第63話 世界の耳
「……遅い」
門の向こう。
薄暗い通路の中央に、霧島が立っていた。
腕を組み。
壁にもたれもせず。
まるで最初から、ここで待っていたかのように。
ベルクが目を細める。
「霧島……」
一歩、前へ出る。
「なぜ、ここにいる」
霧島は答えなかった。
ベルクではなく。
その後ろにいるエリオを見る。
視線が、腰の蒼刃へ落ちる。
ほんのわずかに。
霧島の口元が緩んだ。
「……それがお前の剣か」
一拍。
「ようやく、目を覚ましたな」
エリオは無意識に蒼刃へ手を添えた。
「見てたのか?」
霧島は答えない。
その視線が、さらに向こうへ移る。
門の前。
巨大な頭を低くしたままの番人。
蒼い瞳。
その身体にはもう、黒い侵食は残っていない。
霧島はしばらく番人を見つめていた。
やがて。
「……来い」
それだけ言って、背を向けた。
「おい」
ベルクが呼び止める。
霧島は足を止めない。
「質問に答えろ」
「歩け」
「答えになってねぇ」
霧島の姿は、そのまま暗い通路の奥へ消えていく。
ベルクが小さく舌打ちした。
「相変わらず勝手な野郎だな」
エリオは立ち上がろうとした。
だが。
足へ力を入れた瞬間。
ぐらり。
視界が傾く。
「ちょっと!」
ルルカが、すぐに腕を掴んだ。
「まだ血が足りてないんだから」
「でも、行かないと」
「歩くなとは言ってないわ」
ルルカはエリオの腕を、自分の肩へ回す。
「倒れたら怒るって言ってるの」
「……同じじゃない?」
「違う」
即答だった。
ベルクが肩をすくめる。
「諦めろ」
「こういう時のルルカは面倒だ」
「聞こえてるわよ」
ルルカが睨む。
プルもエリオの足元へ駆け寄った。
「プルが運ぼうか?」
「大丈夫」
「ほんと?」
「……たぶん」
「たぶんだって!」
少しだけ空気が緩んだ。
その先。
霧島だけが、こちらを待つ気もなく歩いている。
「置いていくぞ」
「待ちなさいよ!」
ルルカが叫ぶ。
霧島は振り返らなかった。
エリオたちは顔を見合わせる。
そして。
門の向こうへ足を踏み入れた。
通路は細かった。
左右を古い石壁に挟まれ。
その中央を、人が二人並んで歩ける程度の道が続いている。
壁には。
青白い水路が一本だけ走っていた。
水が流れているように見える。
けれど音はしない。
光だけが。
ゆっくりと奥へ進んでいる。
エリオは、その光を目で追った。
さっきまでの迷宮にも、同じ水路があった。
だが。
ここは違う。
静かだった。
黒い濁りも。
苦しむ鼓動もない。
ただ。
澄んだ光だけが流れている。
一歩。
また一歩。
進む。
一本だった水路が、二本に分かれる。
さらに進むと。
四本。
十本。
数え切れないほどに増えていく。
壁だけではない。
床にも。
天井にも。
青白い光が走り始めた。
ベルクが眉をひそめる。
「……増えてねぇか?」
サフィラが周囲を見回す。
「ええ」
「奥へ進むほど……」
言葉が止まった。
無数の光は。
ただ増えているのではない。
すべて。
同じ方向へ流れている。
通路の先。
まだ見えない、何かへ向かって。
その時だった。
「……っ」
リュカが足を止めた。
エリオが振り返る。
「リュカ?」
リュカは自分の腕を押さえていた。
「熱い……」
「え?」
ルルカがすぐに近づく。
「どこが?」
「分からない」
リュカは困惑したように首を振った。
「身体じゃない」
「でも……熱い」
その瞬間。
リュカの横を走る青白い水路が。
ボッ。
一瞬だけ、強く輝いた。
「なっ……」
ベルクが剣へ手を伸ばす。
もう一本。
リュカの背後。
ボッ。
さらに前方。
ボッ。
ボッ。
リュカが通るたび。
水路が順番に目を覚ましていく。
「また、アーティファクトが反応してる……?」
ルルカが低く呟く。
だが。
以前とは違う。
暴れていない。
拒んでもいない。
むしろ。
リュカの存在を確かめるように。
青白い光が、ゆっくり脈打っている。
ドクン。
リュカが息を呑んだ。
「これ……」
自分を取り囲む水路を見る。
「私に、反応してる?」
答えられる者はいない。
その時。
プルが自分のお腹を押さえた。
「んー?」
身体をぷるぷる震わせる。
「プル?」
エリオが見る。
プルは難しい顔をしていた。
「なんか、お腹が変」
「お腹?」
「さっき黒いの食べてから、お腹が変なの」
一拍。
「ここ来たら、もっと変!」
ベルクが呆れたように見る。
「食うからだ」
「でも、おいしかった」
「反省しろ」
プルはお腹へ耳を当てるように、身体を折り曲げた。
「なんかね」
「きゅーってなってる」
「嫌がってるみたい」
ルルカの表情が変わる。
「何が?」
「分かんない!」
プルは首を傾げる。
「でも、ここ嫌いみたい」
青白い水路が。
また脈打った。
ドクン。
今度は。
プルの身体が、わずかに震えた。
霧島が足を止める。
ほんの一瞬だけ。
リュカとプルを振り返った。
だが。
何も言わない。
再び歩き始める。
ベルクが、その背中を睨んだ。
「……お前」
霧島は振り返らない。
「何だ」
「ここ、初めてじゃねぇだろ」
霧島の足が止まる。
ベルクは続けた。
「分岐でも迷わねぇ」
「何が起きても驚かねぇ」
「この先に何があるか、知ってる顔だ」
短い沈黙。
「今は話すことはない」
「は?」
霧島の視線だけが。
エリオへ向く。
「来れば分かる」
それだけ言って、再び歩き出した。
「俺には説明なしかよ」
ベルクが吐き捨てる。
霧島は、それ以上何も言わなかった。
青白い水路は、さらに増えていく。
壁も。
床も。
天井も。
もう石の色さえ見えない。
光の中を歩いているようだった。
そして。
前方から音が聞こえ始める。
サァァァァァ……。
水の音にも聞こえる。
風の音にも聞こえる。
遠くで。
巨大な何かが呼吸しているようにも聞こえた。
サフィラが足を止める。
「……何、この音」
霧島も立ち止まった。
細い通路の先。
青白い光が満ちている。
眩しくて。
その向こうが見えない。
霧島が短く言った。
「着いた」
ベルクが眉を寄せる。
「どこに」
霧島は答えず。
光の中へ足を踏み入れた。
エリオたちも、その後へ続く。
そして。
細い通路を抜けた瞬間。
世界が開いた。
誰も。
声を出せなかった。
広い。
そんな言葉では足りない。
底が見えない。
天井も見えない。
向こう側さえ。
どこにあるのか分からない。
巨大な地下空間。
その壁を。
床を。
空中さえ。
無数の青白い水路が走っている。
一本。
十本。
百本。
数え切れない光の流れが。
すべて中央へ集まっていた。
その中心。
巨大な円形の構造物が浮かんでいる。
石にも見える。
金属にも見える。
水にも見える。
その周囲には。
水面のような薄い膜が、無数に漂っていた。
一つ。
雪が降っている。
一つ。
深い森。
一つ。
荒れた海。
砂漠。
街。
山。
知らない人々。
空を飛ぶ鳥。
波に揺れる船。
無数の景色が。
水面の中で動いている。
サフィラが、掠れた声を漏らした。
「……何、ここ」
水の国で生きてきた彼女でさえ。
知らない。
その事実が。
この場所の異様さを、何より物語っていた。
エリオは霧島を見る。
「あれは……?」
霧島も中央を見上げていた。
「世界の耳」
「世界の……耳?」
霧島はそれ以上答えない。
そのまま中央へ向かって歩き出す。
ベルクが眉を吊り上げる。
「待て」
「それで分かると思うか?」
「見れば分かる」
「分からねぇよ」
霧島は無視した。
一行は恐る恐る、水面の一つへ近づく。
そこには街が映っていた。
人が歩いている。
露店の布が風に揺れる。
子どもが走る。
その子どもが石につまずき。
転んだ。
すぐに母親らしき女性が駆け寄る。
映像は止まらない。
ベルクの目が細くなる。
「これ……」
水面へ一歩近づく。
「今なのか?」
誰も答えない。
隣の水面では。
激しい雨が降っている。
さらに隣では。
砂嵐が街を覆っていた。
サフィラも。
ルルカも。
ただ、水面の中の景色を見つめている。
エリオは中央へ目を向けた。
他の水面とは違う。
巨大な観測盤。
そこには何も映っていない。
ただ。
青白い光だけが、静かに揺れている。
一歩。
近づく。
その瞬間。
ドクン。
「……っ」
エリオの足が止まった。
胸を押さえる。
ルルカが振り返る。
「エリオ?」
「今……」
もう一度。
ドクン。
番人との共鳴に似ている。
だが。
違う。
もっと遠い。
もっと大きい。
何と繋がっているのか。
分からない。
雪原を映す水面が揺れた。
森。
海。
砂漠。
無数の水面が。
一つずつ。
波紋を広げていく。
リュカも顔を上げた。
「……聞こえる」
エリオが振り返る。
「リュカも?」
「うん」
リュカは中央を見つめる。
「でも……遠い」
エリオは耳を澄ませた。
音ではない。
それでも。
胸の奥へ。
一つの意味だけが流れ込んできた。
――たすけ……
「……え?」
エリオが顔を上げる。
もう。
何も聞こえない。
ただ。
無数の水面だけが。
静かに揺れている。
霧島がエリオを見ていた。
「……聞こえたか」
エリオが振り返る。
「今のは……」
霧島の片目が、わずかに細くなる。
「やはり、お前か」
「え?」
霧島はすでに背を向けていた。
「来い」
一拍。
「ここからだ」




