘れていたが、本当に眠るような表情をしている。
アリスは満足して逝けたのだろうか。それとも自殺に、満足のいく死に方などないのだろうか。
現実に不満があったから自殺したのは間違いないだろう。そして、直前まで一緒にいた私との喧嘩が、その引き金になったのも間違いないだろう。
アリスの顔をもっと眺めていたいが、アリスの部屋を見て回ることにした。救急車を呼ぶのはその後にでもできる。
まず部屋で目立つのはバラバラに散らばる薬のシートだ。私は以前、睡眠導入剤を見かけたが、それとは明らかに違う薬が複数ある。
アリスは私にも明かしていなかった病気があったのだろう。それも大量に服薬すれば、死に至る可能性がある薬を日常的に飲んでいたのだ。私はアリスが踏み込んでほしくなさそうだったため、聞かずにいたのだが、少し無理をしてでも聞くべきだったと後悔した。
私はそのシートたちを触らないように気をつけながら薬名、シートの数、形状を順番に確認する。忘れる心配はない。後でアリスの病気を調べるためだ。これは後々アリスを理解するのに必要になるだろう。
さらに部屋を観察する。それと同時にアリスの自殺は計画されていたものか、突発的なものなのかを考え始めた。私との喧嘩が一因となっているはずだ。それに散乱した薬のシートの様子から急いで薬を取り出したように見える。その結果、私はアリスの自殺は計画的なものではなく、突発的なものだと推測した。
突発的な自殺だとすると、遺書や、それに類する言葉を残す余裕はなかったかもしれない。だが、残されているか確かめる必要がある。アリスの気持ちを知らなければならない。
もう一度部屋を見渡した後、私は目を瞑って考える。アリスが何らかのサインを残すとしたらどこだ? そしてすぐにその答えに行き着いた。
日記だ。それ以外ありえない。
アリスの日記は五月に二人で本屋に行った時、アリスが購入したものだ。アリスは見ないでと言っていたが、引き出しにも入れず、机の上に置きっぱなしになっていることも多かった。
アリスには悪いが、どうしてもその思いを知りたい。今日、何を考えていたのか。その手掛かりが残されているとすれば、この日記だ。
日記は、机の上の本立てに、ほかの本と並べて差してあった。本当に隠すつもりがあったのか疑いたくなるほど、日記は無防備に置かれていた。
私はその可能性に一縷の望みを託し、ページをめくった。だが、今日の日付で書かれたものも、今夜の行動を説明するような文章もなかった。
思いつく限りのアリスの今日の考えを知る方法は潰された。
しかし、答えは日記の中にあるはずだ。私は昨日の日記を確認することにした。アリスに死ぬ予兆はあったのか、あったとすればどういったものなのか。十一月十七日、つまり昨日の日記を読んだ。
十一月十七日
最近ちょっと嫌なことがあります。桐谷くんから相談を受けることです。
相談内容は凛のことです。桐谷くんが凛を好きだなんて女子はみんな知っています。そして凛自身も。桐谷くんが私を相談相手に選ぶ理由はわかります。凛と一番仲がいいのは私だから。
でも、だからって私にどれだけ凛を好きなのか、凛は誰を好きなのか、どうしたら振り向いてくれるのかそんなこと聞かないでほしい! そんなこと、私が一番知りたい! 私が一番凛を好き!
きっと凛は私のことを大切に思ってくれてると思う。もしかしたら家族よりも。言いすぎかな? でもそんなふうに思う。だけどそれがどういう種類の「大切」に思ってくれてるのかわからない。私と同じ感情だとうれしい。そんなことばかり思う。
たぶん凛は変化を望んでないんだと思う。そういう気持ちは私にもあるから。でもこの気持ちを打ち明けないでいるのはつらい。
だけど言ってしまったら変わってしまう。きっとたくさんのことが。それは凛にとっていいことなのかな? わからないよ。
いつか言えるといいな。いつになるかわからないけど、きっと言う。「私はあなたを好きです」って。
そしてずっと一緒にいるんだ。それが私の夢なのです! 凛、大好き!
死ぬ予兆など、どこにもなかった。むしろアリスは、私との先を考えていた。
正直アリスがこんなことを考えてるなんて、思わなかった。
私のことを好きでいてくれるのは知ってる。その感情に多くの恋愛感情が混ざっていることも。だけどそれはもっともっと可愛いものでこんなに全身で伝えてくるような強いものだとは思わなかった。
アリスと一緒にいたときの思い出が一気に逆流してくる。そこには受け止めきれないほどの愛情が溢れていた。ふたりでいるときには他の時と違って、距離を縮めてくるアリス。私にしか見せない、私を振り回してくるアリス。頼み事があるときに上目遣いになっているのに気がついていないアリス。私にしか見せない目を奪われるようなキラキラした笑顔のアリス。そして私が誰よりも大切に思っているアリス。誰よりも私のことが好きと書いてくれていたアリス。
私は自然に涙が溢れてくるのを感じた。やっとお互いに好きな気持ちが一緒であると分かったのに肝心なアリスがいない! アリスを失って初めて、自分がどれほどアリスを好きだったのかに気づいた。
自分の感情が分からなくなった。アリスを失ったのにこの時、初めて気づいたのだ。私は床に手をついて声を上げて泣いた。ぐちゃぐちゃな、よく分からない感情は、私の理性を奪ってしまったようだ。私の涙は止まらない。まるで壊れた蛇口のように涙とあふれる感情を床にこぼしていく。
アリスと過ごした部屋で私は一体何をやっているのだろう。ここは私にとって楽園だった。きらいな家から逃げ、大好きなアリスと他愛もない話を続ける、一種の幸せの象徴だ。悲しい気持ちなんて入り込む隙間など少しもなかった。
しかし今はどうだ? アリスは死に、私は泣き続ける。こんな光景、昨日の二人が見たら信じられるだろうか?
いや、無理だろう。私がアリスの死を予見できなかったように、アリスもまた死ぬ気なんてなかっただろう。平穏で楽しいあの時間はもう返ってこない。たくさんの幸せな感情を生み出す部屋は地獄のようだ。
しかし時間とは、ときに優しい姿を見せる。私に理性を返してくれたのだ。床にいくつもの涙の跡が残っていた。目元を触った。まだ完全に涙は止まっていないが、落ち着きつつある。私はスカートからハンカチを出し、目元を拭いた。あれだけ泣いた後だ。泣いた跡はどうやっても隠せないだろう。
私はもう一回アリスの日記に目を通すことにした。同じページに目を通す。アリスは私に求めていたことがあったはずだ。
「そしてずっと一緒にいるんだ。それが私の夢なのです!」
アリスはこんなことを夢にしていたのか。小さい夢だな。アリスが生きていれば、私はそんなことを言ったかもしれない。
だけど今私ができるのは、こんな小さな夢でも、かなえてみせることだ。たとえアリスが死んでいたとしても。
ここからは真面目に頭を使わなければならない。まず、救急車を呼ぶのは無しだ。車を呼べば、アリスはすぐに連れていかれる。逆にタイムリミットを考える。アリスのお母さんが二十五日に帰ってくるはずだ。だからタイムリミットは二十四日の夜までだ。つまり今日を含めて1週間は一緒にいられる。そして私は正確にはずっと一緒にはいられない。私まで学校を休めば目立ちすぎる。だから私は学校に行く必要がある。幸いアリスは実質一人暮らし状態だ。アリスが休むことは珍しくない。明日十九日はごまかすのが容易だろう。家へ行ったことは隠さなくていい。聞かれたら、家には行ったとだけ答えればいい。二十、二十一日は土日だ。ごまかす必要はない。二十二日は担任も疑問を持ち始めるだろう。クラスメイトの一部も。それとなく行動をコントロールする必要が出てくる。二十三日は祝日。二十四日、最後の日だ。クラスメイトはともかく、担任は厄介だ。担任はほぼ確実に私に確認に来るだろう。アリスはどうなのか。連絡が取れない。そのあたりだろう。だが、私は担任が私を高く信頼していることを知っている。普段からいい成績を取っておいた効果だ。私が「明日、アリスのお母さんが帰ってくるので、そのときに電話したらいいですよ」と話せばいい。これで、私の行動とアリスの不在を隠す準備はできた。
あと3つ問題が残っている。一番厄介な問題からいこう。警察だ。
私はこの一週間を他の人間に明かすつもりはない。その際に一番面倒になるのはどう考えても警察なのだ。まず間違いなく私がこの部屋にこの時間にいたことはバレるだろう。だがそれだけですぐ問題になりはしない。私が疑われるのは避けられない。ならば、警察には私を疑わせておけばいい。ここで何があったのか、それは二人の秘密にしたい。幸いにもそれは他の問題と同時に解決できるので、後回しだ。十九日以降、アリスの家に通っていたことはどうやっても隠し通せない。だからここは開き直るしかない。とにかく今日何があったのか、それを隠し通せれば十分だ。
次はアリスの体のことだ。アリスの身体はどうしても腐敗が進んでしまう。見た目や匂いなど、私は気にしないが、アリスは気にするかもしれない。私は迷わずエアコンのリモコンを取り、クーラーを最低温度に設定した。リモコンには以前から何度も触れている。暖房も冷房も操作したことがある。どのボタンから私の指紋が見つかっても、それが十一月十八日についたものだとは証明できない。指紋が重なって不鮮明になれば、なおさらだ。むしろ下手に細工をするほうが目立つだろう。それに、部屋を低温に保てば、死亡時刻も絞りにくくなる。アリスの身体を守ることが、そのまま十八日の夜を隠す助けにもなる。
最後はアリスの家への出入りの方法だ。私はアリスの部屋の扉の近くに落ちている鍵を回収した。鍵はアリスから借りたままで、まだ返してと言われていない。そんな屁理屈を通すことにした。
この鍵は悩んだ結果、アリスの家の玄関の郵便受けに入れることにした。他人に利用されるという危険性はあるが、私の家へ持ち帰ったり、学校へ持っていったりするより、こちらのほうが危険性が低いと考えたからだ。
そこまで決めると私は時計を確認した。20時50分だ。これ以上時間が遅くなるのは避けたい。私は日記と、扉のそばに落ちていたプリンの袋を鞄に入れた。アリスから借りた鍵で施錠し、鍵を門柱の郵便受けに入れ、アリスの家を去った。




