その2
バイトを終え、帰宅した頃には日が暮れかけていた。居間の電気を点けると、出掛けたときと同じ場所でエヅナは横になったままだった。ただ、いつから目を覚ましていたのか、彼女は天井をじっと目を見開いて見つめていて、死んでいるのかとさえ悠一は思ったが、ぎょろりと、眼球だけを向けてきたので飛び上がってたじろいだ。
いつ起きたのか恐る恐る訊ねると、ちょうど三十七分前、と彼女は答えた。それから何も言わなくなったので、悠一はついでに買ってきた出来合いのおかずやペットボトルの水を彼女に勧めてみた。水を欲しがったが、身体を動かす余力はテレポーテーションでほとんど使い切ってしまったようで、無遠慮に口に突っ込んでほしいと言われた。二リットルをこのまま? と思ったが、構わず蓋を開けて逆様に彼女の口に突き立てる。
ゴッボッボッボッボッ、彼女は凄まじい勢いで吸飲していた。口を通して直接体内にぶちまけているような感覚だった。それを十秒足らずで飲み干したエヅナは礼を言った。悠一はまさかそんなこと言われると思ってなかった上に、大した事をしたつもりもないので適当に返事をした。
やや間があって、感謝の気持ちが伝わっていないようだ、とエヅナに言われた。これまた変なことを言うものだから、台所に向かおうとしていた悠一は改めてエヅナを見た。
彼女は相変わらず、無表情だった。凛々しい顔付きのせいもあって寒くなるような冷たさだ。悠一がこれまでに見た誰よりも美しく、誰よりも空虚な女性の形をしたもの。人間味がないと思って、そこで、人形みたいってこういうことを言うんだろうなと納得した。
私は悠一に感謝している。感謝という気持ちを藤森玲子という肉体を通して学んでいる。私はお前に恩を返さなければならない。と、そんな仰々しいことをエヅナは言った。
鶴の恩返しならぬ異次元人からの恩返し、か。奇妙なことに巻き込まれたなと、悠一は今更ながらに思った。それから、そんなものは要らないし、されるような人間でもないと伝えた。何故、と問われる前に彼は自分の過去について話すことにした。
大学を中退した際に両親に勘当されたこと、アルバイトで食い扶持をつないでいること、それから、詐欺師になりたいという夢を持っていることである。
悠一は幼少期、両親と父方の伯父の四人で暮らしていた。伯父は無職者だった。悠一が生まれるより以前に他界していた祖父母の遺言によって家の所有権は伯父にあり、父は彼を支えるように義務付けられていたようだった。両親は共働きでほとんど家にいなかった。学校から帰ると伯父は必ず家にいるわけだが、顔を合わせることは滅多になかった。両親から伯父には関わらないよう口酸っぱく言われていたし、恐らく伯父も同じように言われていたのだろうと今の悠一は思い返す。
伯父はだらしない人間だった。無精髭を生やした小太りで、いつもタンクトップ姿。歪んだ眼鏡を掛けていて、レンズは指紋で余汚れていた。両親の金で酒を飲み、部屋からは絶え間なく大きな音量でテレビの音が流れていた。廊下等で擦れ違うと独り言を言っていて必ず、仕方のないことなんだという言葉が漏れていた。両親然り、悠一もまたそんな彼が嫌いだった。
汚く臭い。こんな大人にはなりたくないと悠一は蔑んだ目で見ていた。拒絶して何か思われるのも嫌だったので、徹底して表面的には無関心であることを心掛けたのを覚えている。
十歳、待ち遠しかった夏休みのこと。悠一はいつものように公園で近隣に住むクラスメイト達と公園で遊んでいた。サッカーが多かったが、最近は携帯ゲーム機が流行りだしていて、ある程度身体を動かして飽きてしまったら各自持ち寄ったそれで通信対戦をするようになっていた。悠一も例外ではなく、当然のように携帯ゲーム機を持って公園に行っていた。
その日は、悠一の勝利が続いた。実力と経験で差が出るゲームではないので、本当に運だけの勝利である。しかし彼は、さも自分がこの世の全ての絶対者であると錯覚してしまい、クラスメイト達を煽り散らかすという愚行に走ってしまう。結果、一人が癇癪を起こしてしまい、悠一のゲーム機を放り投げて破壊してしまったのだ。
呆然とする悠一をよそに、さすがにヤバいと思った仲間達は慰めるよりも己の保身を優先して、俺は知らないと口々に言って去って行く。ゲーム機を壊した友人もその中に混じって、いつの間にかいなくなっていた。公園で一人になった悠一は、しばらくしてからゲーム機を拾い、割れた画面を見つめながら家に帰った。
家に帰るとやはり、共働きの両親はいなかった。歯を食いしばって、悠一は階段を駆け上がりベッドに飛び込んで、枕に顔を埋めてただ泣いた。そうしている内にやがて疲れて、いつの間にか眠ってしまっていた。
目が覚めると窓の景色は赤くなり始めていて、両親が帰ってくるまでは一時間くらいあるとわかった。ゲーム機を壊されたこと、泣いていることを知られたくなかった彼は気持ちを切り替えるべく、深呼吸をする為にベッドから降りた。
部屋の入り口に伯父が立っていた。眼鏡が夕暮れの光に反射して、何を考えているのかわからなかった。悠一は短い悲鳴を上げた。
誰かにやられたのか、と伯父がぼそぼそとした声で訊ねた。手には壊れたゲーム機があった。嘘を吐くことも出来たが、この時悠一はそうしない方が良いような気分がした。断片的ではあるが、こうなった経緯を一切はぐらかすことなく伯父に話した。
伯父は何も言わず部屋を出て、一階に降りていった。伯父と久しぶりに会話をして呆然としていた悠一は、はっとして追いかける。伯父は電話をしていた。
ええ、いつもお世話になっているみたいで……ははっ、ええ。いや、電話した件についてはですね今日の昼、うちの子と公園で遊んでたみたいなんですけど、はい、そうです、なにか伺ってないですか、と、まるで別人のような話し方だった。
いつものような萎んだ小声ではなく社交的でハツラツとした、まるで、忠実に仕事をこなす歴戦の営業マンの姿がそこにあった。世間話を少ししてから伯父は電話を切ると、眺めていた悠一の頭をすれ違い様に軽く撫でてから二階へと上がっていった。何が何だかわからない悠一はその場に立ち尽くした。
三十分もしないうちに、ゲームを壊した友人とその両親が謝罪をしに悠一の家にやってきた。出たのは悠一だったが、伯父もすぐに二階から降りてきて、その後の対応は全て彼がやった。
伯父は小綺麗なTシャツに着替えていて、見た目はもちろんのこと、話し方、立ち振る舞いに至るまで無職者とは無縁の人間にしか見えなかった。友人とその両親は最初と最後に深く頭を下げてはいたが、殆どの会話は笑顔が絶えない他愛ないものを交わしていた。彼らは最後に、弁償ということで菓子折と壊したゲーム機と同じ新品の物を悠一達に渡して帰って行った。
僕はね……と、いつもの調子の声に戻っている伯父は言う。僕の言葉は、他人の意識を捻じ曲げることが出来るんだ。僕の言うことは誰も信じて疑わない。気付いたのは中学生の時だった。良くない力だ。本当に、それで……ああ、僕は沢山、人を騙してきた。自分の為に沢山ね……詐欺師だったんだよ。フフッ、どうしようもないんだ。悠一は僕みたいになってはいけない。良くない力だ。なのに、僕はどうしようもないから、偽善、フフッ、やめたはずなのに、気持ちいいなぁ、ごめんなぁ……。
そう言って、どこを見ていのるかわからない眼差しで、伯父は頬に滴る涙も拭わず、二階の自室へと姿を消した。
強烈だった。これほど新鮮な体験をしたのは生まれて初めてだった悠一は、ただ玄関で打ち震えた。これが伯父の本当の姿なんだ、と。悠一の中で叔父の印象は、情けないものから真逆のものに変わっていた。ただ泣くことしか出来なかった問題を伯父はスムーズに、かつ遺恨なく解決して見せたのだ。これほどのことを他の誰に出来ただろうか。否、悠一は彼を除いて知らない。
この感動は憧れである。あれは口が上手いだけなのか、本当に何かを操っていたのか、今でも悠一には分からない。伯父のようになりたい、詐欺師と言っていた、そう、彼のような詐欺師になりたいと、悠一は心の底から願うようになってしまったのだった。
伯父のことはわからないが、とエヅナが天井を眺めたまま言った。そして、悠一にもその素質が受け継がれていることは間違いない、と続けた。言葉を使って世界の法則に干渉し、思い通りに人の認識を捻じ曲げる。一般的に浸透している催眠術や超能力に該当するものだと彼女は説明した。そういうものは上位次元のものと類似していて共鳴しやすいらしく、テレポーテーションでここに引き寄せられたのも、悠一の持つ素質が大きい要因だろうとエヅナは話した。
自分が伯父と同じ事が出来るなんて心当たりはないと悠一は答えた。それについてはまだ感覚が掴めていないだけだそうだが、今の悠一にはピンとこなかった。
だったら伯父に相談してみれば良い、とエヅナが提案する。すると、なぜか悠一は背を向けて散らかったままだった部屋を掃除し始めた。気に留めることなくエヅナは話を続ける。
私は帰りたい、とエヅナは言った。帰るためには悠一の力が必要らしい。この肉体、この出力では足りない。機械の部品を組み合わせて高次元移転装置を作れば可能だが、今はそれもできない状態なのだという。
詳しくは話せないが、時間もない。目立つことは避けたい故、お前の力を私のために貸して欲しい。そうエヅナはそう繰り返した。
悠一は、おもむろに煙草に火をつけた。思案するように眼を閉じている。彼は黙りこくっていたが、それはエヅナも同じだった。煙草の火が半分に差し掛かったところで、紫煙を吐きながら言う。
伯父は四年前に死んだ、階段から落ちて。僕は学校に行っていて、見つけたのは夕方だった。すぐに救急車を呼んだが、手遅れだった。警察が言うには死亡推定時刻は正午前後で、首の骨も砕けて即死だったらしい。僕が何を言いたいかわかるか? お前の力にはなれないってことだ。出来損ないなんだよ。詐欺師になりたいと言ったが、僕は結局何もしてない。かといって、諦めきれずに今日もうだうだやってる、そんな奴なんだよ。そんな振り切れない奴が、一体誰の力になれるっていうんだ。
エヅナは同意も否定もしなかった。悠一の吐露をただ聞いている。そんな様子を見ながら、悠一は、肺に溜まった煙を吐き出した。異次元人というのは感情がないといっていいほどに希薄であると悠一は考えている。それを分かった上で話しているので、別に傷付くなんてこともなかった。話は終わりだ。煙草を揉み消して立ち上がろうとしたとき、エヅナがむくりと起き上がった。急なものだったから悠一は声を漏らした。
私がお前の才能を引き出してやる、心なしかエヅナが力強く言っているような気がした。
交換条件だ。振り切れないと言うなら、この私がお前を詐欺師としての才能を目覚めさせ、後戻りできないように振り切らせてやる。その代わり、その力で私を全力で助けろ。四つん這いで迫りながら言うものだから、悠一はすっかり気圧されてしまい、反射的に頷いてしまった。
では私の手を握れ。お前の脳内を検索し、未開の部分をこじ開ける。人間の脳をいじくりまわしたことはないから失敗したらどうなるかわからないが、単純な構造であるはずだから恐らくは大丈夫だろう、なんて不確定なことをエヅナは言う。
成功確率は? と、悠一は訊ねた。七十五%辺りだ、と答える。彼は逡巡したように、なかなか手を伸ばさない。怖いなら無理にとは言わないぞ、と言われたが首を振った。そうではなく、聞いておきたいことが一つだけあったのだ。どうしてそこまでする、自分が帰らなければならないからか、と。
それもあるが、初めに言ったようにお前には恩があるからだ。何より、この藤森玲子の肉体が後悔の記憶を深く刻み込んでいるからでもある。同じような思いをして欲しくないと、この肉体を通して私は感じているのかもしれないな。
そんなことを言うエヅナに、悠一はふっと笑った。少し、エヅナについて思い違いをしていたらしい。悠一が彼女の手に触れ、握り返すとそこから眩い閃光が迸り、部屋と悠一の意識を真っ白に染め上げていった。




