第59話 番人
巨大な石壁が、ゆっくりと開いていく。
冷たい風が頬を撫でた。
砂の匂いではない。
どこか湿った、古い井戸の底みたいな匂いだった。
「……行くぞ」
ベルクが先頭を歩き出す。
誰も言葉を返さない。
数歩進いたところで。
ベルクが足を止めた。
「……変だ」
「何が?」
エリオが問う。
ベルクは周囲を見回した。
「風が止んだ」
言われて初めて気付く。
ここまで微かに吹いていた冷たい風が。
いつの間にか消えていた。
空気が重い。
息を吸うたび。
誰かの腹の中へ入っていくような圧迫感があった。
エリオは蒼刃へ触れる。
熱はない。
柄の奥では、小さな鼓動だけが続いている。
ドクン。
ドクン。
その横で。
プルだけが鼻をひくひく動かしていた。
「……いる」
ベルクが振り返らず聞く。
「何がだ」
「蛇」
エリオは思わず苦笑する。
「まだ言ってるのか」
「今度は本当」
プルは真剣だった。
「匂う」
「すごく近い」
ルルカが肩をすくめる。
「この迷宮に蛇なんて記録は――」
言葉が途中で止まった。
ゴ……
足元が震える。
全員の足が止まる。
また迷宮が動く。
そう思った。
だが違った。
ベルクがゆっくり壁へ手をつく。
その表情が変わる。
「……動いた」
「え?」
エリオも壁へ触れた。
冷たい石。
そのはずだった。
ぐに……
「っ!?」
思わず手を離す。
指先の下で。
石が、脈を打った。
ドクン。
まるで巨大な心臓だった。
ルルカも壁へ触れる。
息を呑む。
「そんな……」
「石じゃない……」
次の瞬間。
ゴゴゴゴゴ……
背後で轟音が響いた。
振り返る。
入口だった場所へ、巨大な石壁が降りてくる。
「出口が!」
エリオが叫ぶ。
左右の通路も。
天井近くの抜け道も。
一つずつ閉じていく。
ゴゴ……
ゴゴ……
ベルクが剣を抜いた。
「閉じ込める気だ」
その瞬間。
しゃああああ……
水の流れる音がした。
誰も動かない。
ここに水なんてない。
なのに。
耳元を、大河が流れている。
エリオは辺りを見回す。
壁一面を走る水路。
その溝だけが、青白く光り始めていた。
一本。
また一本。
まるで血管へ血が巡るみたいに。
光が流れる。
ドクン。
壁が脈を打つ。
ドクン。
床が震える。
ドクン。
空間そのものが呼吸を始めた。
「……迷宮が」
ルルカが呟く。
「生きてる」
プルが急に叫んだ。
「いた!!」
全員が振り返る。
「ほら!」
「蛇!」
プルが指差した先。
そこには巨大な石壁しかない。
ベルクが眉をひそめる。
「何も――」
言葉が止まる。
壁だと思っていたものが。
ゆっくりと。
持ち上がった。
ゴ……
柱が一本、音を立てて崩れる。
また一本。
壁そのものが。
うねった。
エリオは息を呑む。
「違う……」
水路だと思っていた筋。
それは筋肉だった。
壁の割れ目だと思っていた線。
それは鱗だった。
都市ほど巨大な身体が。
ゆっくりと、とぐろを解いていく。
ズズズズズ……
空間全体が揺れる。
天井近くまで持ち上がった巨大な首が。
ゆっくりとこちらを向いた。
蒼い瞳。
ただ、それだけで息が止まる。
ベルクが低く呟く。
「……普通じゃねぇ」
その言葉が終わるより早く。
蛇の瞳が細くなった。
「来る!」
ベルクが叫ぶ。
全員が散る。
ドォォォン!!
さっきまで立っていた場所へ、巨大な頭が叩きつけられた。
石畳が砕ける。
衝撃だけで身体が浮く。
エリオは転がりながら立ち上がる。
速い。
大きいのに。
速すぎる。
ベルクが刹那丸を抜き放つ。
「俺が前へ出る!」
ルルカが杖を掲げた。
「援護する!」
サフィラが腰から半月形の円月輪を引き抜く。
「左を抑える!」
三人が同時に動いた。
それでも。
刃も。
魔法も。
円月輪も。
蛇の身体へ届いた瞬間、青白い水路へ吸い込まれた。
「何!?」
ルルカの顔色が変わる。
ベルクの斬撃も。
石を斬ったような鈍い音だけを残して止まる。
「効いてねぇ!」
蛇は傷一つない。
ただ。
こちらを見ている。
その身体を流れる青白い光の中に。
ひと筋だけ。
黒い筋があった。
どろり。
と。
生き物みたいに蠢いている。
プルの目が輝いた。
「あっ!」
「あれ!」
「嫌な匂いする!」
全員が振り向く。
「プル?」
プルは満面の笑みだった。
「でも、おいしそう!」
ベルクの顔色が変わる。
「動くな!!」
プルはもう走っていた。
「いただきまーーす!!」
「プル、待――」
ぱくり。
プルが消えた。
一瞬。
誰も、声を出せなかった。
「プルーーーーーッ!!」




