第50話 逃げた背中
夜の風が、宿の屋上を吹き抜けていた。
昼の熱はまだ石畳に残っている。
けれど風だけは、少し冷たかった。
ベルクは屋上の端に座っていた。
夜風が、汗の残る髪を揺らす。
昼間の訓練でついた砂が、まだ服の裾に残っていた。
エリオは階段を上がりきると、その背中を見た。
「……隣、いいか」
ベルクは答えない。
でも追い返しもしなかった。
エリオは少し離れて腰を下ろす。
風の音だけが流れた。
⸻
しばらくして、エリオが口を開く。
「ガザルの時」
ベルクは動かない。
「なんで止まった」
一拍。
「勝てただろ」
風が吹く。
ベルクは、水袋を軽く揺らした。
中の水が、ちゃぷんと鳴る。
それから、低く言った。
「踏み込めなかった」
エリオは眉を寄せる。
「なんで」
ベルクは少し黙る。
「……癖だ」
短い声だった。
でも、その言葉だけ妙に重かった。
⸻
「違うわ」
後ろから声がした。
サフィラだった。
砂布を押さえながら、ゆっくり歩いてくる。
月明かりの下で、その瞳だけが静かに光っていた。
「怖かったのよ」
ベルクの眉がわずかに動く。
「余計なこと言うな」
「余計じゃない」
サフィラはベルクの横で止まった。
「あなたは昔からそう」
「最後の一歩だけ、踏み込めない」
エリオは黙って二人を見る。
昨日の試合を思い出していた。
ベルクは強かった。
たぶん、本当に勝てた。
なのに引いた。
あの半歩だけ。
⸻
風が吹く。
サフィラが遠くのピラミッドを見た。
「昔、一緒に迷宮へ潜った」
ベルクは何も言わない。
「その頃のあなたは、今よりずっと無茶だった」
一拍。
「強くて、馬鹿で、真っ直ぐだった」
ベルクが小さく鼻を鳴らす。
「褒めてねぇな」
「褒めてないもの」
サフィラは静かに続けた。
「でも、迷宮で仲間が死んだ」
空気が止まった。
エリオは息を呑む。
「罠だった」
「あと少し踏み込めば、助けられた」
ベルクの指が、水袋を強く握る。
「でもあなたは止まった」
一拍。
「その一瞬で、全部終わった」
風だけが吹いていた。
サフィラの声は静かだった。
静かだからこそ、痛かった。
「仲間は死んだ」
「私も傷を負った」
「……そして、あなたはいなくなった」
ベルクは俯いたまま動かない。
反論しない。
できない。
そんな沈黙だった。
⸻
サフィラが低く言う。
「あなたは、いつも最後で引く」
「大事な時だけ逃げる」
ベルクの拳がわずかに震えた。
でも何も言わない。
エリオは胸の奥が重くなるのを感じていた。
ベルクは強い。
自分なんかよりずっと。
でも。
強いから壊れないわけじゃない。
強い人間にも、怖いものがある。
それを初めて知った気がした。
⸻
しばらくして。
ベルクが低く言った。
「守れなかった」
一拍。
「一度でも、自分のせいで誰か死ぬと」
風が吹く。
「次から足が出なくなる」
その声は、昼のベルクよりずっと弱かった。
でも、嘘はなかった。
エリオは何も言えない。
ベルクは続ける。
「踏み込めば勝てる」
「でも、その先でまた誰か死ぬかもしれねぇ」
「そう思うと……身体が止まる」
静かな夜だった。
遠くで祭りの名残みたいな音が小さく響いている。
でも、この屋上だけ別の場所みたいだった。
⸻
サフィラは俯いた。
長い沈黙。
そして、小さく言った。
「……それでも」
ベルクが目を向ける。
サフィラの目が少しだけ揺れていた。
「それでも来てほしかった」
一拍。
「逃げないでほしかった」
その声だけ、少し震えていた。
ベルクは何も言えない。
言葉を探して。
でも見つからなくて。
結局、視線を逸らした。
サフィラは小さく笑う。
泣きそうなのに、笑った。
「ほら」
「そういうところ」
ベルクの拳が、また少しだけ握られる。
⸻
エリオは黙っていた。
まだ全部は分からない。
自分はまだ、誰かを失ったことがない。
だから、本当の怖さは分からない。
でも。
ベルクがただの強い人じゃないことだけは分かった。
怖いのに立っている。
震えながら剣を持っている。
それはたぶん、弱さじゃない。
⸻
サフィラが遠くのピラミッドを見た。
「迷宮は、人の弱さを暴く」
ベルクが低く言う。
「だから死ぬ」
エリオは蒼刃の柄を握った。
朝の訓練の時より少しだけ、熱が伝わる。
風が吹く。
砂が流れる。
遠くで巨大なピラミッドだけが、夜空の下に黙って立っていた。
逃げない強さが、
この世界には必要だった。
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