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第52話 侵入

 風が吹いていた。


 乾いた砂の風。


 荷車の軋む音。


 水売りの呼び声。


 朝日に照らされた砂の街は、今日も変わらず動いている。


 けれど。


 その向こう。


 巨大なピラミッドだけが、まるで別の世界みたいに沈黙していた。


 エリオは、その入口を見上げる。


 黒い。


 ただ黒かった。


 石でできているはずなのに。


 なぜか穴を見ている気分になる。


 飲み込むために開いた口。


 そんな印象だった。



 入口前には探索者たちが集まっていた。


 木板には大きな文字。


【深層探索隊 募集】

【成功報酬 金貨百枚】

【依頼主 元・水路区管理役 ハディム】


 周囲では声が飛び交っている。


「前衛募集!」


「回復役いるならこっち!」


「深層行くなら最低五人だ!」


 熱気があった。


 恐怖もあった。


 だが、それ以上に焦りがあった。


プルが探索者たちを見回す。


「わかったプルよ!」


 自信満々だった。


 嫌な予感しかしない。


「何がだ?」


 エリオが聞く。


 プルは大きく頷く。


「この建物の中に巨大な蛇がいる」


 沈黙。


「なんでそうなるの?」


 ルルカが聞く。


 プルは周囲の探索者たちを指差した。


「こんなに人が集まる理由、他にない。ないプル」


「あるわよ」


 ルルカが即答した。


「金」


「名誉」


「依頼」


「あと生活」


 プルは首を傾げる。


「蛇の方が分かりやすいプル」


「お前の基準で世界を見るな」


 ベルクが呆れた。


 その時だった。


 看板の近くで、やせた男が声を張り上げる。


 ハディムだった。


「ラシードに奪われた水路を取り戻す!」


「深層に原因があるなら止めるしかねぇ!」


「奇跡なんか待ってられるか!」


 探索者たちがざわつく。


「また始まったぞ」


「でも最近ほんとに水減ってるしな」


「ラシード様に逆らって大丈夫なのか?」


プルが小声で言った。


「蛇じゃなかった」


 一拍。


「まだ見つかってないだけか」


「諦めなさい」


 ルルカが即答した。


 エリオは静かに人々を見ていた。


 この国は揺れている。


 水だけじゃない。


 人の心も。


 信じるものも。


 少しずつ。


 確実に。



 その時だった。


 少し離れた場所。


 片腕の男が募集板を見上げていた。


 日に焼けた顔。


 古い外套。


 失った右腕の袖だけが風に揺れている。


「まだ行くのか」


 仲間らしい男が声をかけた。


 片腕の男は答えない。


 ただピラミッドを見ている。


「もう三年だぞ」


「諦めろ」


 一拍。


 男は静かに言った。


「弟がいる」


 仲間が眉をひそめる。


「死んでる」


「知ってる」


 男は頷いた。


 そして。


「骨だけでも連れて帰る」


 それ以上、誰も何も言わなかった。


 巨大なピラミッドだけが沈黙している。


 何人の人生を飲み込んだのかも分からないまま。



「そこの綺麗なお姉さん」


 若い探索者がサフィラへ声をかける。


「迷宮探索かい?」


「俺たちと組まない?」


 サフィラは無表情だった。


「連れがいるの」


 一拍。


「ザコに用はないわ」


 探索者の笑顔が固まる。


 プルが小声で言った。


「サフィラ強い」


「通常運転よ」


 ルルカが返した。



 人混みが割れた。


 白い外套の男たち。


 先頭にいる男がサフィラへ頭を下げる。


「お嬢様」


 サフィラの表情が消えた。


「その呼び方はやめて」


「失礼しました」


 男は笑顔のまま続ける。


「ラシード様より」


「無茶をさせぬよう仰せつかっております」


 ベルクの目が細くなる。


 サフィラは冷たく言った。


「まだ誰のものでもないわ」


「好きにさせてもらう」


 男は丁寧に一礼する。


「ええ」


「遠くから見守らせていただきます」


 ジャミルが横で呟いた。


「うわ、ザーファルまで来たんだ」


 エリオが聞く。


「あいつ誰だ」


「ラシード直属の忠犬」


 ジャミルは笑う。


「噛む相手は主人が決めるけど」


 ザーファルは一礼だけ残し去っていった。



 入口前は騒がしい。


 金。


 名声。


 恐怖。


 欲望。


 いろんなものが渦を巻いている。


 だが。


 巨大なピラミッドだけは何も語らない。


 ただ黙って見下ろしていた。


 リュカが息を呑む。


「近くで見ると大きいね」


「大きいというより圧迫感ね」


 ルルカが答える。


 ベルクは入口を見たまま言った。


「入った瞬間、空気が変わる」


 その声は妙に重かった。


 サフィラが横顔を見る。


「怖い?」


 ベルクは鼻を鳴らす。


「当たり前だ」


 一拍。


「怖くねぇ迷宮なんかねぇ」


 エリオは少し驚いた。


 ベルクがそう言うのを初めて聞いた気がした。


 でも。


 その言葉の方が本物に聞こえた。



「今ならまだ帰れるよ?」


 軽い声だった。


 ジャミルが壁にもたれたまま笑っている。


「迷宮ってね」


「入るより、戻る方が難しいから」


 冗談みたいな口調。


 けれど、妙に笑えなかった。


 エリオは蒼刃の柄を握る。


「……それは嫌だ」


「ん?」


 ジャミルが片眉を上げる。


 エリオは巨大な入口を見た。


「もう見て見ぬふりはしたくない」


 一拍。


「この国のことも」


「迷宮のことも」


「俺自身のことも」


 リュカが小さくエリオを見る。


 ルルカは少しだけ口元を緩めた。


「弱っちいのに、言うことだけは大きくなったじゃない」


「褒めてる?」


「三割くらい」


 ジャミルがくすりと笑う。


「やっぱり君、面白い」


 ベルクが低く言う。


「勝手についてくるなよ」


「やだ」


「即答かよ」


「興味あるし」


 軽い。


 軽いはずなのに。


 なぜか空気だけは軽くならなかった。



 そして。


 一行は、ピラミッド内部へ足を踏み入れた。


 一歩。


 まだ風がある。


 二歩。


 まだ街の音が聞こえる。


 三歩。


 静かになった。


 エリオは思わず立ち止まる。


「……あれ」


 風が消えていた。


 プルが首を傾げる。


「ねえ」


「今、誰か呼ばなかった?」


 全員が振り返る。


 誰もいない。


 外では探索者たちが動いている。


 だが声だけが聞こえない。


 リュカが小さく呟いた。


「変……」


 その一言だけが、やけにはっきり耳に残った。



 しばらく歩いた頃。


 プルが足を止めた。


「ねえ」


 全員が振り返る。


 プルは来た道を指差していた。


「まだ見えてる」


 その先。


 遥か後方に、小さな光が見える。


 入口だった。


 エリオは眉をひそめる。


 確かに見える。


 だが。


 妙に遠かった。


 ベルクが立ち止まる。


「……おかしいな」


「何が?」


 サフィラが聞く。


 ベルクは入口を見つめたまま答えた。


「距離が合わねぇ」


 一拍。


「とっくに見えなくなってるはずだ」


 誰も返事をしなかった。


 入口は確かにある。


 けれど。


 近づいているのか。


 離れているのか。


 それすら分からない。


 リュカが不安そうに周囲を見回した。


「ねえ」


「今度は何?」


 ルルカが聞く。


 リュカは少し迷ってから言った。


「私たち」


 一拍。


「ずっと下ってない?」


 全員が足元を見る。


 平坦だった。


 少なくとも見た目は。


 坂などない。


 けれど。


 エリオも気づいていた。


 耳が少しだけ詰まる。


 高い場所から低い場所へ降りる時の感覚。


 ずっと前から。


 ベルクの表情が険しくなる。


「……気づくな」


「え?」


「迷宮で違和感を数え始めるな」


 低い声だった。


「全部拾ってたら頭がおかしくなる」


 その言葉に。


 誰も笑わなかった。


 ジャミルだけが楽しそうに笑う。


「へぇ」


「今回は当たり迷宮だ」


 軽い声だった。


 けれど。


 その目だけは、少しも笑っていなかった。



 リュカは何度も後ろを振り返っていた。


 入口。


 距離。


 下り続ける感覚。


 全部がおかしい。


 そして。


 ふと壁へ目が止まる。


 なぜか。


 目が離せなかった。


 リュカは壁へ近づいた。


 模様を見つめる。


 何かに引き寄せられるみたいに。


 一歩。


 前へ。


 その瞬間。


 ぐいっ。


「きゃっ!?」


 後ろへ引かれた。


 ジャミルだった。


 軽々と首根っこを掴んでいる。


「危ない危ない」


 次の瞬間。


 リュカが立っていた床が沈んだ。


 音もなく。


 ごぼり、と。


 黒い穴が口を開ける。


 底は見えない。


 まるで奈落だった。


 全員の空気が凍る。


 ジャミルは穴を覗き込んだ。


「そこ踏むと落ちるよ」


 軽い口調。


 でも。


 目だけが笑っていなかった。


「落ちた人、戻ってきたの見たことないな」


 リュカの顔が青くなる。


「……っ」


 エリオは思わず聞いた。


「なんで分かった?」


「んー?」


 ジャミルは肩をすくめる。


「勘」


「信用できねぇ」


「ひどいなぁ」


 けれど。


 今、リュカを助けたのは間違いなくジャミルだった。



 その後。


 一行は無言になった。


 喋る気が失せた。


 誰も口にはしなかった。


 けれど。


 全員が同じものを感じていた。


 この場所は、おかしい。


 蒼刃が、かすかに熱を帯びていた。


 ベルクも。


 ルルカも。


 リュカも。


 誰も口を開かない。


 プルだけが何か言いかけて。


 そしてやめた。


 この国を救う。


 迷宮の謎を解く。


 そんな言葉すら、いつの間にか頭から消えていた。


 今、エリオの胸にあるのは一つだけだった。


 ――この場所は、何なんだ。


 その時。


 リュカが小さく言った。


「……エリオ」


「ん?」


「今」


 一拍。


「同じこと思った?」


 エリオは答えなかった。


 答えなくても分かった。


 リュカも感じている。


 この場所は、ただの遺跡じゃない。


 その時。


 どこか遠くで。


 何かが動いた気がした。


 全員が顔を上げる。


 だが。


 そこには何もなかった。

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