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第44話 水を持つ男

 屋敷の門をくぐった瞬間、空気が変わった。


 外の熱が、嘘みたいに薄れる。


 白い石の床。


 壁を伝う水。


 整えられた庭。


 青々とした葉。


 さっきまでの乾いた路地とは、同じ国とは思えなかった。


 リュカが小さく呟く。


「……同じ国なの?」


 エリオは答えられなかった。


 庭の水路では、透き通った水が音を立てて流れている。


 その音が、やけに耳に残った。


 外では、水袋ひとつを奪い合っていた。


 なのに、ここでは水が飾りになっている。


 プルが水路を覗き込む。


「これ、飲んでいいやつ?」


「やめておきなさい」


 ルルカが短く止めた。


 プルはしゅんとする。


「見るだけ……」


 サフィラは慣れた足取りで進んでいく。


 使用人たちが頭を下げた。


 だが、その目は笑っていない。


 扉の前には衛兵。


 廊下の角にも衛兵。


 まるで、客を迎えているというより、逃げ道を塞いでいるようだった。


 ルルカが小さく言う。


「歓迎、って空気じゃないわね」


 サフィラは前を向いたまま答える。


「ええ」


「逃げないように、丁重に扱われてるの」


 誰も笑えなかった。



 広間へ通された。


 大きな窓。


 涼しい風。


 中央には水盤。


 その水面は、鏡みたいに静かだった。


 その奥に、一人の男が座っていた。


 思っていたより若い。


 白と青を基調にした上質な衣。


 整った顔。


 穏やかな笑み。


 男はゆっくり立ち上がった。


「ようこそ、旅人たち」


 声も穏やかだった。


「私はラシード・アル=ヴァール」


 一拍。


「この国の水を、預かる者です」


 エリオは息を呑んだ。


 この男が。


 この国を縛っている男。


 だが、目の前にいる男は、怪物には見えなかった。


 怒鳴らない。


 威圧もしない。


 ただ、静かに笑っていた。


 ラシードはサフィラを見る。


「今日も綺麗だ、サフィラ」


 サフィラは何も答えない。


 表情も変えない。


 その沈黙だけで、十分だった。


 ラシードは気にした様子もなく、手を広げる。


「さあ、座ってください」


「冷たい水も用意しています」


 その言葉に、エリオの胸がざわついた。


 冷たい水。


 外では、子どもが倒れていた。


 ここでは、水が客をもてなすために出される。


 綺麗な水差しの中で、透明な水が揺れていた。



 ラシードの視線がベルクへ向いた。


「君……もしかして、ベルクか」


 ベルクは黙っている。


 一拍。


「……そうか」


「君が」


 愛刀の柄で、小さなキラるんがわずかに揺れた。


 ラシードは柔らかく笑った。


「彼女の昔話に、よく出てくる」


 サフィラの眉がわずかに動く。


「余計なことを言わないで」


「失礼」


 ラシードは少しも悪びれずに頭を下げた。


 そして、ベルクへ向き直る。


「安心してほしい」


「私は、逃げたりしない男だ」


 空気が一瞬、固まった。


 ベルクは何も言わない。


 だが、その拳がわずかに握られた。


 エリオはそれを見逃さなかった。


 ラシードは笑っている。


 笑ったまま、人の一番痛い場所を触っていた。



 エリオは我慢できずに口を開いた。


「なんで、皆を苦しませてるんだ」


 広間の空気が止まる。


 ベルクが小さく息を吐く。


 だが、ラシードは怒らなかった。


 むしろ、少し嬉しそうに見えた。


「皆を苦しませている?」


「水を独り占めしてるんだろ」


 エリオは水盤を見る。


「外じゃ、水がなくて倒れてる人もいた」


「なのに、ここにはこんなにある」


 ラシードは静かに頷いた。


「なるほど」


「君には、そう見えるのだね」


「違うのかよ」


「違う」


 ラシードは柔らかく言った。


「私は独り占めしているのではない」


「管理しているんだ」


 エリオの眉が寄る。


「管理?」


「そう」


 ラシードは水盤に指を触れた。


 水面が小さく揺れる。


「水を平等に配れば、この国は三日で奪い合いになる」


「人は渇けば、簡単に獣になる」


 その声には、迷いがなかった。


「だから管理する」


「誰に、どれだけ必要か」


「誰が従い、誰が乱すか」


「それを見極めて、水を渡す」


 エリオは拳を握った。


「そんなの、支配だろ」


「言い方は自由だよ」


 ラシードは微笑む。


「でも、私はこの国を生かしている」


「君は、全員に水を配れるのかい?」


 エリオは言葉に詰まった。


 配れない。


 今の自分には。


 水一杯すら、どうにもできない。


 それが悔しかった。



 リュカは、水差しを見つめていた。


 そこにある水は、綺麗だった。


 でも、なぜか怖かった。


 ルルカも同じものを見ている。


 表情は険しい。


「あなたの水を飲まないと、民は体を壊すそうね」


 ルルカが言った。


 ラシードは目を細める。


「物知りな方だ」


「否定しないのね」


「事実を否定しても仕方がない」


 ラシードは平然と言う。


「ただ、誤解はある」


「誤解?」


「彼らは私の水で苦しんでいるのではない」


 一拍。


「私の水があるから、生きていられる」


 その声には、少しの迷いもなかった。


「民の多くは、私の水で日々を保っている」


「そして一部の者は、迷宮の呪いに深く侵されている」


 ラシードはサフィラへ、ちらりと視線を向けた。


「普通の水では救えない者たちだ」


 サフィラは何も言わない。


 ただ、指先だけが強く握られていた。


 エリオは思わず言う。


「だから従えってことかよ」


 ラシードは首を横に振った。


「従わせているのではない」


「必要とされているんだ」


 その言葉に、エリオの胸が熱くなる。


 怒りなのか、悔しさなのか、自分でも分からなかった。


 ルルカの目が鋭くなる。


「その“必要”を作ったのが、あなたでも?」


 初めて、ラシードの笑みが少しだけ薄くなった。


 だがすぐに戻る。


「難しい話だ」


「いずれ分かる時も来るでしょう」



 ラシードはサフィラへ視線を戻した。


「来月、彼女は私の妻になる」


 何でもないことのように言った。


「祝ってくれると嬉しい」


 サフィラの拳が、わずかに震えた。


 ベルクの顔が変わる。


 エリオは一歩前へ出た。


「それが、彼女の本当の幸せなのか」


 ベルクが止めるより早かった。


 ラシードは笑顔のまま、エリオを見る。


「幸せかどうかは、本人が決めることだ」


 一拍。


「なら、彼女に聞いてみるといい」


 ラシードはサフィラへ視線を向けた。


「サフィラ。君はどう思う?」


 全員の視線がサフィラへ向いた。


 サフィラは黙っていた。


 唇が、少しだけ動く。


 ベルクの方を見そうになって、

 すぐに目を伏せた。


 何か言おうとして。


 飲み込んだ。


 そして、静かに言った。


「……そういう話よ」


 リュカが息を呑む。


 プルですら何も言わなかった。


 ラシードは満足そうに頷く。


「彼女は賢い」


「家族を大切にする、素晴らしい女性だ」


 その言葉で、サフィラの肩がわずかに揺れた。


 家族。


 その言葉が、鎖のように響いた。



 ベルクが低く言う。


「……家族を盾にしてるのか」


 ラシードは穏やかに首を振った。


「盾ではない」


「守っている」


 一拍。


「彼女の弟妹は、迷宮の呪いに侵されていてね」


 サフィラの肩が、わずかに揺れた。


「普通の水では、症状を抑えられない」


「治癒魔法でも、一時しのぎにしかならない」


 ラシードは水盤へ視線を落とす。


「私の水だけが、あの子たちの命を繋いでいる」


 ベルクの目が細くなる。


「それを盾と言うんだ」


 ラシードは微笑んだ。


「いいや」


「私は彼女の家族を救っている」


「ならば、私が面倒を見るのは当然だろう?」


 ベルクの拳が、わずかに震えた。


「言い方だけは立派だな」


 ラシードは穏やかに頷く。


「ありがとう」


「褒め言葉として受け取っておくよ」


 ベルクはそれ以上言わない。


 言えば、斬りかかりそうだった。



 ラシードは立ち上がった。


「今日はここまでにしましょう」


「旅人には、この国は少し暑いでしょうから」


 使用人が扉を開ける。


 サフィラは黙って歩き出した。


 ベルクも続く。


 エリオも踵を返そうとした。


 その時。


「エリオ君」


 呼び止められた。


 エリオは振り返る。


 ラシードは、変わらず優しい顔をしていた。


「君は優しい」


 一拍。


「だが、優しさだけでは人は救えない」


 水盤の音が、静かに響く。


「水一杯すら、ね」


 エリオは何も言えなかった。


 ラシードは笑う。


「私を憎むのは自由だ」


「だが、私が水を止めれば、救える命も止まる」


 さらに一拍。


「この国で人を救えるのは、今のところ私だけだ」


 その言葉が、胸に刺さった。


 悔しい。


 腹が立つ。


 でも、何も返せない。


 エリオは黙って広間を出た。



 外に出た瞬間、熱風が肌を打った。


 乾いた空気。


 砂の匂い。


 遠くで、水を求める人の列が見える。


 屋敷の中には、あんなに水があった。


 エリオは拳を握る。


 ベルクが隣に立った。


「悔しいか」


「……悔しい」


「なら覚えとけ」


 ベルクは低く言った。


「怒りだけじゃ、何も守れねえ」


 エリオは黙って頷いた。


 その後ろで、サフィラは屋敷を振り返らなかった。


 リュカはそんな彼女の横顔を見て、胸が痛くなった。


 優しい顔をしたまま、人を渇かせる男だった。

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