第42話 サフィラ
市場のざわめきが、少しずつ戻り始めていた。
だが、その中心だけはまだ空気が止まっている。
褐色の女は、衛兵に銅貨を渡すと、何事もなかったようにこちらへ歩いてきた。
真っ直ぐ。
迷いなく。
砂布のすそが揺れるたび、乾いた香りがかすかに混じる。
そして――
ベルクの前で止まった。
じっと見る。
一拍。
「老けたわね」
ベルクは目を細めた。
「お前は変わらんな」
少しの沈黙。
ベルクが視線を逸らす。
「……そのカエル、助けてくれてありがとよ」
一拍。
「今日の寝床でも探しにいくか」
そのまま背を向けかけた。
だが、女の眉がぴくりと動く。
「嘘つき」
ベルクの足が止まる。
「そうやって、また逃げる気!?」
空気がぴんと張った。
エリオは思わず息を止めた。
言い返さないんじゃない。言い返せない――そんな止まり方に見えた。
エリオたちは思わず顔を見合わせる。
(誰!?)
⸻
その時だった。
プルが勢いよく手を挙げた。
「師匠です!」
「違う」
全員の声が綺麗に揃った。
リュカがプルの肩を押さえる。
「プルちゃん。ちょっと黙っていようか」
プルはしゅんとした。
「なんでだよぉ……今すごく大事な自己紹介だったのに……」
ルルカが口元を押さえる。
「ふふっ……」
張り詰めた空気が、少しだけ緩んだ。
⸻
女は小さく息を吐くと、今度はエリオたちへ向き直った。
「私はサフィラ」
「この街の案内人」
そこで、わざとらしくベルクを指した。
「そして昔、この男に逃げられた女よ」
ベルクが眉間に皺を寄せる。
「話を盛るな」
「盛ってない」
サフィラは即答した。
「婚約の話から逃げて消えたの、誰?」
ベルクは黙る。
エリオがぽつりと言った。
「最低だな」
「黙れ」
ベルクの返しが早い。
リュカは目をきらきらさせていた。
「えっ、えっ、何その話……!」
ルルカは面白そうに腕を組む。
「へぇ。そういう感じだったのね」
「お前も黙ってろ」
ベルクの声が少しだけ荒い。
それが余計に怪しかった。
⸻
サフィラの視線が、ふとベルクの腰へ落ちた。
刹那丸。
その柄で、小さな妖精のストラップが揺れている。
サフィラの目が止まった。
「……まだ付けてるんだ」
一拍。
「だったら、何でまだ持ってるのよ」
ベルクは答えない。
否定もしない。
ただ、ほんのわずかに視線を逸らした。
それだけで十分だった。
エリオはそのやり取りを見て、何も言わなかった。
リュカはまた別の意味できらきらしていた。
「これ、かなり深いやつじゃない?」
「深いわね」
ルルカが小さく頷く。
「お前ら楽しむな」
ベルクが低く言う。
⸻
サフィラは肩をすくめた。
「まあ、いいわ」
「昔の話だし」
そう言いながらも、声は少し硬い。
そして、何でもないことのように続けた。
「で、また来月、好きでもない男と結婚」
空気が止まった。
さっきまできらきらしていたリュカも固まる。
プルですら目を丸くした。
「えっ」
ベルクの表情が変わる。
ほんの少し。
でも確かに。
サフィラはそれに気づいているのかいないのか、小さく笑った。
「ま、どうでもいいけど」
「……あなたには、もう関係ないことよ」
軽く言う。
けれど、その声だけ少し震えていた。
ベルクは何も言えない。
言いかけて、飲み込んだ。
サフィラはそんな彼を見て、少しだけ鼻で笑う。
「相変わらずね」
ベルクの拳が、わずかに握られる。
⸻
沈黙を破ったのは、意外にもエリオだった。
「……どうでもよくないだろ」
サフィラが目を向ける。
エリオは少しだけ視線を泳がせた。
「いや、なんか……そういうの」
「どうでもいいって顔じゃないし」
サフィラは一瞬だけ黙った。
それから、ふっと笑う。
「素直ね、あんた」
プルが得意げに胸を張る。
「エリオは素直だよ!」
「お前が言うな」
ベルクが即座に叩く。
⸻
サフィラは砂風を避けるように布を押さえた。
「で、あんたたちは何しに来たの?」
ルルカが遠くのピラミッドへ視線を向ける。
「それはちょっと……」
サフィラは首をかしげた。
その時。
プルが胸を張る。
「おれらは竜の地に行くんだ」
ベルクが即座に睨む。
「おい、プル」
プルが固まる。
「これ言っちゃダメなやつ?」
サフィラの目が細くなる。
「……その言葉は二回目ね」
一同が止まる。
エリオが聞き返した。
「二回目?」
サフィラは少しだけ考えるように黙る。
「ある人に頼まれてるのよ」
「それ以上は、まだ言えないけど」
一拍。
「いいわ。あんたたちにこの街を案内してあげる」
「迷惑なら別にいいけど?」
エリオが一歩前に出る。
「何か知ってるなら教えてくれ」
ベルクが低く言う。
「エリオ、おい」
サフィラは鼻で笑った。
「決まりね」
「意気地なしは黙ってなさい」
ベルクだけが、納得していない顔をしていた。




