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第58話 置いてきたもの

 ベルクが飛び込んだ直後。


 背後で、構造が閉じた。


 音はなかった。


 ただ、光だけが細く消えていく。


 エリオの声も。


 プルの声も。


 リュカの息を呑む気配も。


 すべて、遠くへ置いていかれた。


 ベルクは荒い息を吐きながら、前を見る。


 上下が分からない。


 足場は斜めに傾いている。


 壁だった場所に影があり、床だった場所に水路が走っている。


 水はない。


 なのに、水音だけが聞こえた。


 ぽちゃん。


 ぽちゃん。


 サフィラは、崩れた足場の先にいた。


 顔色は悪い。


 それでも、立っていた。


「……なんで来たの」


 責める声ではなかった。


 本当に、分からないという声だった。


 ベルクはすぐに答えられない。


 喉が渇いていた。


 手も、まだ震えている。


「知らねぇよ」


 小さな声だった。


 水音だけが、二人の間に落ちる。


 ベルクは奥歯を噛む。


「でも」


 一拍。


「また逃げたら」


「一生、後悔すると思った」


 サフィラの目が揺れた。


 ベルクは視線を逸らさない。


 かっこいい言葉なんてない。


 怖かった。


 今も怖い。


 それでも、ここに来た。


 それだけだった。


「……遅い」


 サフィラの声が震えた。


 一拍。


「ほんと、遅い」


 涙が、ひとつ落ちた。


「ずっと待ってた」


 ベルクは何も言えなかった。


 ただ、低く言う。


「……悪い」


 その言葉が落ちた瞬間。


 水音が、止まった。



 壁の影が薄くなる。


 足元の揺れが少しだけ収まる。


 閉じていた通路の奥に、細い光が生まれた。


 サフィラが息を呑む。


「……開いてる」


 ベルクも目を細める。


「なんでだ」


 答えはなかった。


 ただ、構造が少しだけ静かになっている。


 まるで。


 今の言葉を、聞いていたみたいに。


 サフィラは涙を拭った。


「昔のあんた、もっと馬鹿だった」


「今も馬鹿だろ」


「違う」


 サフィラは首を振る。


「昔は、ちゃんと前を見てた」


 ベルクは黙った。


 胸の奥が痛む。


「……置いてきたんだよ」


「何を」


「全部」


 短い言葉だった。


「親友も」


「勇気も」


「剣も」


 一拍。


「前に出る自分も」


 サフィラは何も言わなかった。


 ベルクの腰で、キラるんが小さく揺れる。


 サフィラが、それに気づいた。


「まだ付けてたの」


 ベルクは、少しだけ顔をしかめる。


「悪いかよ」


「悪くない」


 サフィラは、ほんの少しだけ笑った。


「無愛想だから、目印を付けたの」


 一拍。


「……あの頃、三人でよく馬鹿なことしてたわね」


 ベルクは答えなかった。


 サフィラは、少しだけ目を伏せる。


「昔の私、見る目あるわね」


「……うるせぇ」


 ほんの少しだけ。


 本当に少しだけ、空気が戻った。



 一方。


 エリオたちは、閉じた壁の前にいた。


「ベルク!」


 エリオが壁を叩く。


 返事はない。


 プルが壁にぺたりと張りつく。


「ベルクー!」


「サフィラー!」


「聞こえたら返事してー!」


 何も返らない。


 リュカは目を閉じていた。


 両手を胸の前で握っている。


「……まだ」


 エリオが振り返る。


「リュカ?」


「まだ、生きてる」


 リュカの声は細い。


 でも、はっきりしていた。


 ルルカは壁の模様を見つめている。


「この場所……」


「拒絶だけじゃない」


 エリオは眉を寄せる。


「どういうことだよ」


「分からない」


 ルルカは悔しそうに言う。


「でも、ただ殺そうとしているわけじゃない」


 一拍。


「何かを見てる」


 ジャミルが黙っていた。


 いつもの軽い笑みはない。


 奥から。


 低い音が響く。


 ゴォン。


 ゴォン。


 構造全体が震えた。


 エリオは蒼刃の柄を握る。


「何だ、今の」


 ジャミルが小さく言った。


「……深くなってる」


「何が」


「世界の音」


 その声は、笑っていなかった。



 細い光の通路を、ベルクとサフィラは進んだ。


 足場は不安定だった。


 でも、さっきよりは歩ける。


 水音はもうしない。


 代わりに、遠くで低い脈動が響いている。


 ベルクはサフィラの前を歩く。


 何度も振り返りそうになって。


 それでも、前を見た。


 サフィラが小さく言う。


「ねえ、ベルク」


「なんだ」


「さっき」


 一拍。


「来てくれて、ありがとう」


 ベルクは足を止めない。


「……まだ戻れてねぇだろ」


「そうね」


 サフィラは笑った。


「ほんと、言葉が足りない」


「今さらだ」


「知ってる」


 その時。


 前方の壁が、静かに開いた。


 光が差す。


 エリオの声が聞こえた。


「ベルク!」


 プルが跳ねる。


「生きてるー!」


「勝手に殺すな」


 ベルクが低く返す。


 リュカがほっと息を吐いた。


 エリオは、サフィラが無事なことを見て、ようやく肩の力を抜いた。


 ルルカも小さく息を吐く。


 だが、ジャミルだけは奥を見ていた。


 笑っていない。



 合流した直後。


 奥の通路が、さらに開いた。


 誰も触れていない。


 誰も声をかけていない。


 ただ、通れと言われているみたいに。


 低い音が続いている。


 ゴォン。


 ゴォン。


 まるで、世界そのものが脈を打っているようだった。


 エリオたちは、その先へ進む。


 やがて、巨大な空間へ出た。


 そこは、広い。


 けれど空っぽだった。


 壁も床も、どこか曖昧で。


 中央には、何かがあった。


 形はよく分からない。


 目で見ているのに、頭が追いつかない。


 ただ。


 それは、聞いていた。


 こちらの足音を。


 呼吸を。


 迷いを。


 すべて。


 サフィラが、掠れた声で呟く。


「……これが」


 一拍。


「ゼルハ様の言っていた場所」


 低い音が、もう一度響いた。


 ゴォン。


 まるで、それが答えだとでも言うように。


 ジャミルが小さく呟く。


「……嘘だろ」

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