第41話 砂の国
船が岸へ近づくにつれ、空気が変わっていった。
肌を撫でる風は乾いている。
潮の匂いより先に、熱と砂の気配が届く。
「まもなくだ! 砂の国だ!」
船員の声が甲板に響いた。
一斉に視線が前へ向く。
さっきまで遠景だった砂の国が、
今はもう、目の前に迫っていた。
黄金の砂海。
白い建物群。
陽を跳ね返す巨大な城壁。
遠く、空を歪める熱気。
そのさらに向こう。
巨大な影が、砂の中に突き刺さるように立っていた。
ピラミッドだった。
あまりにも大きい。
街の向こうにあるはずなのに、空の一部みたいに見える。
プルが目を輝かせた。
「うひゃー!! ケロー!」
「はやく見ろよ、エリオー!」
一拍。
「……うん? 全部きなこ!?」
「違う。食うな」
ベルクが即答する。
プルは手すりに身を乗り出した。
「ちょっとだけ舐めるのは――」
「やめろ」
ルルカはため息をついた。
「そろそろ起きなさい、エリオ」
「置いていくわよ」
甲板の隅で横になっていたエリオが、大きく腕を伸ばした。
「ん……もうそんな時間?」
目をこすりながら身を起こす。
そのまま前を見て、目を見開いた。
「うわー……すごい」
一拍。
「リュカ、楽しみだな」
リュカは少しだけ顔を赤らめて、こくんと頷いた。
しかし、その横で。
ルルカだけは、浮かない顔をしていた。
「……変ね」
エリオが振り向く。
「何が?」
ルルカは目を細め、遠くの景色を見たまま言う。
「昔はもっと緑があった」
「ここは“砂のオアシス”って呼ばれてたのよ」
リュカが驚く。
「こんなに砂だらけなのに?」
「ええ」
ルルカは短く頷いた。
「乾いた国ではあったけど、こんな死んだ色じゃなかった」
その言葉が、胸に引っかかった。
砂の国。
ずっと砂の国だったわけじゃない。
何かが変わった。
しかも、かなり大きく。
エリオは遠くのピラミッドを見た。
陽炎の向こうで、それは何も言わずに立っている。
蒼刃が、腰でわずかに熱を持った気がした。
⸻
港に着くと、熱気が一気に押し寄せてきた。
石畳は白く、眩しい。
人の数も多い。
市場へ続く通りは、色と音で溢れていた。
香辛料の匂い。
仮面を売る露店。
砂上トカゲを引く商人。
見たことのない果物。
異国の楽器。
客引きの声。
「見て見て! これ何!?」
プルが店先へ飛びつく。
「丸いパンに砂ついてる!」
「それ香辛料よ!」
リュカが慌てて引き戻す。
目新しいものばかりで、歩いているだけでも頭が忙しい。
でも、その賑やかさの中に、妙なものが混ざっていた。
「冷水一杯! 銀貨三枚!」
商人の張り上げた声。
エリオが足を止める。
「高っ!?」
その横で、痩せた男が空の水袋を握りしめていた。
子どもを抱えた女が、値段を見て立ち尽くしている。
市場は明るい。
でもその明るさは、苦しさを隠していた。
笑顔と渇きが、同じ場所にあった。
ベルクが低く言う。
「顔に出てるぞ」
エリオは舌打ちしそうになるのを堪えた。
「……出るだろ、こんなの」
その時だった。
前の方で悲鳴が上がる。
「誰か!」
人がざわめく。
「この子、この子が……!」
人混みの隙間。
小さな子どもが倒れていた。
母親が真っ青な顔で抱き起こしている。
「息が……!」
リュカの足が、先に動いた。
「この子、苦しそう……!」
しゃがみこむ。
汗がひどい。
唇も乾いている。
助けたい。
でも――何をすればいいのか分からない。
手を伸ばしかけて、止まる。
その迷いを、横からすり抜ける影があった。
「下がって」
ルルカだった。
帽子の下の瞳が、まっすぐ子どもを見ている。
手をかざす。
淡い光が宿った。
柔らかな治癒の光が子どもを包む。
荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
母親がその場に崩れ落ちた。
「ありがとう……!」
「ありがとう……!」
リュカは、その光を息を呑んで見つめていた。
綺麗だった。
悔しいのに、その光は綺麗だった。
(私も……)
(私も、これができたら)
ルルカは子どもの額に触れたまま、短く言った。
「適性があるって言ったでしょ」
「焦らなければ、あなたにも届くわ」
リュカは小さく頷く。
だが、その時。
ルルカの眉がぴくりと動いた。
「……おかしいわね」
指先に青い光を集める。
今度は水の魔法。
だが――出ない。
「え?」
もう一度。
出ない。
ルルカの顔色が変わった。
「水魔法が……使えない?」
その言葉に、近くの商人が鼻で笑った。
「今さら気づいたのか」
ベルクがゆっくり振り向いた。
「……何だって?」
商人は肩をすくめる。
「見ろよ」
遠くを顎でしゃくる。
市場の隙間からでも、巨大なピラミッドは見えた。
「あれが現れてからだ」
「この国がおかしくなったのは」
ルルカの表情が固まる。
商人は冷めた目で続けた。
「雨は降らねぇ」
「井戸は枯れる」
「水魔法まで死んだ」
「今じゃ水は金より高い」
その横で、倒れた子どもの母親が水袋を握りしめていた。
ルルカが低く言う。
「これがこの国の現実ってわけね」
エリオは前へ出る。
「……なんだよ、それ」
ベルクが横目で見る。
「気持ちは分かるが、できねえこともある」
「受け入れろ」
エリオは拳を握る。
「そんなの、放っておいていいわけないだろ」
ベルクの手が肩にかかった。
「今暴れても何も変わらん」
「でも――」
「変えたいなら、まず知れ」
ベルクの声は低かった。
悔しい。
正しいのが分かるから、なおさら悔しい。
エリオは拳を握った。
⸻
市場の中央には、大きな掲示板が立っていた。
その前に人だかりができている。
プルがぴょんと跳ねる。
「なんかある!」
掲示板の中央。
目立つ紙が貼られていた。
【迷宮攻略者求む】
【地下未踏破層 調査金貨一〇〇〇枚】
エリオが目を見開く。
「金貨千枚……?」
プルはもう目を輝かせていた。
「宝だ!」
ルルカは遠くのピラミッドを見て、低く言った。
「……あれ、昔はなかった」
リュカが息を呑む。
国が変わった時期。
雨が止んだ時期。
水魔法が使えなくなった時期。
あれが現れてから、全部が狂い始めた気がした。
ベルクが眉をひそめる。
「おい。あのカエルはどうした?」
一同があたりを見渡す。
さっきまでいたはずのプルがいない。
ベルクが小さく舌打ちする。
「まったく……何かあっても知らんぞ」
エリオの胸が、ざわついた。
⸻
その時だった。
市場の端で、また騒ぎが起きる。
「そこの蛙! 止まれ!」
衛兵の怒鳴り声。
プルが固まった。
「えっ」
「冤罪だよ!?」
「お前、さっき屋台の串を三本食っただろ!」
「味見の範囲内だよ!」
「範囲超えてる!」
衛兵が詰め寄る。
プルは半泣きになる。
「ぐすっ……何か怒られた」
その時。
女の声が、人混みの向こうから飛んだ。
「その蛙、私の連れだけど?」
一拍。
「串代、これで足りる?」
小さく銅貨が鳴る。
プルがきょとんとする。
「えっ誰?」
衛兵は面倒そうに舌打ちした。
「めんどくさいことさせるなよ、カエル野郎」
人混みが、すっと割れた。
褐色の肌。
砂布をまとった長身。
腰には短剣。
強い目。
歩き方ひとつで、周囲の空気が変わる女だった。
リュカが目を凝らす。
「プルちゃん、あそこよ」
エリオが手を振る。
「おーい、プル!」
プルがぱっと顔を上げた。
「あっ、エリオだ」
彼女は真っ直ぐこちらへ歩いてきて――
ベルクだけを見た。
一拍。
「……へぇ」
その声は、乾いた空気の中でも妙にはっきり響いた。
「まだ生きてたんだ」
ベルクが固まる。
何も言わない。
でも、その沈黙だけで十分だった。
エリオたちは顔を見合わせる。
プルだけが場違いに嬉しそうに言った。
「知り合い!?」
褐色の女は視線を逸らさない。
ベルクも、逸らせなかった。
砂の国の熱気の中で。
止まっていた何かが、また動き出した気がした。




