第64話 観測盤
霧島は、無数の水面の間を歩いていく。
エリオはその背中を追いながら。
もう一度、中央の巨大な観測盤を見た。
――たすけ……
胸の奥へ流れ込んできた意味。
あれは。
誰の声だったのか。
何を助けてほしいのか。
もう一度聞けば。
少しは分かるかもしれない。
エリオは、青白く揺れる観測盤へ近づいた。
一歩。
また一歩。
手を伸ばす。
「触るな」
低い声が飛んだ。
指先が止まる。
霧島は振り返っていない。
「なんで?」
「分からないものに、簡単に触れるな」
エリオは観測盤を見る。
水面は静かに揺れていた。
「でも」
一拍。
「何か聞こえたんだ」
「だからだ」
霧島は短く言い切った。
エリオは眉を寄せる。
納得はできない。
でも。
その言葉には、冗談も脅しもなかった。
エリオは渋々、手を引いた。
霧島が再び歩き出す。
「来い」
「そればっかりだな」
ベルクが吐き捨てた。
霧島は答えない。
一行は、浮かぶ水面の間を進んだ。
右には雪原。
降り続ける雪の中を、毛皮を着た人々が歩いている。
左には深い森。
大きな獣が木々の隙間を横切った。
その先には海。
黒い雲。
荒れた波。
小さな船が、今にも呑まれそうになっている。
どの景色も。
止まっていない。
「魚!」
プルが一つの水面へ飛びついた。
青い海の中。
銀色の魚が群れをなして泳いでいる。
「待て待てー!」
プルが両手を伸ばす。
だが。
身体は水面をすり抜けた。
「わっ!」
勢い余って床へ転がる。
魚の群れは何事もなかったように泳ぎ続けていた。
プルは起き上がると、水面を何度も叩く。
「魚取れない!」
「映ってるだけだ」
ベルクが呆れたように言う。
「じゃあ、なんで見えるの?」
「俺に聞くな」
「知らないの?」
「知らねぇよ」
「ベルク、知らないこと多い」
「斬るぞ」
プルは慌ててエリオの後ろへ隠れた。
少し離れた水面。
知らない街が映っている。
石造りの建物。
色鮮やかな屋根。
大勢の人が行き交う通り。
一人の男が露店の前で足を止めた。
果物を手に取り。
硬貨を渡す。
店主が笑う。
男は果物をかじりながら歩き去った。
ベルクが水面へ近づく。
じっと、その光景を見つめた。
「……記録じゃねぇな」
ルルカが横を見る。
「どうして分かるの?」
「見せるために残した記録なら」
一拍。
「果物買って帰るだけの男なんか映さねぇだろ」
水面の中。
男は別の誰かへぶつかり。
頭を下げている。
ベルクが目を細めた。
「今も動いてる」
ルルカは答えない。
代わりに。
周囲の無数の水面へ目を向けた。
雪。
雨。
風。
夜。
昼。
世界のどこかで起きていることが。
ここへ流れ込んでいる。
その時。
「……待って」
サフィラが足を止めた。
一つの水面を見つめている。
乾いた街道。
荷車が何台も連なり、砂煙を上げながら進んでいた。
荷台には、大きな水瓶。
先頭を歩く者たちは、青い外套を身にまとっている。
胸元には。
見覚えのある紋章。
「ここ……」
サフィラが水面へ近づく。
「水の国よ」
遠く。
乾いた大地の先に、城壁が見える。
水の運搬隊は、今もゆっくり街へ向かっていた。
ベルクも横から覗き込む。
「間違いないのか」
「ええ」
サフィラは青い外套を見る。
「ラシードの水を運ぶ部隊よ」
ベルクは霧島へ目を向けた。
「じゃあ、本当に」
「今の世界を映してるのか?」
霧島は足を止めない。
「そういう場所だ」
「説明する気はねぇのかよ」
「見れば分かる」
「今、見ても分からねぇから聞いてんだよ」
霧島は無視した。
ベルクが舌打ちする。
一行は水の国を映す水面の周囲を歩いた。
その隣。
エリオは妙な水面に気づいた。
「……あれ」
他のものとは違う。
雪も。
街も。
人も映っていない。
薄い膜が。
真っ白に濁っている。
向こう側に何かあるはずなのに。
何も見えない。
そこへ伸びている青白い水路も。
途中で途切れていた。
「ここだけ映ってない」
エリオが近づく。
ルルカも水面を覗き込もうとした。
その瞬間。
霧島の視線が動いた。
「近づくな」
ルルカの足が止まる。
「何なの?」
霧島は答えない。
白く濁った水面だけを見る。
そこには。
景色も。
光も。
波紋さえなかった。
まるで。
最初から何も存在していないみたいに。
エリオは目を凝らす。
「壊れてるのか?」
「……違う」
リュカが小さく呟いた。
全員が振り返る。
リュカは白い水面を見つめている。
「聞こえない」
「何が?」
エリオが問う。
「さっきまでは」
リュカは無数の水面を見る。
「いっぱいあったのに」
白い膜へ目を戻す。
「ここだけ、何もない」
ルルカの表情が険しくなる。
「見えないんじゃなくて」
一拍。
「観測できない……?」
霧島は何も言わなかった。
その沈黙が。
答えのようにも思えた。
エリオがもう一度、水面へ目を向けた時だった。
「ああ、これですか」
少し離れた場所から。
穏やかな声が聞こえた。
サフィラの表情が変わった。
全員が振り返る。
水の国を映す大きな水面。
その前に。
一人の男が立っていた。
白い外套。
磨き抜かれた剣。
背を向けたまま。
水面だけを見つめている。
サフィラの瞳が、鋭く細くなった。
「……ザーファル」
低い声だった。
ザーファルがゆっくり振り返る。
「ああ」
いつもの穏やかな笑顔。
「サフィラ様」
一拍。
「ご無事でしたか」
サフィラの顔が歪んだ。
「……よく、そんなことが言えるわね」
「何か?」
「あの時」
サフィラが一歩前へ出る。
「私を見捨てたでしょう」
ザーファルは少しだけ考えた。
「ああ」
思い出したように頷く。
「そのことですか」
「そのこと……?」
「任務を優先しただけです」
あまりにも軽い。
サフィラの拳が握られる。
「弟たちとの約束まで」
「私が死ねば消えると言った」
「ええ」
ザーファルはあっさり頷く。
「あなたが死ねば、守る必要もありませんから」
ベルクの目つきが変わった。
「……てめぇ」
サフィラが片手で制した。
視線は。
ザーファルから外さない。
「……最低ね」
ザーファルは眉一つ動かさなかった。
「私は、必要な判断をしただけです」
そう言うと。
もう興味を失ったように、観測盤へ顔を戻した。
サフィラより。
ここで見つけたものの方が。
ずっと価値があるとでもいうように。
サフィラは周囲を見回した。
そこで気づく。
誰もいない。
迷宮へ入った時。
ザーファルの後ろには、護衛が数人いた。
彼がサフィラを見捨てた時も。
部下たちは一緒だった。
なのに。
ここにいるのは、ザーファル一人だけ。
「……部下たちは?」
「途中ではぐれました」
ザーファルは振り返りもしない。
「はぐれた?」
「ええ」
「探さなかったの?」
「なぜ?」
サフィラの目が見開かれる。
ザーファルは。
本当に分からないように振り返った。
「ここまで来られない者を」
「わざわざ探しに戻る理由がありますか?」
「あなたの部下でしょう」
「でしたね」
過去形。
サフィラの表情が固まった。
ベルクが低く言う。
「……お前」
ザーファルを見る目に。
明確な嫌悪が宿る。
「自分の部下まで捨ててきたのか」
「捨てた?」
ザーファルが笑った。
「人聞きが悪いですね」
「役に立たない者を、置いてきただけです」
「仲間だろうが」
「仲間?」
ザーファルの笑みが深くなる。
「弱い者を背負って」
「何になるんです?」
ベルクの手が。
刹那丸の柄へ伸びた。
「……もう一回言ってみろ」
「聞こえませんでしたか?」
ザーファルはベルクを見た。
「ここへ辿り着けなかった」
「それだけですよ」
ベルクが踏み出す。
「ベルク」
サフィラが止めた。
ベルクが振り返る。
「止めんな」
「違う」
サフィラは。
ザーファルを見ていた。
「私が言う」
一歩。
前へ出る。
「ザーファル」
「はい」
「あなたはラシードに忠実なんじゃない」
ザーファルの笑みが。
わずかに止まった。
「……何を?」
「ラシードの名前を借りて」
一拍。
「自分が偉くなった気でいるだけ」
「サフィラ様」
「部下も」
「私も」
「弟たちとの約束も」
一つずつ。
突きつける。
「自分の役に立つかどうかでしか見ていない」
ザーファルの笑顔が消えていく。
「ずいぶんな言いようですね」
「図星?」
「……」
初めて。
ザーファルが黙った。
サフィラは鼻で笑う。
「小さい男」
ザーファルの眉が動いた。
「……口を慎まれた方がいい」
穏やかだった声が。
初めて低くなる。
サフィラは笑った。
「やっと、その顔が見られた」
一瞬。
二人の視線がぶつかる。
ザーファルは。
ゆっくり息を吐いた。
「好きに言えばいい」
再び観測盤へ向き直る。
「あなたにどう思われようと」
「もう、どうでもいい」
水面には。
水の国を流れる無数の水路が映っている。
街へ。
村へ。
宮殿へ。
給水所へ。
人々の暮らしへ。
どこまでも。
同じ水が広がっている。
ザーファルは水面へ顔を近づけた。
「ああ……」
口元が。
再び緩んだ。
「そういうことですか」
サフィラが眉を寄せる。
「何が分かったの」
ザーファルは答えない。
その瞳には。
先ほどまでの苛立ちさえ、もう残っていない。
代わりに。
大きな獲物を見つけたような光が宿っていた。
「これは……」
小さく笑う。
「とんでもない手土産になる」
「手土産?」
ザーファルの指が。
水面に映る水路をなぞる。
「ラシード様も」
「さぞ、お喜びになるでしょうね」
水面が。
ゆらり。
大きく揺れた。
ザーファルは。
その奥に隠された何かを探すように。
さらに顔を近づける。
「この水は……」
その言葉だけを残して。
無数の水路が。
青白く脈打った。




