第49話 エリオの壁
ザン。
ザン。
ザン。
朝の宿裏に、蒼刃の音だけが響いていた。
まだ街は眠りきっている。
けれど、エリオは眠れなかった。
折れた砂剣。
二回戦敗退。
見えなかった霧島の剣。
そして、リュカが初めて灯した治癒の光。
みんな、少しずつ前へ進んでいる。
なのに。
「……っ!」
エリオは蒼刃を振った。
ザン。
剣筋が荒い。
自分でも分かる。
でも止まれない。
「朝からうるせぇな」
背後から声がした。
ベルクだった。
腕を組み、眠そうな顔で立っている。
「力みすぎだ」
エリオは息を切らしながら振り返る。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
声が少し荒くなった。
「強くならなきゃいけないんだ」
「昨日みたいなままじゃ、迷宮なんて行けない」
ベルクはしばらく黙っていた。
そして、短く言った。
「剣だけじゃ死ぬ」
エリオの喉が詰まった。
「……何だよ、それ」
「そのままの意味だ」
ベルクは木剣を拾い、軽く肩に乗せた。
「来い」
⸻
エリオは踏み込んだ。
全力で振る。
ベルクは半歩ずれた。
空を切る。
すぐに返す。
また避けられる。
今度は低く。
それも読まれる。
ベルクの木剣が、エリオの手首を軽く叩いた。
「遅い」
「もう一回!」
エリオは歯を食いしばる。
打ち込む。
かわされる。
受け流される。
崩される。
ベルクはほとんど動いていない。
なのに届かない。
「見えてねぇ」
木剣が肩に当たる。
「相手を斬ることしか考えてねぇ」
今度は足を払われた。
エリオは砂の上に膝をつく。
「くそ……!」
悔しい。
昨日と同じだ。
見えているはずなのに、間に合わない。
届くはずなのに、届かない。
「それじゃ迷宮では三分ね」
横から声がした。
ルルカだった。
いつの間にか裏庭の壁にもたれている。
プルとリュカも一緒だった。
「三分!?」
エリオが顔を上げる。
ルルカは真顔で言った。
「長めに言ってあげたのよ」
「ひどくないか!?」
「優しい方よ」
プルがうんうんと頷く。
「プルなら五分はいける」
「お前は何を根拠に言ってるんだ」
「気持ち」
「一番信用できねぇ」
少しだけ空気がゆるんだ。
でも、エリオの胸の重さは消えなかった。
⸻
ルルカは一枚の布を取り出した。
「目を閉じなさい」
「え?」
「いいから」
エリオは渋々目を閉じる。
ルルカが布で軽く目元を覆った。
視界が暗くなる。
風の音が少し大きくなった。
「迷宮では、見えるものだけ信じたら死ぬわ」
ルルカの声が近い。
「音」
「風」
「熱」
「砂の沈み方」
「相手の呼吸」
「違和感」
一拍。
「全部拾いなさい」
エリオは息を呑んだ。
「そんなの、急にできるわけ――」
「できないなら死ぬだけよ」
容赦がない。
でも、昨日聞いた声が頭をよぎる。
その程度じゃ、迷宮では死ぬぞ。
エリオは拳を握った。
「……やる」
ベルクが木剣を構える気配がした。
「じゃあ避けてみろ」
「見えないのに!?」
「見えねぇからやるんだろ」
無茶苦茶だ。
でも、やるしかない。
⸻
足音。
砂がこすれる音。
風。
どこだ。
右か。
エリオは右へ動いた。
こつん。
頭を叩かれる。
「逆だ」
「くそ!」
もう一度。
今度は左。
こつん。
「遅い」
三度目。
今度は下がる。
木剣が肩をかすめた。
「読めてねぇ」
エリオの息が荒くなる。
分からない。
何も分からない。
その時、妙な声がした。
「今のプルは右!」
右。
エリオは反応する。
何もない。
「左!」
左へ向く。
何もない。
「正解は上!」
「うるせぇ!」
布を少しずらして見上げると、プルが壁に張りついていた。
「なんでそこにいるんだよ!」
「心の位置を読む訓練だよ」
「身体の位置を読ませろ!」
リュカが思わず笑った。
ルルカも呆れたように肩をすくめる。
「邪魔だけど、まあ訓練にはなるわね」
「なるのかよ……」
エリオは布を戻した。
また暗くなる。
ベルクの気配が消えた。
いや、消えたように感じる。
どこだ。
どこから来る。
焦るな。
でも焦る。
早く強くならないと。
リュカは進んだ。
霧島は待っていると言った。
迷宮はすぐそこにある。
自分だけ、足踏みしている。
「なんでだよ……」
声が漏れた。
その瞬間、ルルカが言った。
「焦ってるからよ」
エリオの動きが止まる。
「あなた、感じようとしてない」
「早く強くなろうとしてるだけ」
胸に刺さった。
図星だった。
強くなりたい。
いや、違う。
早く強くなりたい。
遅れている気がするから。
置いていかれる気がするから。
だから、剣を振っているだけだった。
⸻
少し離れた場所で、サフィラが見ていた。
彼女はぽつりと言う。
「あの人が言ってたわ」
エリオは布の下で顔を向ける。
「あの人?」
「最深部まで行った、変な老人」
サフィラは風に揺れる砂布を押さえた。
「風を読む前に、自分の音を消せ」
エリオは黙った。
自分の音。
荒い息。
焦る心臓。
強く握りすぎた指。
前へ前へと急ぐ足。
それ全部が、うるさい。
エリオはゆっくり息を吐いた。
剣を握る力を抜く。
足の裏で砂を感じる。
風。
朝の冷たさ。
少し遠くで、プルが壁から降りる音。
リュカの小さな息。
ルルカが本を閉じる音。
ベルクの呼吸。
左。
いや。
半歩、右。
エリオは動いた。
次の瞬間、ベルクの木剣が肩をかすめた。
当たらなかった。
完全には避けていない。
でも、さっきとは違った。
エリオは布を外す。
「今の……」
ベルクは木剣を下ろした。
「悪くねぇ」
短い一言。
それだけなのに、胸が熱くなった。
「本当か?」
「勘違いするな」
ベルクはすぐに言った。
「入口に立っただけだ」
ルルカも頷く。
「最初よりはマシね」
「褒めてるのか、それ」
「かなり褒めてるわよ」
リュカが嬉しそうに笑っていた。
プルも胸を張る。
「プルの上攻撃が効いたね」
「効いてない」
「心には効いた」
「うるさい」
エリオは息を切らしながら、蒼刃を見た。
ほんの少しだけ、熱を持っている気がした。
まだ弱い。
まだ足りない。
迷宮に入れば、きっと何度も足を取られる。
霧島には届かない。
ベルクにも届かない。
それでも。
少なくとも、昨日の自分よりは前に進んでいた。
エリオは蒼刃を握り直した。
強くなる道は、斬ることだけじゃない。
そのことを、初めて知った。
⸻
その頃。
宿の屋根より少し高い場所から、
裏庭を見下ろす影があった。
ジャミルだった。
「へえ」
彼は口元だけで笑う。
「昨日より、少しだけマシになってる」
ジャミルの隣には、顔の半分を布で隠した男がいた。
水商会の紋章だけが、乾いた朝日に浮いている。
「あれが、次に迷宮へ入る者たちか」
「たぶんね」
「見張れ」
ジャミルは肩をすくめる。
「見張るだけでいいんですか?」
男は答えない。
乾いた風が吹く。
ジャミルの足元で、黒い砂が一筋だけ流れた。
「了解」
彼は笑った。
「死なない程度に、かき回しますよ」




