第57話 戻った剣
ベルクは、動けなかった。
サフィラは向こう側にいる。
崩れた足場の先。
光の届かない場所。
足場は、今も少しずつ削れている。
「ベルク!」
エリオが叫ぶ。
だが、ベルクは返事をしない。
腰のキラるんを、強く握っていた。
指が白くなるほど。
目の前にいるのは、サフィラのはずだった。
なのに。
ベルクの目は、もっと遠い過去を見ていた。
⸻
向こう側で、サフィラは一人立っていた。
音がない。
足場が崩れる音さえ、遠い。
ただ、水のない水路から、水音だけが聞こえる。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
あるはずのない水の音。
壁には、影が増えていた。
一つ。
二つ。
人の形に見える影。
近づいているのか、増えているのか分からない。
サフィラは唇を噛む。
強くあろうとした。
いつものように、平気な顔をしようとした。
でも、指先が震えていた。
「……怖い」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
誰にも届かない。
そう思った。
⸻
「俺が行く!」
エリオが踏み出した。
だが、ベルクが反射的に腕を掴む。
「行くな」
「離せ!」
「今のお前じゃ死ぬ」
「じゃあどうすんだよ!」
エリオの声が響いた。
「このまま見てるのかよ!」
ベルクは答えられなかった。
止めている。
でも、助けていない。
その事実が、喉を塞いだ。
その時だった。
壁の奥から、声がした。
「ベルク」
全員が止まった。
ベルクの顔から、血の気が引く。
声は続く。
「今度は来るよな?」
エリオは息を呑んだ。
その声を知らない。
でも、ベルクが知っていることだけは分かった。
⸻
昔。
迷宮の中。
ベルクはまだ若かった。
サフィラも今より幼く、笑うことが多かった。
隣には、よく喋る親友がいた。
「お前は考えすぎなんだよ、ベルク」
「剣士はな、最後は足だ」
「踏み込めるかどうかで決まる」
そいつは、いつも笑っていた。
そして、その日。
構造が崩れた。
足場が割れた。
親友が向こう側へ取り残された。
ベルクは踏み出そうとした。
だが、足が止まった。
罠が見えていた。
行けば、自分も死ぬ。
サフィラも傷を負っていた。
仲間も倒れていた。
全部が一瞬で押し寄せた。
向こう側で、親友が笑った。
「来るな、ベルク」
でも。
その目は、助けを求めていた。
ベルクは、踏み込めなかった。
親友は戻らなかった。
そしてベルクは、逃げた。
⸻
現在。
ベルクの指が、キラるんを握りしめる。
震えていた。
エリオがその手を見る。
「それ、大事なんだな」
ベルクは答えない。
答えられない。
壁の奥から、また声がした。
「ベルク」
「今度も、見てるだけか?」
ベルクの肩が揺れる。
エリオは、ベルクを責めなかった。
励ましもしなかった。
ただ、言った。
「怖いなら」
一拍。
「怖いまま行け」
ベルクが、ゆっくりエリオを見る。
エリオは歯を食いしばっていた。
「俺には、まだ行けない」
「でも、あんたなら届くんだろ」
ベルクの息が止まった。
届く。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
⸻
ベルクは剣を握る。
手は震えている。
足も震えている。
情けないくらいに。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
「怖ぇな」
誰も笑わなかった。
ベルクは一歩、前に出た。
崩れた足場が軋む。
暗い穴が口を開ける。
それでも、もう一歩。
サフィラが向こう側で目を見開いた。
「ベルク……」
ベルクは何も言わない。
かっこいい言葉なんて、出てこなかった。
ただ。
今度は、背を向けなかった。
⸻
ベルクは走った。
崩れた足場へ飛び込む。
構造が閉じ始める。
「ベルク!!」
エリオの叫びが響く。
ベルクは振り返らない。
腰のキラるんが、小さく揺れた。
震える足で、ベルクは戻れるかも分からない道へ踏み込んだ。




