第56話 崩れる忠誠
深層へ続く通路は、静かだった。
静かなはずなのに。
壁の向こうを、大量の水が流れている音だけが聞こえる。
しゃあああ……。
耳を澄ませば近い。
手を当てれば乾いている。
誰も、その音について口にしなかった。
床と壁の境目も曖昧だった。
天井だった場所に古い足跡があり。
床だった場所に、逆さまの灯具が埋まっている。
見るほどに、上下の感覚が壊れていく。
プルが小さく呟いた。
「ねえ」
「今どっちが上?」
ベルクは前だけを見たまま答える。
「考えるな」
「酔うぞ」
「もうちょっと酔ってる」
「吐くなよ」
「努力する」
誰も笑わなかった。
笑えなかった。
エリオは蒼刃へ触れる。
熱はもうない。
だが、静まり返った柄の奥で。
心臓みたいな鼓動だけが続いている。
ドクン。
ドクン。
自分の鼓動なのか。
迷宮の鼓動なのか。
エリオには、もう分からなかった。
まるで迷宮と同じ呼吸をしているみたいに。
その時だった。
前方から、足音が聞こえた。
かつ。
かつ。
規則正しい靴音。
暗闇の奥から、白い外套が現れる。
銀の装飾。
磨き抜かれた剣。
その後ろには護衛が数人。
ザーファルだった。
サフィラの目が細くなる。
「……あなた達」
「後ろにいたはずでしょ」
ザーファルは丁寧に一礼した。
「ええ」
「ですが」
一拍。
「ここから先は話が別です」
その声は落ち着いていた。
だが。
目だけが違った。
ゆっくり。
周囲を見回している。
壁。
水路。
浮かぶ文字。
動く光。
その瞳には。
さっきまで無かった熱が宿っていた。
「……素晴らしい」
誰に言うでもなく呟く。
「本当に存在したのですね」
その声は震えていた。
恐怖ではない。
興奮だった。
ベルクが低く聞く。
「何しに来た」
ザーファルは視線を装置跡から外さない。
「もちろん」
「ここからは我々が先導します」
サフィラが眉を寄せた。
「……何ですって?」
ザーファルは胸へ手を当てる。
「未到達領域」
「未知の深層」
「歴史的発見」
一拍。
「最初に名を刻むのは、ラシード様でなければなりません」
ベルクが鼻を鳴らす。
「お前じゃねぇのか」
ザーファルは少しだけ笑った。
「私の功績など、小さなものです」
「すべてはラシード様のため」
そう言った。
そう言ったはずなのに。
エリオは違和感を覚えた。
ラシードの名を口にするたび。
ザーファルの視線は、ラシードではなく迷宮を見ていた。
まるで。
もう心は、この場所へ奪われているみたいに。
ジャミルが肩をすくめる。
「うわ」
「始まった」
ザーファルが初めてジャミルを見る。
「何か」
「外部協力者風情が」
「口を挟むな」
ジャミルは笑う。
「はいはい」
「どこにも所属してないんで」
その軽口すら。
ザーファルは聞いていなかった。
目は。
奥。
さらに奥。
まだ見えない深層だけを見つめている。
そして。
静かに呟いた。
「……この先には」
「何が眠っているのでしょうね」
部下の一人が興奮気味に言う。
「ザーファル様!」
「この功績は歴史に残ります!」
その瞬間だった。
ザーファルの口元が、ほんの僅かに緩む。
「ええ」
「歴史になります」
その笑みを見て。
サフィラだけが、小さく目を伏せた。
ラシード様のため。
いつもと同じ言葉。
いつもと同じ笑顔。
なのに。
胸の奥だけが、小さくざわついた。
その時だった。
カチリ。
どこかで、小さな音が鳴った。
全員が足を止める。
「……今の」
エリオが呟く。
返事はなかった。
代わりに。
床が、小さく脈を打つ。
どくん。
どくん。
まるで巨大な心臓の上へ立っているようだった。
次の瞬間。
ゴゴゴゴゴ……!
空間そのものが、大きく揺れる。
「来るぞ!」
ベルクが叫んだ。
床が傾く。
いや。
傾いたのではない。
世界そのものが、ゆっくり回転し始めた。
「っ!」
壁だった場所が床になる。
床だった場所が天井へ持ち上がる。
水のない水路が、刃のように空間を横切った。
誰もが壁へ叩きつけられそうになる。
「掴まれ!」
ベルクが叫ぶ。
エリオは必死に柱へしがみついた。
石が冷たい。
指先が滑る。
その時だった。
「きゃっ!」
サフィラの足元が崩れた。
石畳が音もなく砕ける。
彼女の身体が、崩れた足場の先へ流される。
「サフィラ!」
ベルクが飛び出す。
だが。
目の前で床が裂けた。
崩落が、ベルクたちとサフィラを隔てる。
届かない。
その向こう側。
サフィラのすぐそばには。
ザーファルが立っていた。
手を伸ばせば届く。
本当に、それだけの距離だった。
サフィラも反射的に手を伸ばす。
「ザーファル!」
一瞬。
本当に一瞬だけ。
ザーファルも手を伸ばした。
指先が動く。
届く。
そう思った。
だが。
止まった。
視線だけが、サフィラを通り越す。
もっと奥。
暗闇の先へ向く。
崩れた足場の向こう。
細い光の道が、静かに現れていた。
部下が叫ぶ。
「ザーファル様!」
「サフィラ様が!」
ザーファルは答えない。
光の道だけを見ていた。
その瞳には。
もう迷いがなかった。
「……任務を優先する」
静かな声だった。
サフィラの瞳が揺れる。
「え……?」
ザーファルは光の道を見つめたまま続ける。
「この扉は二度と開かないかもしれない」
一拍。
「ラシード様なら」
「迷わず進まれる」
部下が戸惑う。
「ですが!」
「サフィラ様が!」
ザーファルは振り返らない。
「構うな」
その一言が。
冷たく迷宮へ響いた。
サフィラは崩れる足場へ取り残されたまま、小さく首を振る。
「……約束したでしょう」
その声だけが震えていた。
「弟たちを」
「助けるって」
ザーファルは初めて彼女を見る。
その顔には。
いつもの穏やかな笑みが浮かんでいた。
「もちろん」
「助けますよ」
一拍。
「あなたが生きていれば」
サフィラの呼吸が止まる。
「あなたがいなくなれば」
「約束は消えます」
ベルクの拳が震えた。
エリオも息を呑む。
ザーファルは続ける。
「死人との契約を守るほど」
「私は愚かではありません」
その言葉は。
剣より鋭く。
迷宮より冷たかった。
サフィラは何も言えなかった。
ただ。
静かに目を閉じる。
今まで信じてきたものが。
音もなく崩れていく音だけが。
胸の奥で響いていた。
「ベルク!」
エリオが叫ぶ。
だが。
ベルクの足が止まった。
違う。
止まったんじゃない。
止められたように、動かなかった。
目の前。
崩れ続ける足場。
暗闇。
伸ばされた手。
届くかもしれない距離。
その景色だけが。
ベルクの中の古い傷を、無理やりこじ開けていた。
「……っ」
ベルクの呼吸が乱れる。
指が、剣の柄を握る。
強く。
強く。
それでも。
一歩が出ない。
エリオは飛び出そうとした。
その瞬間。
足元の石が、音もなく沈んだ。
通路が裂ける。
光が途切れる。
暗い穴が口を開いた。
――進ませない。
迷宮が、そう言った気がした。
「エリオ!」
ベルクが反射的に腕を掴んだ。
「離せ!」
「今行けば、お前も落ちる!」
「でも!」
エリオは歯を食いしばる。
届かない。
いや。
届きそうなのに。
迷宮だけが、その一歩を拒んでいた。
サフィラは、構造の向こう側へ取り残されていた。
完全に落ちたわけではない。
けれど、こちらとはもう別の空間だった。
暗い通路の奥。
崩れた足場の先。
光の届かない場所に、ひとり立っている。
足場は、今も少しずつ削れていた。
サフィラがこちらを見る。
一瞬だけ。
何かを言いかける。
でも。
言わなかった。
責めもしない。
助けて、とも言わない。
ただ。
静かに見ている。
それが。
ベルクには何より痛かった。
ジャミルはその場に立っていた。
動ける距離にいる。
たぶん、動けた。
でも動かない。
「……なるほど」
ベルクが睨む。
「何だ」
「君」
一拍。
「そうやって止まるんだ」
ベルクの目が、わずかに揺れた。
「黙れ」
「そういう顔するんだ」
ジャミルは笑わなかった。
ジャミルの目はサフィラではなく、ベルクを見ていた。
助けるのか。
逃げるのか。
それを待っているみたいに。
ベルクは、歯を食いしばる。
剣の柄を握る。
足を前へ出そうとする。
だが。
動かない。
動かなかった。
奥で、巨大な音がした。
ゴォン。
ゴォン。
まるで、都市そのものの心臓が鳴ったような音。
壁の影が、ひとつ増える。
水のない水路が、ゆっくり震える。
プルが小さく言った。
「……何か、起きた」
誰も答えられなかった。
エリオはベルクを見る。
ベルクの顔は、青ざめていた。
その目は、今ここではないどこかを見ている。
昔。
仲間を失った迷宮。
踏み込めなかった半歩。
逃げた背中。
ベルクの指が、腰のキラるんを強く握る。
指が白くなるほど。
それでも。
足は、動かなかった。




