第43話 雨が止んだ国
サフィラは振り返らずに歩いていた。
砂布の端が、乾いた風に揺れる。
「あんたたち、何を知りたいの?」
前を向いたまま、そう言った。
エリオは少し考えてから答えた。
「竜の地のこと」
「さっき“二回目”って言ってた」
「何か知ってるんだろう」
サフィラは少しだけ目を細めた。
「少しだけね……」
一拍。
「でも、その前にこの国のことから知ってもらう必要があるわ」
プルが首をかしげる。
「あの白いきのこみたいなやつのこと?」
「ええ。あのピラミッドのことも、他のことも」
サフィラは一瞬だけ視線を落として、小さく鼻を鳴らした。
「まあいいわ」
「実際に見てちょうだい」
そのまま、人の多い通りへ入っていく。
⸻
最初に通ったのは、賑やかな表通りだった。
白い石畳。
香辛料の匂い。
色鮮やかな布。
仮面を売る露店。
噴水のそばでは、綺麗な服を着た子どもたちが笑っている。
プルが駆け出した。
「見て見て! 水が出てる!」
「飛び込むなよ」
ベルクが即座に釘を刺す。
プルはしゅんと肩を落とした。
「見るだけだよ……」
リュカは周囲を見回した。
「わぁ……思ってたより明るい国なんだね」
「水もちゃんとあるんだ……」
サフィラは肩越しに答える。
「表はね」
その一言だけで、空気が少し変わった。
⸻
路地を一本曲がる。
さらにもう一本。
すると、街の顔が変わった。
石畳はひび割れ、壁は汚れている。
地面には砂が溜まり、水の気配はどこにもない。
長い列ができていた。
水袋を持った人たちの列だ。
先頭には、小さな桶と、見張りの男。
後ろには、疲れ切った顔。
痩せた老人。
うずくまる子ども。
赤ん坊を抱いた母親。
さっきの噴水のある通りとは、同じ国と思えなかった。
エリオが足を止める。
「……なんだよ、これ」
サフィラは立ち止まらない。
「これがこの国の、もう一つの顔」
ルルカが低く言う。
「表と裏、ってわけね」
「そうよ」
サフィラは少しだけ振り返った。
「表が“見せたい顔”で、こっちが“ほんとの顔”」
その声には、妙な重みがあった。
⸻
しばらく歩いた先で、サフィラは高台のような場所に立った。
そこからは街のほとんどが見渡せる。
遠くには、あの巨大なピラミッド。
近くには、乾いた路地。
さらに向こうには、水路に囲まれた白い屋敷の並ぶ区画。
同じ空の下にあるとは思えないくらい、景色が割れていた。
ルルカが問う。
「いつからこうなったの?」
サフィラは答えるまで、少し時間を置いた。
「数年前」
その視線が、遠くのピラミッドへ向く。
「あれが出てきた頃から」
エリオが目を細める。
「やっぱり、関係あるのか」
「あるわよ」
サフィラは乾いた笑みを浮かべた。
「最初は皆、大騒ぎだった」
「神の贈り物だ、宝の山だ、国が豊かになるってね」
「実際、最初の頃は宝も出たわ」
そこで言葉を切る。
「でも、そのあと雨が止んだ」
リュカが息を呑む。
「止んだ……?」
「ええ」
「一度や二度じゃない」
「ぴたりと、降らなくなった」
ルルカの表情が曇る。
「水魔法も」
「使えなくなった」
サフィラが続ける。
「井戸は浅くなる」
「川は痩せる」
「人は水を求めて迷宮に群がった」
一拍。
「そして、一人の男がそれを持ち帰った」
全員がサフィラを見る。
サフィラの目は、もう街ではなく、もっと遠くを見ていた。
「水を操る力」
「この国の命を握れるだけの力」
エリオが低く言う。
「……そいつが」
「この国を支配してるの?」
サフィラはすぐには頷かなかった。
「表向きは、救ったのよ」
「水を与えた」
「干上がるはずだった国を、生かした」
「だから皆、最初は感謝した」
その声に混じるのは、怒りではなく、もう疲れきった諦めだった。
「でも、気づいた時には遅かった」
サフィラは小さく息を吐く。
「……その水を飲まないと、身体を壊すようになったの」
一同が止まる。
風だけが、高台を抜けた。
「高熱が出る」
「立てなくなる」
「喉が焼けるみたいに渇く」
「ひどいと、幻まで見る」
リュカの顔色が変わる。
「そんなの……」
「だから、誰も逆らえない」
サフィラは言った。
「逃げても無駄」
「水から離れれば、いずれ倒れる」
「この国の人間は、あの男の水に生かされてる」
「だから同時に、縛られてる」
ルルカが低く呟く。
「……水の呪い」
サフィラは肩をすくめた。
「皆そう呼んでるわ」
「でも、外には出ない」
「出させないのよ」
エリオの拳が握られる。
「そんなの……めちゃくちゃだろ」
「ええ」
サフィラはあっさり認めた。
「でも、そのめちゃくちゃの上で、生きるしかない人間の方が多いの」
⸻
そのまま歩き続けると、今度は大きな水路のある区画に出た。
石造りの立派な屋敷。
整えられた庭。
白い壁を流れる水。
回る水車。
涼しい顔をした使用人たち。
同じ国の中とは思えないほど、ここには水があった。
サフィラが言う。
「水を持つ者が、この国の上に立つ」
「今はもう、それだけよ」
エリオが眉を寄せる。
「……皆、そいつに従ってるのか」
「従うしかないの」
サフィラは短く答える。
「飲まなきゃ倒れる」
「逆らえば家族が干上がる」
「それで十分でしょ」
その時だった。
通りの端で、小さな悲鳴が上がる。
「返して!」
痩せた子どもが、水袋を抱えて逃げようとしていた。
その腕を、商人が乱暴につかむ。
「盗人が!」
「それ、うちの配給水だろ!」
「ち、違う……!」
子どもは震えていた。
隣にはもっと小さな妹らしき子がいる。
目だけが、乾いていた。
商人が手を振り上げる。
エリオが一歩前へ出た。
「やめろ!」
その腕を、ベルクがつかむ。
「待て」
「待てるかよ!」
エリオが振り返る。
目が熱い。
ベルクは低い声で言った。
「今ここで殴って終わるなら、誰かがとっくにやってる」
「でも――」
「感情だけで突っ込んでも変わらん」
エリオは拳を握ったまま、動けない。
悔しい。
サフィラが、子どもたちと商人を見たまま言う。
「ベルクの言う通りよ」
「怒るだけで変わるなら、この国はもう変わってる」
エリオは唇を噛む。
「……でも」
「放っておけるかよ」
サフィラはその言葉に、少しだけ目を細めた。
「放っておけないなら、壊し方じゃなく変え方を考えることね」
「今この国に必要なのは、正しい怒りじゃない」
「止められる力よ」
その声は、冷たいのではなかった。
何度も見てきた人の声だった。
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その騒ぎの最中、リュカは子どもの妹の方にしゃがみこんだ。
顔色が悪い。
さっき市場で見た子と同じように、唇が乾いている。
助けたい。
でも、まだ自分にはできない。
リュカはぎゅっと手を握る。
ルルカが横に立った。
「焦らない」
小さく言う。
「今は見るのも力よ」
リュカは悔しそうに頷いた。
でも、その目は逸らさなかった。
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歩き出して少しした頃。
前から下品な笑い声が聞こえてきた。
豪華な服を着た男たちだ。
そのうちの一人がサフィラを見て、にやりと笑う。
「おや」
「来月には第六婦人になる女じゃないか」
別の男が続ける。
「今のうちに好きに歩いとけよ」
「嫁に入ったら、そんな自由ないだろ」
サフィラの表情が消えた。
その瞬間。
ベルクが一歩前へ出た。
何も言わない。
ただ立っただけ。
なのに、男たちの笑いが止まる。
空気が変わった。
エリオは横顔を見る。
ベルクは怒っていた。
静かに、はっきりと。
男たちは視線を逸らし、舌打ちだけ残して去っていった。
サフィラは少しだけ目を伏せる。
「……相変わらずね」
ベルクは答えない。
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さらに歩いた先。
ひときわ大きな屋敷が見えてきた。
壁は白く磨かれ、水路が幾重にも巡っている。
庭には緑。
入口には衛兵。
そして、屋敷の正面には、小さな滝みたいに水が流れていた。
エリオは目を疑う。
「……は?」
さっきまで、水一杯に苦しんでいた人たちがいた。
その同じ国で、ここだけ水が溢れている。
サフィラが顎で示した。
「あれが、ラシードの家よ」
全員が止まる。
リュカが呟く。
「大きい……」
プルは水を見て呆然としていた。
「ここ、飲み放題じゃん……」
「黙ってなさい」
ルルカが小声で叩く。
サフィラは皮肉っぽく笑った。
「完璧な男らしいわ」
「家柄もある」
「金もある」
「水もある」
「この国では、申し分ないでしょ」
一拍。
「だから、私も家族も逆らえない」
ベルクは黙ったまま、その屋敷を見上げている。
エリオは低く言った。
「……そんなの」
「完璧でもなんでもないだろ」
サフィラは振り返らずに言う。
「そう思うなら、明日会ってみればいいわ」
一拍。
「会わせてあげる」
誰も、すぐには返事をしなかった。
巨大な屋敷の上で、水だけが贅沢に流れ続けていた。




