第55話 風追いゼルハ
砂丘の上に、老人が立っていた。
風が吹いている。
乾いた砂を運ぶ、いつもの風。
けれど、老人は目を細めた。
いつもの風ではない。
遠く。
砂の国の中央にそびえるピラミッド。
その影が、夕陽の中でわずかに揺れた。
「……また開いたか」
老人――ゼルハ=ヴァルドは、低く呟いた。
誰に聞かせるでもない声だった。
砂が、足元を流れていく。
風は前から吹いているはずなのに。
砂だけが、ピラミッドの方へ向かっていた。
「若い風が入った」
一拍。
「深層など、入口にすぎん」
ゼルハは、乾いた唇をわずかに歪めた。
笑ったのではない。
思い出したのだ。
あの日。
あの暗さ。
あの音のない場所。
風を読んでも、風が返ってこなかった場所。
「最深部へ辿り着いたのは、ワシだけじゃ」
その声に、誇りはなかった。
むしろ、傷のようだった。
ゼルハは首を振る。
「……いや」
「辿り着いた、などと呼ぶのもおこがましい」
風が止まる。
ほんの一瞬。
「ワシは、あれに“見られた”だけじゃ」
その時だった。
遠くの空が、わずかに濁った。
黒い雲ではない。
雨雲でもない。
もっと深い。
世界の底から、じわりと染み出してくるような気配。
ゼルハの目が細くなる。
「厄災が、濃くなっておる」
風が、低く鳴った。
まるで獣の喉のように。
ゼルハは、遠い空を見上げる。
「カカロン」
一拍。
「亡き友よ」
その名を呼んだ時だけ、声が少し柔らかくなった。
「お主がいなくなって、世界は変わろうとしておる」
先代カカロン。
強く、静かで、不器用な男だった。
ゼルハが追いつけなかった背中。
憎めなかった友。
越えられなかった壁。
そして今はもう、風の向こうにいない。
「リーナの声は、まだ細い」
「竜の地も、揺れておる」
ゼルハは、ピラミッドを見た。
その奥にいるはずの少年を、見ようとするように。
「だが……別の風が入った」
「選ばれなかった少年」
「変なカエルを連れた、若い風」
ゼルハは、少しだけ目を伏せた。
かつてサフィラに託した言葉。
いつか、その少年が来る。
仲間たちと一緒に。
その子を、最深部へ連れていってほしい。
それは予言ではなかった。
願いだった。
それでも、風は今、確かに動いている。
「……今度は、拒まれずに済むかもしれんな」
砂丘を渡る風が、ゼルハの外套を揺らす。
老人の体は、もう若くない。
剣も鈍った。
足も重い。
だが、耳だけはまだ風を聞いていた。
竜の嘆き。
厄災のうねり。
そして、まだ名も知らぬ少年の迷い。
「カカロン」
ゼルハは、もう一度だけ友の名を呼ぶ。
「お主のいない世界で」
「その風の行方を、ワシが見守ろう」
遠く、ピラミッドの奥で。
何かが静かに脈を打った。
ゼルハの足元の砂が、また一筋、ピラミッドへ向かって流れる。
老人は目を細めた。
「行け」
「若い風」
その声は、風にほどけて消えた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
第55話は、風追いゼルハの回でした。
ピラミッドの外で、砂と風の異変に気づいた老人。
彼は過去に何を見たのか。
カカロンとはどんな関係だったのか。
そして、なぜエリオたちのことを「若い風」と呼ぶのか。
ゼルハとは何者なのでしょうか。
砂の国編は、少しずつ世界の奥へ進んでいきます。
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