第45話 水の呪い
屋敷を出てから、しばらく誰も話さなかった。
乾いた風が、肌を刺す。
さっきまで涼しい広間にいたせいか、外の熱が余計に重く感じる。
エリオは拳を握ったまま歩いていた。
「あんなやつ……」
思わず声が漏れる。
ベルクが低く言った。
「声を落とせ」
「なんでだよ」
「聞かれてる」
エリオは周囲を見る。
水路のそば。
屋根の影。
店先。
何気なく立っている男たちの視線が、こちらを追っていた。
普通の街のはずなのに。
どこにも逃げ場がない気がした。
サフィラは慣れたように歩いている。
慣れていることが、余計に苦しかった。
⸻
その時だった。
通りの向こうで、人が崩れ落ちた。
男だった。
水袋を抱えたまま、地面に膝をつき、喉を掻きむしっている。
「ぐ……っ」
体が震えていた。
顔は赤く、息が荒い。
周囲の人々は驚かない。
ただ、少しだけ距離を取った。
エリオが駆け出そうとする。
「おい!」
サフィラが短く言った。
「水切れよ」
エリオの足が止まる。
「水切れ……?」
近くにいた子どもが、小さく言った。
「飲めなかったんだ」
その声には、怖がるというより、知っているものを見る響きがあった。
リュカが口元を押さえる。
「そんな……」
男は喉を押さえたまま、地面に倒れ込む。
すぐに、水商会の男たちが現れた。
だが、助けに来たようには見えなかった。
荷物を拾うみたいに男の腕を掴み、引きずっていく。
「次」
配給所の前には、長い列ができていた。
水袋を抱えた人。
うつむく老人。
子どもを抱いた母親。
誰もが静かだった。
静かすぎた。
⸻
サフィラは列を見つめたまま言う。
「一定期間、ラシードの水を飲まないと、ああなる」
「最初は熱」
「次に渇き」
「最後は立てなくなる」
リュカが震える声で聞いた。
「治せないの?」
誰もすぐには答えなかった。
ルルカは、男が運ばれていった方を見つめていた。
「サフィラ」
「普通の水じゃ、無理だったわね」
サフィラは静かに頷いた。
「そうよ」
「体が、普通の水を受けつけない」
ルルカの表情が険しくなる。
「治癒魔法で水質まで変えるとなると……」
一拍。
「国家級の魔導師でも難しいわ」
「それくらい、この病は深い」
リュカの手がぎゅっと握られた。
エリオは歯を食いしばる。
「ふざけんな……」
拳が震える。
「そんなの、毒じゃねえか!」
その瞬間、列の人々がびくっとした。
母親が子どもの耳を塞ぐ。
老人が目を伏せる。
誰かが小声で言った。
「静かにしろ」
「聞かれるぞ」
エリオは息を呑む。
怒ることすら、怖がられる国。
それが、ここだった。
⸻
列に並んでいた老人が、ゆっくり顔を上げた。
「坊や」
エリオを見る。
皺だらけの顔。
乾いた唇。
それでも目だけは、妙にはっきりしていた。
「毒でも、水なんだよ」
エリオは何も言えない。
老人は続けた。
「ないよりは、ずっといい」
その言葉が、胸に刺さった。
間違っている。
絶対に間違っている。
でも、今ここでその言葉を否定できなかった。
水がなければ、死ぬ。
その現実だけが、目の前にあった。
⸻
列の前の方で、小さな子どもが母親の袖を引いた。
「お母さん」
「今日、飲める?」
母親は笑った。
疲れた顔で。
それでも、子どもには笑った。
「飲めるよ」
「大丈夫」
でも、その目は配給所の桶を見ていた。
残りは少ない。
リュカはそれに気づいてしまった。
胸がぎゅっと痛む。
助けたい。
でも、自分にはまだ何もできない。
リュカは唇を噛む。
ルルカがそっと言う。
「見ておきなさい」
「これも、あなたが覚えるべき痛みよ」
リュカは小さく頷いた。
目を逸らさなかった。
⸻
エリオは低く言った。
「壊すしかないだろ」
ベルクが横を見る。
「何をだ」
「こんな仕組み全部だよ」
ベルクは静かに首を振る。
「壊した瞬間、今日ここにいる連中が倒れる」
エリオは言葉を失った。
ベルクは続ける。
「水を止めれば、人が死ぬ」
「ラシードを斬っても、呪いが消えるとは限らねえ」
「怒るだけじゃ、守れねえ」
エリオは拳を握った。
何も言い返せない。
それが悔しい。
ただ悔しい。
サフィラが遠くのピラミッドを見た。
「だから皆、待ってるの」
乾いた風が、砂を運ぶ。
「誰かが、あの迷宮を変えてくれるのを」
エリオもピラミッドを見る。
巨大な影。
砂の中に突き刺さるように立つ、異様な建造物。
サフィラは言った。
「でも、誰も最深部まで行けない」
一拍。
「――ある一人を除いてね」
エリオは目を見開く。
「最深部まで行った奴がいるのか?」
サフィラは微笑んだ。
「私だけが知る秘密」
そう言って、少しだけ遠くを見る。
「ずっと前に、頼まれたの」
「いつか、少年が来る」
「変なカエルを連れて」
「仲間たちと一緒に」
エリオの息が止まった。
「……それって」
サフィラは、まっすぐエリオを見る。
「その子を、最深部へ連れていってほしいって」
一拍。
「竜守り人に選ばれなかった少年」
「私は、あなたが来るのを待っていたの」
静寂が落ちた。
「あそこに、始まりがある」
胸の奥で、何かが鳴った。
サフィラの目は、少しも揺れていなかった。
まるでずっと前から、
この瞬間だけを待っていたみたいに。
エリオは、息を呑む。
ピラミッド迷宮の最深部。
誰も辿り着けない場所。
そこにあるという、始まり。
何ができるのかは、分からない。
今の自分に、
誰かを救える力があるのかも分からない。
それでも。
エリオは、拳を握った。
何もしない理由にはならない。
その時。
遠くのピラミッドから、乾いた風が吹いた。
腰の蒼刃が、かすかに鳴る。
まるで、その決意に応えるみたいに。
夕日に染まるピラミッドだけが、
遠くで黙って立っていた。
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